実業之日本(読み)じつぎょうのにほん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「実業之日本」の意味・わかりやすい解説

実業之日本
じつぎょうのにほん

1897年(明治30)6月に創刊された経済雑誌。発行所は大日本実業学会、発行人は光岡威一郎(いいちろう)。本誌によって、英語のbusinessにあたる「実業」ということばが普及したといわれる。光岡は病に倒れ、学友増田義一(ぎいち)に雑誌の編集・発行権を譲渡し、増田実業之日本社を設立、雑誌の刊行を引き継いだ。その後増田は成功者の苦心談、成功の秘訣(ひけつ)などの記事を掲載し、好評を博して編集方針を確立した。実業界の青年に俸給生活の安易につくことを戒め、自ら独自の進路を発見し、進んで艱難(かんなん)を冒すことを説いた。当初は月刊、1899年から月2回となったが、1945年(昭和20)月刊に復し、48年ふたたび月2回刊となる。64年『実業の日本』と誌名を改めたが、2002年(平成14)に休刊となった。実業之日本社は他部門にも進出し、1909年(明治42)には新渡戸稲造(にとべいなぞう)を顧問に迎えた。第二次世界大戦後はより総合的な出版社になった。

[京谷秀夫]

『実業之日本社編・刊『実業之日本社七十年』(1967)』

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改訂新版 世界大百科事典 「実業之日本」の意味・わかりやすい解説

実業之日本 (じつぎょうのにほん)

1897年,読売新聞記者であった増田義一(1869-1949)と光岡威一郎(1869-1900)が設立した大日本実業学会から〈実業の発達振興〉をめざして創刊された月刊雑誌。編集兼発行人光岡威一郎。四六倍判,本文50ページ。定価10銭。資本主義形成期の時代背景もあって好評を博した。1900年,増田義一が雑誌発行に関するいっさいの権利を光岡から譲り受け,あらたに実業之日本社(現在の所在地,東京都中央区銀座)を設立して雑誌の発行を継続した。1899年から月2回刊にしたが,1945年6月に月1回刊になり,48年から再び月2回刊に復帰した。65年7月誌名を《実業の日本》に改めた。
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百科事典マイペディア 「実業之日本」の意味・わかりやすい解説

実業之日本【じつぎょうのにほん】

1897年6月に創刊された経済雑誌。光岡威一郎〔1869-1900〕を中心に創設された大日本実業学会から発行。光岡が病に倒れた後は友人の増田義一〔1869-1949〕が引き継ぎ,実業之日本社を創設した。はじめは月刊で,1899年から月2回の発行となる。実業人の修養雑誌としても人気を博し,実業之日本社発行の他の雑誌や書籍とともに,明治末期から大正初期にかけて博文館に代わる実業之日本社時代を築いた。〈実業〉という言葉を普及させ,1909年からは新渡戸稲造を顧問に迎えた。1964年に《実業の日本》へ改称。現在の実業之日本社は総合出版社として,一般図書の発行にも力を入れている。

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