富田中村
とみだなかむら
[現在地名]大川町富田中
雨滝山南麓の平地部に位置し、津田川が村内を貫流するが、水量不足で灌漑は主として溜池による。柴谷から弥生時代の箱式石棺が出土、石仏には四国最大の前方後円墳富田茶臼山古墳がある。条里地割をとどめ大坪・六反地などの地名も残っている。南海道が村内を東西に横切っていたと推定され、「延喜式」兵部省駅伝馬条の松本駅を当地に比定する説もある。平安末期に富田庄が成立、戦国期には雨滝山に安富氏が雨滝城を築き、南麓の六車城に安富氏家臣六車宗湛が拠った。寛永国絵図には富田中・富田東・富田西・田面・南川の五村と五名村(現白鳥町)の村域を富田郷としており、当村がその中心であったとみられる。
慶長七年(一六〇二)の検地帳(有馬文書)によると、田方四四町余・高五一九石余、畑方二六町五反余・高一五五石余。検地帳記載人数五五人で、うち五石以下が二二人、二〇石以上が一二人、最大は有馬与兵衛の七四石である。自己の持高だけでは生活できないと思われる小農が四割を占め、また検地帳に登録されず、大高持百姓に隷属している下人・名子もかなり存在したと考えられる。寛永七年の畑方検地帳では、畝数三七町六反余・高一四八石余で、慶長七年の畑方に比べて、面積は一一町余増えているのに高は六石余減少している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報