柳町(読み)やなぎまち

日本歴史地名大系 「柳町」の解説

柳町
やなぎまち

[現在地名]甲府市中央ちゆうおう二丁目・同四丁目

竪近習たつきんじゆ町の南に続く南北の長い通りの町人地で、下府中二三町の一町。さん土居内どいない町で西は二ノ堀に近接する。交差する東西の通りの山田町ようだまち通から八日町ようかまち通までが一丁目、次いで三日町みつかまち通・上連雀町かみれんじやくまち通・三ノ堀までがそれぞれ二丁目・三丁目・四丁目となる。南はみどり町。町名は古府中こふちゆうから名を移したといい、寛永一三年(一六三六)に伝馬請負証文(県立図書館蔵)を差出している柳町の名がみえる。甲州道中の宿駅が置かれ、「裏見寒話」に「府中にての伝馬町」といわれた当町は東の八日町とともに城下の中心街をなした。元禄五年(一六九二)の上下町中屋敷値段の書上(「御用留」坂田家文書)によると、八日町一丁目とこれに続く当町二―三丁目の屋敷値段が際立って高価格であった。享和三年(一八〇三)の小間数は東側二五〇間余・西側二九〇間半、三丁目横町三四間(「小間数書上帳」県立図書館蔵)。貞享三年(一六八六)の町中諸問屋改帳(同館蔵)に穀問屋九・紙問屋二・塩問屋二、元禄六年(一六九三)には右の穀問屋九のほかに信州酒問屋三・両替屋四が記されるように(「信州穀酒問屋并両替屋書上帳」同館蔵)、大商人が集中していた。


柳町
やなぎまち

[現在地名]博多区大博町たいはくまち石城町せきじようまち下呉服町しもごふくまち

竪町浜たてちようはま・竪町下の東方、石堂いしどう(御笠川)の左岸に位置する遊女町。大浜おおはまの通りが竪町の通りを横切って東に延び、すぐに南に折れたところに表門があり、またすぐに東に折れて石堂川に突き当る東西路の両側に家並が形成されていた(福岡博多近隣古図など)。面役免除の町で(石城遺聞)、「筑陽記」は九流に属さない町と記す。「続風土記」「石城志」でも流に属さない町に扱われるが、「続風土記附録」「続風土記拾遺」では新町流の一町とする。石堂川沿いには裏門があり、川縁とは石段で往来できたようである(筑前名所図会)。また名島なじま道の出入口で博多七口の一つにあげられるたつノ口(石城志)は当町辺りにあったとも考えられる(「筑前国福岡区地誌」「地理全誌」など)。元禄三年(一六九〇)の家数一九・間数七〇間余、遊女六七人(続風土記)。明和三年(一七六六)には家数一九、遊女八三人(石城志)。「続風土記附録」では亡八(遊女屋)の家数一四、遊女九二人。


柳町
やなぎまち

[現在地名]富山市柳町一―四丁目・於保多町おおたまち

いたち川の右岸、上り立あがりたて町の東に続く。北陸街道(巡見使道)に沿う両側町でやや北に寄りながら東西に延び、東は稲荷いなり町。田地方のうち。柳町の地名は室町時代からみえる。永享二年(一四三〇)将軍足利義教が「富山柳町」を上臈(側室瑞春院藤原尹子)に与えており(六月九日「足利義教御内書」二尊院文書)、柳町は当地に比定される。以後も「富山柳町」として史料に登場するが、文明一五年(一四八三)二月一五日の三鈷寺住持善空置文(三鈷寺文書)に「富山柳町之両所」とあるので、富山郷と柳町に区分されていたことがわかる。境界は鼬川であろう。

嘉吉三年(一四四三)一〇月、瑞春院は足利義教・同義勝、および父正親町三条公雅の菩提料所として、「とやまやなきまち」を浄土宗二尊にそん(現京都市右京区)に寄進した(同月二八日「瑞春院寄進状」二尊院文書)


柳町
やなぎまち

[現在地名]能代市柳町

能代町の南部、東にはた町、北に赤館あかだて町があり、南は後谷地うしろやち

享保七年(一七二二)能代町絵図(能代市役所蔵)に柳町とあり、同一五年の「六郡郡邑記」に、貞享三年(一六八六)の成立で、一三〇軒とある。享保一三年の能代町絵図(能代市役所蔵)によると、畑町と鍛冶町を結んで東西に走る道の両側に町屋が並び、中ほどの南側に八幡社地があり、そこからやや西側にイナリ前通が横断している。町の北側の町屋の後ろに東西に走る小路があり、その北側は赤館町との間に光明こうみよう院・明神社地・稲荷いなり社地が並ぶ。稲荷社地はイナリ前通に面する。

