安満庄
あまのしよう
檜尾川左岸に広がる摂関家領庄園で、庄域は近世の成合村から安満・下・古曾部・別所・野田・東天川・西天川各村にわたるものと推定される。領有関係がわかるのは康暦三年(一三八一)以降で、奈良春日社領としてその姿を現す(同年九月二九日「摂津国守護渋川満願奉行人連署奉書案」京都大学蔵一条院文書)。その規模や構造が明らかになるのは応永年間(一三九四―一四二八)になってからである。欠年安満庄目録案(天理大学図書館蔵保井文庫文書)によると、当庄は総面積が九六町九反余に及ぶ巨大なもので、そのなかに五町五反余の庄園領主直属地たる佃があり、佃を除いた九一町歩余は三〇の名に編成されていたが、そのうち百姓名は四四町二反余・二五名、反別定斗代三斗四升二合の年貢を納入するほか、春に名別一二〇文と秋に名別一五〇文の月別銭の納入が課されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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