日本歴史地名大系 「柳町」の解説
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
嘉吉三年(一四四三)一〇月、瑞春院は足利義教・同義勝、および父正親町三条公雅の菩提料所として、「とやまやなきまち」を浄土宗
柳町
やなぎまち
能代町の南部、東に
享保七年(一七二二)の能代町絵図(能代市役所蔵)に柳町とあり、同一五年の「六郡郡邑記」に、貞享三年(一六八六)の成立で、一三〇軒とある。享保一三年の能代町絵図(能代市役所蔵)によると、畑町と鍛冶町を結んで東西に走る道の両側に町屋が並び、中ほどの南側に八幡社地があり、そこからやや西側にイナリ前通が横断している。町の北側の町屋の後ろに東西に走る小路があり、その北側は赤館町との間に
文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)によると、東は畑町から下りる坂が三一間、その下から町屋まで五〇間ある。
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎちよう
南北に通る東中筋通を挟む両側町。町の北側は
平安京の条坊では、左京七条二坊四保一五町の地。当町全域は平安中期の武将源頼義の邸宅であった。「長命発心集」に
近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち学林組に所属。地子屋敷町。寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「天使突抜二丁目」、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図には「東中筋二丁目」の名がみえるが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には現町名「柳町」の名が記される。
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
町並の長さは一四一間。町場は
町並西端北側の角に
柳町
やなぎまち
出石川(現在の谷山川)の東岸を占める武家町で、北に
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
町人町水沢六町の一で、
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎちよう
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
柳町
やなぎまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報