文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)によると、東は畑町から下りる坂が三一間、その下から町屋まで五〇間ある。


柳町
やなぎまち

[現在地名]仙台市一番町いちばんちよう一丁目・片平かたひら二丁目

みなみ町の南に接し、当町で東折する通町とおりまち(奥州街道)の両側町で、北裏・南裏とも侍屋敷が並ぶ。町並の長さは二町(奥陽名数)。町方二四町の六番目に列し、譜代町六町の一であった(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)。名の由来は不詳だが、由緒は米沢城下以来のおお町・南町などとともに古く、若林わかばやし城普請の寛永四、五年(一六二七、二八)頃に旧柳町(元柳町、現立町など)より現在地に移住したという(仙台鹿の子)。町の規模は元禄八年(一六九五)の軒数四三・検断二・肝入一(同書)、明和九年(一七七二)の宅地四六、男四〇八、女二七九(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)では家数二二三のうち蔵四一、弘化二年(一八四五)の軒数六三(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭六〇人、人数五〇六(切支丹宗門改人数)


柳町
やなぎちよう

下京区東中筋通花屋町下ル

南北に通る東中筋通を挟む両側町。町の北側は旧花屋町きゆうはなやちよう(旧左女牛小路)に、南側は正面しようめん(旧七条坊門小路)に面する。

平安京の条坊では、左京七条二坊四保一五町の地。当町全域は平安中期の武将源頼義の邸宅であった。「長命発心集」に佐女牛西洞院さめうしにしのとういんとある。「本朝世紀」仁平二年(一一五二)二月五日条には「子剋、佐牝牛南油小路東西有焼亡」と、当町付近の火事の記述がみえる。

近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち学林組に所属。地子屋敷町。寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「天使突抜二丁目」、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図には「東中筋二丁目」の名がみえるが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には現町名「柳町」の名が記される。


柳町
やなぎまち

[現在地名]横手市中央ちゆうおう

四日よつか町の西裏にあたるうしろ町通に直交する道と、馬口労町ばくろうまち通の北に続く道に沿った町。当町と北の横手川との間に牢屋(のちの字町尻まちじり)があり(元禄一七年の横手城下絵図)、そこが外町北西端であった。寛文九年(一六六九)の横手絵図面(横手郷土史資料)に柳町の町名がみえ、家数一七戸。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に、家数二七軒、町の長さ九二間とある。


柳町
やなぎまち

[現在地名]福島市柳町

北上する奥州道中があら(須川)を渡り、福島城下に入って最初の町。南北に延びる両側町で、南端は江戸口あるいは須川すかわ口と称され枡形が設けられた。北は荒町に続く。当町から東に入る道を宝林ほうりん寺口と称した。古くは西側を大学だいがく町、東側を鍛冶かじ町と称したが、貞享三年(一六八六)の頃柳町に改称されたとみられる(「大過去帳」常光寺文書)。大学町の名は安斎大学が居住したことに由来し(「安斎家由緒書」福島市史)、同氏は米沢藩領時代、当地の町割に参画したという。


柳町
やなぎまち

[現在地名]沼田市柳町

材木町ざいもくちよう通の北へ延びる道に沿う。北は寺久保てらくぼ坂を経て町田まちだ村へ通じる。古城こじよう町・たに町とも称した。北方に沼田氏の居城であった幕岩まくいわ城跡がある。真田氏時代城下絵図では当町の北端東側に古城堀とみえる。その北側に真言宗常福じようふく院、同宗常楽じようらく(現同宗御室派歓楽院)があり、西方一帯は侍屋敷となっている。沼田台地最初の開発地であるが、沼田氏が沼田城へ移転した際には町割はされなかった。


