富山郷(読み)とやまごう

日本歴史地名大系 「富山郷」の解説

富山郷
とやまごう

太田おおた保の内で、東はいたち川、西と北は旧神通川、南は四ッ谷よつや川に囲まれた地域と思われる。応永五年(一三九八)五月三日の吉見詮頼寄進状(富山市郷土博物館蔵)に「越中国外山郷地頭職」とみえる。それによると、吉見氏頼(法名道源)が戦功の賞として将軍よりこの地を拝領し、子息詮頼に伝えた。吉見氏は観応三年(一三五二)以後康暦元年(一三七九)まで能登守護職にあり、一貫して足利尊氏・義詮方について越中桃井直常方の鎮定作戦に従事した。右の戦功とはその桃井討伐の恩賞であった。同地地頭職を詮頼は足利尊氏の分骨を祀った真言宗寺院東岩倉ひがしいわくら(現京都市左京区。観勝寺とも)に寄進した。それは亡父菩提を弔い、かつ永和三年(一三七七)に失った能登守護職回復を祈願するという「心中所願成就」のためであった。応永五年一二月一七日の越中守護畠山基国遵行状(相州文書)に「東岩蔵寺領越中国□□保内富山郷太田小次郎入道跡」とあり、太田保の開発領主太田氏が南北朝動乱の過程で桃井方にくみしたため所領を没収され、富山郷も東岩倉寺領とされた。以上から富山郷は太田氏の根本所領であったとみられる。

以上二通の文書により、当郷はほぼ一円的に東岩倉寺領になったと推測されるが、実際上知行権は将軍家に掌握されていた。永享二年(一四三〇)六月九日将軍足利義教は「富山柳町」を側室瑞春院藤原尹子に与えた(「足利義教御内書」二尊院文書)嘉吉の乱後の嘉吉三年(一四四三)一〇月足利義教・同義勝および父正親町三条公雅の菩提料所として、同所は瑞春院から浄土宗二尊にそん(現京都市右京区)に寄進された(同月二八日「瑞春院寄進状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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