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小槻氏 おづきうじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小槻氏
おづきうじ

近江,常陸などに散在。前者は垂仁天皇に始るという。宿禰姓の小槻氏は,平安時代以来,もっぱら官務を司り,史職を踏襲し,姓にちなんで「禰家 (でいけ) 」と称せられた。 (→壬生家 )

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世界大百科事典 第2版の解説

おづきうじ【小槻氏】

平安時代から江戸時代末まで官務(太政官の(し)の最上首)を世襲した氏族。垂仁天皇の皇子於知別命の後といい,近江国栗太郡の豪族小槻山公より出る。873年(貞観15)今雄が本居左京に移し,ついで阿保朝臣と改姓したが,その子当平が再び小槻宿禰(すくね)と改め,以後永くこの姓を称したので,禰家(でいけ)ともよばれた。平安時代初めころより算道出身の官人を輩出し,ついで今雄が右大史兼算博士に任ぜられてからは,代々太政官の史と算博士を世襲したが,さらに今雄の玄孫奉親(ともちか)が大夫史(五位の左大史。

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世界大百科事典内の小槻氏の言及

【雄琴】より

…滋賀県大津市北部の地名。9世紀後半に小槻氏が開発した土地で,ここの地主権現社(雄琴神社)は小槻氏始祖の今雄を祭神としており,また今雄が863年(貞観5)に創建した氏寺の法光寺が南接する苗鹿(のうか)村にある。12世紀初頭,祐俊のときに雄琴荘および苗鹿村は法光寺領として,小槻氏氏長者が支配することが決められている。…

【算道】より

…しかし平安中期より三善・小槻両氏から算博士が任ぜられるようになった。三善氏は学問的な算道を伝え,小槻氏は《職原鈔》に〈諸国調賦算勘の為,其職に居る〉といわれるように,実用的な方面であったらしい。しかし律令制の衰退とともにその実を失っていった。…

【主殿寮】より

…官司の所在地は,平安宮では北面東門の達智門を入って東側の地であった。鎌倉初期以降,官務家小槻(おづき)氏が主殿頭を世襲した。同氏が知行した主殿寮領には,主殿寮敷地,薪炭山の小野山,小野荘,官田の山城国散在田畠,諸国例進の油・大粮米の便補保(びんぽのほ)の近江国押立保,安芸国入江保などがある。…

【新見荘】より

…平安時代の末ころ,大中臣孝正の開発した所といわれ,孝正はこれを官務家の小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進した。小槻隆職はさらに上級の権門の保護を得るため,建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする最勝光院に寄進,かくして新見荘は最勝光院を本家,小槻氏を領家とする荘園となった。鎌倉中~末期には地頭との間に下地中分が行われ,東方を地頭方,西方を領家方とした。…

【文殿】より

…その公文・雑書とは,年中発給する宣旨・官符の本書・草案,諸国より進上する税帳・大帳等,および朝儀・公事の記録などを指し,史はこれらの文書・記録によって公文を作成し,先例を勘申した。平安中期以降,大夫史(のちの官務)が文殿の別当に任じ,ついで小槻(おづき)氏が大夫史を世襲するに及び,事実上同氏が官文書を進退相伝し,ことに1226年(嘉禄2)官文殿の焼亡廃絶後は,官務文庫がその機能を代替するに至った。なお鎌倉初期に小槻氏が壬生(みぶ)・大宮両家に分かれたため,官文書は両家に伝えられたが,大宮家は室町末期に断絶して相伝の文書も散逸し,朝野の保護をうけて壬生官庫に伝えられた文書・記録類が,現在宮内庁書陵部,京都大学等に伝蔵されている。…

【壬生家】より

…(1)本姓小槻(おづき)氏。鎌倉時代の初めより左大史,算博士および主殿(とのも)頭を世職とした地下(じげ)官人家。…

※「小槻氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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