宮丸村
みやまるむら
[現在地名]都城市宮丸町・松元町・上町・中町・牟田町・大王町・前田町・中原町・小松原町・北原町・栄町・平江町・天神町・蔵原町・東町・八幡町・志比田町・鷹尾一―五丁目・都島町
北流する大淀川に東から西流してきた年見川が合流する地域一帯にある。東は上長飯村、西は横市村、南は下長飯村、北は川東村。都城島津氏の領主館の西側を含み、郭内の一部でもあった。領主館の北東から西に高木方面へと薩摩街道が当村を斜めに横切るように通る。村名は、神代の宮所、高千穂宮があったことに由来すると伝える(三国名勝図会)。また宮丸は、北郷氏の始祖資忠に所領を譲り興金寺付近に隠退した宮丸蔵人道時の祖先伝来の地であったともいう(都城市史)。
貞治四年(一三六五)閏九月二六日の島津氏久宛行状(樺山文書)によれば、氏久は樺山音久に「北郷北方内村々」を給分として安堵した。このときの北郷北方相分注文(同文書)には、北郷北方相分一方として本名宮丸名内の善阿作・右馬允・怒久水田(除得益給定)の八町七反を含む計一五町一反余と請分二ヵ所がみえる。なおこの以前貞治三年七月二五日に音久は父北郷道明から北郷三分一を譲与されていた(「北郷道明譲状」同文書)。一方、島津庄の庄官の系譜をひく富山氏が宮丸名内の富永・成清を代々知行しており、応安八年(一三七五)三月一一日島津氏久を通して幕府の安堵を申請している(「島津氏久挙状」富山文書)。明徳五年(一三九四)四月七日、今川方との合戦のため当地に入部した島津元久は、樺山音久に宮丸名が闕所となった場合には本給人分を除き宛行うことを約束し、北郷内高同名吉富を安堵(「島津元久宛行状」樺山文書)。
宮丸村
みやまるむら
[現在地名]砺波市宮丸
木下村の東、千保川跡と新又川跡の間の微高地に位置する。元和五年(一六一九)の家高新帳に宮丸とみえ、開発組に属し役家数三。正保郷帳では高二一二石余、田方一三町余・畑方一町一反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三一九石・免四ツ二歩、小物成は鮎川役四匁・鱒役一匁(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には五軒五歩、うち無家役五歩(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。
宮丸村
みやまるむら
[現在地名]松任市宮丸町
村井村の西に位置し、山島用水の分流中川と南川が貫流する田園地帯。垣内として布橋・新田・免田・道村があり(一木村誌)、北陸街道が通る。中世は宮丸保が成立。正保郷帳では高一千七七五石余、田方一一五町余・畑方三町三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(宮本文書)では高一千八二五石、免五ツ七歩、小物成は鳥役二五匁(ただし鷹場につき免除)。寛文年間の家高数二七・百姓数六六(高免付給人帳)。天保九年(一八三八)に飢饉があり、本吉御蔵(現美川町)から御救米が支給されることになり、当村孫右衛門らが割付人となった。このとき当村へは四三石余が割当てられた(宮本文書)。「皇国地誌」によると家数一一七・人数五五一。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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