柳町
やなぎまち

[現在地名]金沢市本町ほんまち二丁目・昭和町しようわまち・柳町

専光寺せんこうじ裏を田丸たまる町より西に入る通りの西部の通りを挟む両側町。島田しまだ町と北で接し、東は武家地、南ははなぶさ町、西は通りを挟んで折違すじかい町。鞍月くらつき用水が町内を流れ、ここを過ぎて北方上安かみやす江村へ至る。町名の由来は、白髭前しらひげまえの北側に一柳監物預所が置かれ、その一柳氏の名にちなむとする説(亀の尾の記)と、預所周辺に柳が植えられていたことによるとする説(金沢古蹟志)があるが未詳。貞享元年(一六八四)の記録(金沢古蹟志)に「柳町浪人丸山伝十郎」とある。元禄九年(一六九六)の書上(「片岡孫作筆録」加越能文庫)に地子町として町名が載る。文化八年(一八一一)の家数六三(うち武家一八)。町家四五のうち嫁職が二〇軒を占め、ほかに青物売・魚売・綿商等の商人やごぜ、尼・道心・按摩などが居住。


柳町
やなぎまち

[現在地名]青森市しん町二丁目・長島ながしま一―二丁目・中央ちゆうおう一丁目・ほん町一丁目の各一部

御倉おくら之通の東に南北に延びる。寛文一一年(一六七一)につくられ、同一二年から八年間屋敷一坪につき米五勺ずつ畑年貢を上納し、九年目から地質銀屋敷一軒につき一〇匁ずつ上納する定で町割された(青森市沿革史)。青森総鎮守の毘沙門びしやもん(現香取神社)があったため毘沙門通ともよばれた。この町にはほかに神明宮・広田ひろた神社があり、西側は禰宜ねぎ町ともよばれた。貞享四年(一六八七)の検地では一一軒の町人がいた(青森市沿革史)


柳町
やなぎまち

[現在地名]亀岡市柳町

旅籠町はたごまちの西にある東西の町。西端は紺屋町こんやまちに接する。町並の中ほどで、北の本町ほんまちに通ずる魚屋町うおやまちと交わる。

町並の長さは一四一間。町場は下矢田しもやだ村分内で、築城に際し下矢田村の住民を移住させた。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数五七。町名はこの辺りに柳が多かったことによるという。

町並西端北側の角に西願せいがん(現廃寺)があり、柳町観音と称され和泉式部の守本尊と伝える仏像を安置していた。柳町観音縁起(「桑下漫録」所引)によると、和泉式部がその子小式部内侍を、幼時当国別院べついん上原うえはらの人に預けた。小式部は長じて母と同じく上東門院の女房として仕えたが、早世したので母の式部は、ゆかりの上原に遺骸を葬り、傍らに清泉せいせん寺を建て、観音像を安置した。


柳町
やなぎまち

[現在地名]出石町柳

出石川(現在の谷山川)の東岸を占める武家町で、北に川原かわら町が続いていた。文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、川原町との境、旧谷山たにやま川の川口に架かる土橋から南に下り、城の西門まで至る南北路が通り、この道の長さは一四三間半。南北路の中央部付近東側に南北九間・東西二四間の枡形が設けられ、枡形の北は道の両側に、南は道の東側に屋敷が並んでいた(南半の西側は出石川)。南北路北端から東へ延びる細間(大鍛冶とよぶ)宵田よいだ町・田結庄たいのしよう町と、枡形から東へ延びる細間(升形通)で田結庄町・八木やぎ町と通じていた。出石川には北におお(三〇間)、南にしん橋が架けられ、大橋は枡形と小御料庄こごろしよう町、新橋は西門前と博労ばくろう町とをつないだ。


柳町
やなぎまち

[現在地名]鹿児島市柳町・春日町かすがちようなど

地蔵じぞう町の北に位置し、東は向江むかえ町、北は春日小路かすがこうじ(武家屋敷)に続く(鹿児島県地誌)かん町六町の一。蛭子ひるこ橋・汐見しおみ橋が向江町との間に架かる(同書)。以前は蛭子下橋・苙口小路下おろくちこうじした橋と称したが、安永五年(一七七六)に蛭子橋・汐見橋と改称された(三州御治世要覧)。柳町および苙口について「倭文麻環」に「今の蛭児社の辺を築島と称ふ、是より浜つづきに堤ありて、柳を植られぬる程に、そが町となりしをば柳町と名け、後又魚屋立て小魚屋こなやと呼べり、蛭児祠の後ろの小路を苙口といふ、是も本は卸口にて海に下るの卸門おりとなり」とあり、当町が魚屋(納屋)町・漁湊の様相を呈していたことがうかがわれる。


