宇久島村
うくじまむら
近世の村名で、初め福江藩領、のち同藩領と旗本五島領となる。史料上は宇久中・宇久島中などとも記され、宇久島・寺島などを含む一帯の村号であるが、平村・神浦村など七ヵ村の総称でもあった。慶長国絵図に「宇久」とみえ、高二千六三〇石余。寛永一四年(一六三七)の寺領検地帳(泊家文書)では祥雲寺二石余・宝林寺二石余・西光院四石余・能成院一三二石余・東漸庵二石余とある。万治二年(一六五九)の惣高積之帳に「宇久島中」とみえ、正保国絵図の高三千九〇石余・今高三千九七九石余。万治年間と推定される富江領分知以前の五島一円惣高帳では「宇久中」とし、高三千八七九石余のうち蔵入二千六一七石余・給地九七六石余・寺社領二八四石余、また大浜主水知行分として宇久梅ノ木村・宇久靭ノ木村がある。靭ノ木村は高一一九石余で、寛文五年(一六六五)靭木中島の百姓が荒地を開いて二〇ヵ年に及ぶことが判明、厳しく申渡しがなされたという(「寛文五年江戸御留守覚」五島編年史)。
寛文元年より一部が旗本五島領(富江領)となる。元禄一三年(一七〇〇)の宇久島高辻目録では高二千六五八石余のうち田八一八石余・本畠一千二二八石余・屋敷一七石余・野畠二六〇石余で、うち寺社領二六九石余・蔵入一千一八六石余・給地分一千一〇四石余・村々小知行分四五石余・屋敷高五〇石余、また鯨船挽場五斗余・水神祭田四斗余など。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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