小槻氏 (おづきうじ)
平安時代から江戸時代末まで官務(太政官の史(し)の最上首)を世襲した氏族。垂仁天皇の皇子於知別命の後といい,近江国栗太郡の豪族小槻山公より出る。873年(貞観15)今雄が本居を左京に移し,ついで阿保朝臣と改姓したが,その子当平が再び小槻宿禰(すくね)と改め,以後永くこの姓を称したので,禰家(でいけ)とも呼ばれた。平安時代初めころより算道出身の官人を輩出し,ついで今雄が右大史兼算博士に任ぜられてからは,代々太政官の史と算博士を世襲したが,さらに今雄の玄孫奉親(ともちか)が大夫史(五位の左大史。のち官務という)になってからは,同氏長者が官務を世襲する例となり,鎌倉時代以降は主殿(とのも)頭を兼ねて,両職をほぼ独占世襲するに至った。鎌倉時代の初め,隆職(たかもと)が一時官務を罷免され,その兄永業の子広房がこれに代わったため,同氏は隆職流の壬生(みぶ)家と広房流の大宮家に分かれ,氏長者と官務の地位を争ったが,1551年(天文20)大宮伊治の死没によって大宮家は断絶し,官務家は壬生一流に帰した。壬生官務家は江戸時代においても地下(じげ)官人を率いて朝廷の朝儀,公事の運営を支えたが,明治維新後華族に列し,男爵を授けられた。この間,小槻氏は官中文書を保管襲蔵し,先例勘申を任としたので,〈明鏡家〉とも称された。その壬生家に伝えられた文書類は壬生官庫に納められて,朝野の厚い保護をうけたが,現在その大半は宮内庁書陵部に収蔵され,一部は京都大学文学部に架蔵されている。また小槻氏では,古来今雄を始祖と仰いで近江の雄琴社にまつり,氏寺法光寺および苗鹿荘とともに氏長者がこれを管領したが,中世の壬生家は,ほかに若狭国国富荘以下の官中所領二十数ヵ所,山城国小野荘以下の主殿寮領十数ヵ所等を知行し,公私の要用に充てたので,太政官の史は実収の多い地位として下級官人の羨望するところとなった。《晴富宿禰記》18巻をはじめ,室町~江戸時代の歴代官務の自筆日記が伝存している。
→壬生家
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
小槻氏
おづきうじ
平安前期以降に活躍した事務官僚氏族。もと近江国栗太(くるもと)郡を本拠とする地方豪族で,本姓は小槻山公(やまのきみ)。873年(貞観15)に左少史兼算博士今雄(いまお)らが平安京に居を移し,翌々年に阿保朝臣(あぼのあそん)の姓を賜って以来,その一族は算道(さんどう)から出身して大少史や主計・主税両寮官人,算博士などを歴任。今雄の子当平(まさひら)以後は小槻宿禰(すくね)を称し,禰家(でいけ)ともよばれたが,10世紀末に当平の曾孫奉親(ともちか)が官務(かんむ)(史の上首である大夫史)となってからは,代々小槻氏の長者が世襲し,官務家と称された。鎌倉時代の初めに同氏は壬生(みぶ)家と大宮家にわかれるが,後者は16世紀半ばに断絶し,以後壬生家が幕末期まで官務を独占した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
小槻氏
おづきうじ
近江,常陸などに散在。前者は垂仁天皇に始るという。宿禰姓の小槻氏は,平安時代以来,もっぱら官務を司り,史職を踏襲し,姓にちなんで「禰家 (でいけ) 」と称せられた。 (→壬生家 )
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世界大百科事典(旧版)内の小槻氏の言及
【雄琴】より
…滋賀県大津市北部の地名。9世紀後半に[小槻氏]が開発した土地で,ここの地主権現社(雄琴神社)は小槻氏始祖の今雄を祭神としており,また今雄が863年(貞観5)に創建した氏寺の法光寺が南接する苗鹿(のうか)村にある。12世紀初頭,祐俊のときに雄琴荘および苗鹿村は法光寺領として,小槻氏氏長者が支配することが決められている。…
【算道】より
…しかし平安中期より三善・小槻両氏から算博士が任ぜられるようになった。[三善氏]は学問的な算道を伝え,[小槻氏]は《職原鈔》に〈諸国調賦算勘の為,其職に居る〉といわれるように,実用的な方面であったらしい。しかし律令制の衰退とともにその実を失っていった。…
【主殿寮】より
…官司の所在地は,平安宮では北面東門の達智門を入って東側の地であった。鎌倉初期以降,官務家[小槻(おづき)氏]が主殿頭を世襲した。同氏が知行した主殿寮領には,主殿寮敷地,薪炭山の小野山,小野荘,官田の山城国散在田畠,諸国例進の油・大粮米の便補保(びんぽのほ)の近江国押立保,安芸国入江保などがある。…
【新見荘】より
…平安時代の末ころ,大中臣孝正の開発した所といわれ,孝正はこれを官務家の小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進した。小槻隆職はさらに上級の権門の保護を得るため,建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする最勝光院に寄進,かくして新見荘は最勝光院を本家,小槻氏を領家とする荘園となった。鎌倉中~末期には地頭との間に下地中分が行われ,東方を地頭方,西方を領家方とした。…
【文殿】より
…その公文・雑書とは,年中発給する宣旨・官符の本書・草案,諸国より進上する税帳・大帳等,および朝儀・公事の記録などを指し,史はこれらの文書・記録によって公文を作成し,先例を勘申した。平安中期以降,大夫史(のちの官務)が文殿の別当に任じ,ついで[小槻(おづき)氏]が大夫史を世襲するに及び,事実上同氏が官文書を進退相伝し,ことに1226年(嘉禄2)官文殿の焼亡廃絶後は,官務文庫がその機能を代替するに至った。なお鎌倉初期に小槻氏が壬生(みぶ)・大宮両家に分かれたため,官文書は両家に伝えられたが,大宮家は室町末期に断絶して相伝の文書も散逸し,朝野の保護をうけて壬生官庫に伝えられた文書・記録類が,現在宮内庁書陵部,京都大学等に伝蔵されている。…
【壬生家】より
…(1)本姓小槻(おづき)氏。鎌倉時代の初めより左大史,算博士および主殿(とのも)頭を世職とした地下(じげ)官人家。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」