柳町
やなぎまち

[現在地名]水沢市 柳町

町人町水沢六町の一で、おお町の北に続く奥州街道の両側町。町の北端で同街道は西に折れ、たつ町に接続する。寛永一八年(一六四一)の塩竈村検地帳(県立図書館蔵)に町名がみえ、屋敷数二六、検断は正右衛門。町の長さと軒数は元禄一〇年(一六九七)一町三九間、二七軒(菅原文書)、安永五年(一七七六)一町五一間一尺、三六軒(塩竈村安永風土記)。屋敷割は平均六間×二五間(岩手県史)。町中の乙女おとめ川橋の南から東に分れる道が安土呂井あとろい御蔵への道で、南の丘に法泉ほうせん寺がみえる。町内の修験は羽黒派良善院である(前掲風土記)。伝承によれば柳町の辺りは野水廻・疎柳蕭条の間に民屋が点在していたが、留守氏入城の頃からしだいに市街地が形成されていったという。


柳町
やなぎまち

[現在地名]岐阜市加納柳町かのうやなぎまち

中山道に沿い、東西に延びる両側町。西はしん町、東は鉤の手に折れあら町に至る。加納二六町の一。元禄八年(一六九五)頃の町絵図(太田家蔵)には柳原やなぎはら町とみえ、東端の鉤の手に折れた所は柳原木戸口とあり、建物が描かれる。この木戸口には柳原町の北に並行して延びる小柳こやなぎ町が直交している。寛延二年(一七四九)の加納宿絵図には柳町とみえ、町南側を清水しみず川が流れ、町東端南側の善徳ぜんとく(現浄土真宗本願寺派)前には高札場があり、柳原小やなぎはらお川に架けられた板橋を渡り荒町に至る。貞享五年(一六八八)の間口裏行覚帳(三宅文書)に柳原町とみえ、町の長さ九七間、家数三五。


柳町
やなぎまち

[現在地名]姫路市柳町

姫路城の西で小利木こりき町の西に位置する町人町。播磨府中めぐり(智恵袋)ひめ山の「南のおり口半より西二丁斗当、大木あり、此所を岡といふ、大歳の社あり、民家なし、此戌亥に柳の大木あり、柳井戸あり」とあり、町名はここから付けられたとする。播磨国衙巡行考証(同書)は万治(一六五八―六一)頃柳町と称したとし、「村翁夜話集」は元和四年(一六一八)姫路藩主本多忠政が材木ざいもく町を取立てる時、同地にあった歳徳社を一時柳町の地に移したという。


柳町
やなぎまち

[現在地名]武生市柳町・あおば町

北陸街道沿いの両側町で、北はきよう町、南は上市かみいち町に隣接する。寛永二年(一六二五)の浅井永記録に町名がみえ、家数五〇とあるが(南条郡誌)、安永三年(一七七四)の前田家文書では七三軒(武生市史)。当町は別称を鍛冶かじ町ともいい、南の上市町とともに鞴株仲間が集住して鎌などを生産した。年月日不詳(幕末頃か)ながら鞴株仲間定書(福井県利器工業協同組合文書)が残り、

<資料は省略されています>

など六ヵ条が記されている。


柳町
やなぎまち

[現在地名]米沢市大町おおまち二―四丁目

大町の一筋東に位置する町人町で、南北の道に沿う両側町。天正一五年(一五八七)三月九日伊達政宗は米沢やわた方在所のうしろ道より東に五〇〇刈と、道より西の柳の間に一千三〇〇刈ほかを遠藤文七郎に与えている(「伊達政宗充行状写」政宗君治家記録引証記所収文書)。この柳は当町と考えられ、伊達氏時代には成立していた六町の一。


柳町
やなぎまち

[現在地名]小浜市飛鳥あすか

東南は清水しみず町、南は青井あおい村と接し、町並は南北に走る。西側には青井町があり、五ヵ寺が並んでてら町ともいう。当町と寺町・清水町の一部は「三丁さんちようまち」と称された遊郭街で、現在も格子戸の家並が残る。「拾椎雑話」に延宝七年(一六七九)三月、「柳町より訴訟申上候は、町内に向後遊女とも置不申候様に被仰付度旨申に付、願之通法度に被仰付候」とある。


