富来城跡(読み)とみくじようあと

日本歴史地名大系 「富来城跡」の解説

富来城跡
とみくじようあと

[現在地名]国東町富来浦

伊予灘に面する富来湊船入れの北側、富来小学校敷地内にあり、さんまる空堀からほり附城つけしろ鉄砲町てつぽうまち馬場ばば本丸ほんまるなどの地名が残る。弘長元年(一二六一)築城、南北朝期に活躍する富来氏の居城と伝えるが裏付ける史料はない。「豊後国志」は初めは武田志摩守某が築き居城、のち富来氏が代々居城したという。また文禄二年(一五九三)の大友氏改易後、太閤秀吉の臣筧家純が入り、慶長五年(一六〇〇)の石垣原合戦で東軍黒田如水に攻められ廃城となったとある。如水は同年九月一一日当城攻略に取りかかったが、木付きつき(杵築)城救援のためいったん中止、大友吉統の本営石垣原いしがきばる(現別府市)攻めのため立石原たていしばる(現同上)に向かった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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