神保氏(読み)じんぼうじ

改訂新版 世界大百科事典 「神保氏」の意味・わかりやすい解説

神保氏 (じんぼうじ)

越中の中・近世武家。上野国多胡郡の出自で,惟宗(これむね)を姓とした。南北朝期に畠山氏に従って京都に上り,畠山基国の越中守護職就任にともなって越中にかかわる。1443年(嘉吉3)に神保国宗が守護代としてみえるのが越中での初見史料で,以後,放生津を拠点として婦負(ねひ),射水(いみづ)2郡に勢威を張る。神保長誠(ながのぶ)は畠山政長の執事として,畠山義就に対抗,67年(応仁1)京都上御霊社に挙兵して応仁・文明の乱の口火を切った。長誠は紀伊でも守護代を務め,93年(明応2)の政変では足利義稙(材)を放生津に迎え,その擁立をはかった。長誠のあと慶宗,長職,長住と次第するが,慶宗は畠山尚順や長尾為景と敵対して滅ぶ。長職は富山に拠り,越後長尾(上杉)氏に対抗したが,1562年(永禄5)上杉謙信に屈伏。68年家中内紛の結果,家臣団の大半は上杉方にくみしたが,嫡子長住は出奔。長住は78年(天正6)織田信長の支援により富山城に復帰,上杉方に対した。82年信長により追放され,以後越中には復帰できなかった。一族の菩提寺は曹洞宗光厳寺(現,富山市)である。なお平姓を称する江戸時代の旗本神保氏の祖氏張(うじはる)は上記神保氏の庶家で,越中守山城に拠った。早くから織田方に好を通じ,のち徳川家康に仕え,1592年8月5日没。所領であった下総国香取郡伊能村宝応寺に墓がある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の神保氏の言及

【放生津】より

…越中へ入部した宗良(むねよし)親王もここを中心に活動したといわれ,また1352年(正平7∥文和1)南朝方として桃井(もものい)直常と越後の新田義宗の軍勢もここに集結,上洛を図っている。室町時代には守護畠山氏の被官神保氏が越中に入部,のちに守護代となり,放生津を本拠とした。しかし畠山氏の分裂抗争のため,1455年(康正1)家督を継いだ義就派の攻撃で,政長派の神保国宗が放生津城から撤退したこともある。…

※「神保氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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