柳町
やなぎまち

[現在地名]小樽市松ヶ枝まつがえ一丁目

明治三三年(一九〇〇)に小樽区大字入船いりふね町の一部が割かれて柳町が成立。金曇こんたん町と新地しんち町に限られていた遊廓が明治一四年の大火後住ノ江すみのえ町に移転したが、市街地の拡大と同二九年の遊廓からの失火があって入船町の奥天狗てんぐ山麓に移転することが命じられた。これにより入船町側から順に柳町・きよう町・なかノ町・弁天べんてん町・羽衣はごろも町の五大字が新設された(小樽市史)


柳町
やなぎまち

[現在地名]佐賀市柳町

長崎街道に沿ってある町。街道を牛島うしじま町から西へ進んで思案しあん橋を通り、上今宿かみいましゆく町に入って柳町を西に進むと蓮池はすのいけ町を経て呉服ごふく町へ出る。思案橋は正保の城下絵図に初めて登場するので、それ以前は思案橋の手前から北上し、高木たかき町を通っていたと推定されている。

嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば実数が四九で、人口は男一一一人、女一一一人、合わせて二二二人。職業では古道具屋が三竈あるのが目立つ。街道沿いらしい職業である。身分は町人が一七竈、足軽も一七竈であるが、これらの足軽は商業その他町人と同じ職業に従事している。


柳町
やなぎまち

[現在地名]むつ市柳町一―二丁目の一部

田名部たなぶ町の北端に位置し、南はほん町続きとなる。大畑おおはた(現下北郡大畑町)方面への街道筋にあたり、町の北外れで目名めな(同東通村)方面への道が分岐する。藩政初期の頃からみえる田名部五町の一。元禄三年(一六九〇)の御図帳に柳町がみえ、道を挟んで南北に町屋四九軒が並んでいる(田名部町誌)。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数六四。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「上・下二町に分る。


柳町
やなぎちよう

[現在地名]中央区京橋三丁目

具足ぐそく町の東に続く両側町。北は常盤ときわ町二丁目、南はすみ町、東は本材木ほんざいもく町七丁目・同八丁目。寛文(一六六一―七三)頃までは「すみ町」と称されていたらしく、寛文新板江戸絵図には「すミ丁」とある。享保年中江戸絵図には「柳町」とみえる。江戸時代初期当町界隈には遊女町ができていたが、元和四年(一六一八)吉原よしわら(元吉原)普請に伴い柳町から遊女屋が移転、江戸町一丁目を形成した。


柳町
やなぎまち

[現在地名]上田市中央ちゆうおう四丁目

北国脇往還に沿い、南は町、北は西に折れて蛭沢ひるさわ川の橋を渡り紺屋こんや町に続く。町の長さ二町一三間(長野県町村誌)。町名は、宝永の頃柳が多く、柳の間に葭簀張りの休茶屋などもあったことからと伝える(上田市史)

はら町の発展に伴い、旅籠屋・商家などが数を増し、寛文三年(一六六三)家数二一、人数一三六人(原文書)、延宝五年(一六七七)の五人組改では柳町本家貸家合わせて四三戸を記し人数一〇九人(「問屋日記」滝沢佳夫氏蔵)


柳町
やなぎまち

[現在地名]前橋市大手町おおてまち二丁目

武家居住区域である柳原やなぎはらは明治七年(一八七四)岩神いわがみ村に編入され、東照宮の北側、臨江りんこう閣の所在する敷地内のみが柳町として残された。城郭の北の柏木かしわぎ門から出て、たつ町との間の地域。柳町の南には愛宕あたご町があった。元文四年(一七三九)の竪町検地帳(古屋文書)には両町合せて四町二反六畝が御用地とあり、侍屋敷が置かれていた。


柳町
やなぎまち

[現在地名]彦根市元町もとまち

彦根町の北にある両側町で、北端部は松原まつばら内湖に面する。もと彦根村の村域であったという。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数六七のうち借家三三、人数二四一(ほか下人一六)、諸職諸商は一六種二七軒で、米屋五・小間物屋四・鍛冶屋三のほか青屋・茶問屋・手習師・船遣など、町年寄は米屋、横目は鍋屋が勤めている。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)では年貢地四三軒(うち町代・横目二軒)。享和―文化期(一八〇一―一八)の公儀見分朝鮮人案内(同書)によれば町の長さ九五間で、家数四四・竈数六二、男一四六・女一一五。


柳町
やなぎまち

[現在地名]函館市柳町など

昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、五稜郭ごりようかく町の東に位置する。それまでの函館区大字亀田村かめだむらの字であった十文字じゆうもんじのほぼ半分の地域を町域とした(函館市字地番改正調書)。町名は五稜郭周辺に猫柳が多かったことに由来。昭和三〇年の国勢調査では世帯数一四三・人口六一〇、サービス業関係者が就業人口比で三五パーセントを占めていた。


