宝川村(読み)ほうがわむら

日本歴史地名大系 「宝川村」の解説

宝川村
ほうがわむら

[現在地名]西会津町宝坂宝坂ほうさかほうさか

白坂しらさか村の西に位置し、海道組に属した。西は鳥居とりい峠を境に越後国蒲原かんばら八田やつだ(現新潟県津川町)。古くはさかい村と称していたが、のちに小原村と改め、大永二年(一五二二)宝川と改称したという(温故拾要抄)。一方、「新編会津風土記」では、かつて開宝峠・下宝川・古屋敷・遠瀬戸の四区の集落からなっていたが、慶長年中(一五九六―一六一五)現在地に集落を移して宝川に改めたとする。


宝川村
たからかわむら

[現在地名]秋田市下北手宝川しもきたてたからかわ

太平たいへい川の支流、宝川の上流域に集落が点在する。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)の湊兵右衛門代官所分に宝川村の名がみえる。慶長三年(一五九八)の御蔵入御物成納口之帳に「たから川村」、同六年の秋田実季侍分限(秋田家文書)豊島としま庄の内に「田からが村」とある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には二二五石とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は家数二三軒とある。文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」には、「高二百十二石元二百三十石九斗四升と云、免六ツ五歩、田水沢川、家居二十三戸、人百十口、馬十八頭、農業の暇薪を久保田にひさく」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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