教育家、農政学者。文久(ぶんきゅう)2年9月1日、盛岡(岩手県盛岡市)に生まれる。東京英語学校を経て、1881年(明治14)札幌農学校卒業。同農学校在学中、内村鑑三(うちむらかんぞう)らとともに受洗し、キリスト者となる。1883年東京大学に入学するも飽き足らず、翌1884年退学し、アメリカに留学。留学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、農政学研究のためさらにドイツに留学。1891年帰国し、同校教授となる。1901年(明治34)台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画。1906年第一高等学校校長となり、7年間在職。1909年より東京帝国大学教授として植民政策を講じる。1918年(大正7)東京女子大学学長。一方、「太平洋の橋たらん」との信念のもとに、国際連盟事務次長(1920~1926)あるいは太平洋問題調査会理事長(1929~1933)として、国際理解と世界平和のために活躍した。1933年(昭和8)カナダで開かれた太平洋会議に出席したあと病を得て、同年10月16日同地にて死去。日本における農政学、植民政策論の先駆者であり、最初の農学博士として著名であるのみならず、理想主義、人格主義の思想家であり、たぐいまれな指導者として、学生・生徒に思想的、人格的感化を与え、さらに著述を通して多くの青年男女に大きな影響を与えた。主著に『農業本論』(1898)、『武士道』(1900)、『修養』(1911)などがある。
[三原芳一 2018年3月19日]
『『新渡戸稲造全集』23巻、別巻2(1969~2001・教文館)』▽『東京女子大学新渡戸稲造研究会編『新渡戸稲造研究』(1969・春秋社)』▽『松隈俊子著『新渡戸稲造』(1969/オンデマンド版・2010・みすず書房)』▽『鈴木範久編『新渡戸稲造論集』(岩波文庫)』
農業経済学者,教育家。南部藩出身で,札幌農学校に学び,札幌バンドの一人となる。1884年東大を中退し,アメリカ,ドイツの諸大学で特に農業経済学,統計学を学び,その間札幌農学校助教授になる。1901年台湾総督府に招かれ,糖業により統治の経済的基礎を確立。03年京都帝大教授,06年一高校長を経て,東京帝大教授となり植民政策講座を担当した。18年には初代の東京女子大学学長に迎えられた。また国際連盟事務局次長(1920-26),ついで帝国学士院会員,貴族院議員となり,太平洋問題調査会の理事長として〈太平洋の橋〉になろうとした。彼は札幌時代における信仰上の懐疑と母の死の悲しみを,カーライルの《衣装哲学》のいう〈悲哀の中の慰め〉によって解決の方向を見いだし,クエーカーの神秘主義や人道主義で魂の安住を得た。そしてこの万人に内在する光への黙想の立場が宇宙の生命との一体を説く東洋思想に通じると考え,武士道を日本のよき精神的伝統とし,それを育成するものとしてキリスト教をとらえ,そこに東西文明の交流の方法を考えた。また,個性のある豊かな教養と確かな見識をもつ人間教育の重要性を唱え,大学では人間として苦しみ,そこで得た人間観,価値観を語り,一高では野心に満ちた学生,煩悶する学生に高遠な理想と自己反省を教え,一般社会では人間らしい世渡りの道と修養のたいせつさを通俗的に説いた。同時に地方の夜間学校教育,女子教育に深い関係を持ち続けた。《農業本論》(1898),《武士道--日本の魂》(英文,1899),《修養》(1911)などの著書がある。
執筆者:土肥 昭夫
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明治〜昭和期の教育家,農学者 一高校長;東京女子大学初代学長。
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(松川成夫)
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1862.8.8~1933.10.15
明治~昭和前期の教育家・思想家。陸奥国岩手郡生れ。札幌農学校在学中に受洗。東京大学選科生として美学・統計学などを学ぶが,1883年(明治16)退学し,アメリカ・ドイツへ留学,アメリカでクエーカー教徒となる。経済学・歴史学・文学・農政学などを学び,91年帰国。札幌農学校教授・京都帝国大学教授をへて,1906年一高校長に就任。人格主義教育で多大な影響を与えた。09年から東京帝国大学教授を兼務。11年最初の日米交換教授としてアメリカ各地の大学で講義する。18年(大正7)東京女子大学初代学長に就任。20年国際連盟事務次長,26年(昭和元)貴族院議員となる。33年日本代表として太平洋問題調査会の国際会議出席のためカナダ滞在中に客死した。84年発行の5000円札図案の肖像となる。
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… ところが明治以来の日本では,欧米の近代化とその科学理論の普遍性に目を奪われるあまり,それらの母体に,古い地方的なもののあることが見のがされる傾向が強かった。1910年以来,新渡戸稲造柳田国男らが結成した郷土会の活躍が,この点で注目をひく。郷土会は,中央文化への偏重や近代科学の表面的な摂取を退け,郷土の実地調査をもとに生きた土着の価値を掘りあてようとする集いで,各地の調査報告を収録した雑誌《郷土研究》も発刊されるにいたった。…
…活動の内容は定期的に国際会議を開催して,各国の代表者による討論を行うこと,および太平洋関係諸問題に関する学術的調査研究であった。日本支部の創立は1926年,日米関係に強い関心を抱く財界有力者や自由主義的知識人の支持と参加を得て設立され,井上準之助や新渡戸稲造が理事長を務めた。日本の中国侵略とそれに伴うアメリカ,イギリスとの緊張激化により,国内の活動は衰え,38年以後は事実上同会を脱退するにいたり,第2次大戦後1950年に復帰した。…
…〈匪徒刑罰令〉を行使して抗日ゲリラを問答無用で刑死に追い込む一方,地主士紳層には〈饗老典〉(耆老を集め酒宴や菓銭を供与),〈揚文会〉(漢詩を士紳儒者らと吟じる会)を開催し,紳章(一種の勲章)の佩帯をすすめるなどのあめをしゃぶらせて懐柔を試みた。治安の確立と並行しながら,後藤は新渡戸稲造(にとべいなぞう)を殖産局長に迎え,糖業を振興する。植民地開発の進展に伴い,砂糖,ショウノウ,茶は外貨の面で,台湾米は米騒動後の緊急事態に対し,そして木材などの資源は日本資本主義を大いに潤した。…
…1910年イギリスで開催された世界宣教師大会での女子高等教育機関設置の提議にこたえ,すでに日本で高等女学校を経営していたアメリカ,カナダのプロテスタント6教派代表と日本側有志との協力のもとに,18年東京角筈(つのはず)に開設された。初代学長に新渡戸稲造,学監に安井てつ(のち2代学長)を迎え,英文科,人文科,国文科,実務科あわせて76人の学生によってスタートしたが,キリスト教主義にたった個性の重視,人格の尊重,犠牲sacrificeと奉仕serviceの強調などの建学精神は,その後の伝統的学風となった。24年現在地に移転。…
※「新渡戸稲造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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