柳町
やなぎまち

[現在地名]福井市春山はるやま二丁目・順化じゆんか二丁目

中呉服なかごふく町道を東に折れたところにある東西に延びる町。北は松屋まつや町、南は紺屋こんや町。東方の福井城柳御門の前にあるため生じた町名。慶長年間北庄四ツ割図によると、家数四九(うち無役五軒)で、町の北側には藩の御朱印所持の刀鍛冶大和守正則屋敷がみえ、また北裏には広大な西御堂にしみどう寺地がある。


柳町
やなぎまち

[現在地名]小矢部市八和町やつわまち

下糸岡しもいとおか町の東に続く氷見ひみ道沿いの両側町。散町に属する。今石動町の出入口にあたり、東の畠中はたけなか村との境に木戸が設置されていた。南裏は御坊ごぼう(元禄一五年今石動町図)。寛保二年(一七四二)には宅地一千二八九歩で、地子米一〇石六斗二升余(一歩につき八合二勺余)


柳町
やなぎまち

[現在地名]南区西清水にししみず

錺屋かざりや町・大宝寺だいほうじ町の南にあり、南北の御堂みどう筋と東西の清水町しみずまち筋の交差点を中心に、東西南北に半町ずつの範囲。町名は明暦元年(一六五五)から確認できる(南区志)。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数二四・役数二四役で、うち年寄分一役が無役。


柳町
やなぎまち

[現在地名]湯沢市柳町一丁目・同二丁目

羽州街道に沿い、おお町とともに外町の中心をなす。享保一三年(一七二八)湯沢町絵図(秋田県庁蔵)によれば、街道と内曲輪をつなぐ道が南の大町との境界をなす。侍屋敷町のあら町と大工だいく町の境にある土手が街道をまたいで西に延び、土手の北を流れる堰の土橋で、北の内前森うちまえもり町と接する。


柳町
やなぎまち

[現在地名]伊丹市みやまえ二丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。ほん町筋西の路地を挟んだ両側町で、鍋屋なべや町の南に位置する。文禄伊丹之図に町名がみえる。会所入用割の間数は四七間(「正心調法記」武田家文書)


柳町
やなぎまち

[現在地名]大津市中央ちゆうおう一―二丁目

丸屋まるや町の東に連なるなか町通の両側町。天正一四年(一五八六)頃の大津築城に伴い坂本から移転したとされるが、「大津珍重記」には慶長五年(一六〇〇)以後とする。町は大津城推定域の外堀東側に位置すると考えられており、元禄八年町絵図ではこの外堀の跡とみられる記載がある。


柳町
やなぎまち

[現在地名]函館市住吉町すみよしちよう青柳町あおやぎちよう

明治六年(一八七三)の町名町域再整理の際に、尻沢辺しりさわべ町を細かく区画割してできた町の一つで(「事業報告」第一編)かげ町の南部にあり、南東は住吉町。


柳町
やなぎまち

[現在地名]水口町本町ほんまち一丁目

えびす町の東、東海道を挟んだ両側町。南はひがし町、北は大原おおはら町と接し、東西の端を南北に辻が通る。町名は慶長七年(一六〇二)の水口美濃部村検地帳写(水口宿文書)にみえる。延宝七年地子赦免帳では居屋敷二三・番屋敷一、屋敷地の間口は最大一三間四尺余・最小三間三尺余。


柳町
やなぎまち

[現在地名]八幡町柳町

城の西麓を南北に走る通りの東側に位置する。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図に大手門の北側がウラ丁、南側が「ヤナキ丁」とみえる。柳町は西向きの片側町で、侍屋敷は四軒、東側の山手に米蔵があった。ウラ丁には会所と厩があり侍屋敷は一〇軒。


柳町
やなぎまち

[現在地名]七戸町 七戸

七戸村の町方の南に位置し、奥州街道沿いの西に延びる。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると東は小川こがわ町に接し、北は新川原しんかわら町となる。


柳町
やなぎまち

[現在地名]奈良市柳町

てら町の南に所在。「奈良曝」に「西口、かたはら町、此町と三ツ合シテ町役廿一軒。南新町の南に西へ入細辻子より此町へ出る。郡山海道なり」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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