翻訳|irrigation
農作物を栽培するにあたって必要な水を供給し,土地の農業的生産力を永続的に高めるために,水を耕地に組織的に導き,行き届いた管理のもとに地域的に配分することをいう。もっと簡単にいえば,農作物のために人工的に圃場(ほじよう)へ水を供給することである。作物の生育に必要な水分補給,すなわち干ばつ防止が灌漑の主目的であって,降水量の少ない地域や,たとえ降水量が潤沢でも時期的に作物生育上不足することがある地域において灌漑が行われる。世界の灌漑面積は2億haをこえ,これは全陸地の1.5%以上にあたる。地域別ではアジアが最大で灌漑面積全体の約2/3を占める。国別では,中国,インド,アメリカ,旧ソ連,パキスタンなどが大灌漑面積を有している。日本は湿潤多雨地帯に属するが,水稲作中心の農業が展開されてきたこと,降雨量は時期的に一様でなく夏季に干天が続きやすいことから,水田灌漑が古くから行われてきた。最近は畑地にも灌漑が積極的に導入され,効果をあげている。
灌漑する水量を用水量といい,圃場単位では面積当り水量としてmm/dの単位が用いられ,水源からの取水量や水路の流量ではm3/sの単位が多用される。水田灌漑と畑地灌漑では,方法,技術や用水量などに異なる点が多い。ここでは主として日本で用いられている灌漑法について述べる。
田の周辺にあぜを作り,均平化した田面に一様に水をためる貯留灌漑方式がとられる。水稲への水分補給が主目的であるが,湛水(たんすい)状態を保つことによって雑草抑制や虫害防除が期待でき,また連作障害を避けることができる。さらに地温の調節,水中肥料分の供給効果もある。代搔(しろか)き作業を行うためには湛水状態にする必要があり,この水量も灌漑によってまかなわれる。
水田への給水継続方法によって,連続灌漑,間断灌漑,循環灌漑に大別できる。ある期間中たえず水を供給し続ける方法を連続灌漑といい,水量が豊富な時期や場所では掛け流しとなり,水量的に不経済であるが,高温障害防止のため積極的に用いる場合もある。一般には水稲の生育段階や作業時期に応じて水管理をきめ細かに行い,湛水深を変化させている。このため給水を間断的に行う間断灌漑法がとられることが多い。また湛水を一定に保つ時期でも,朝夕のみ給水し日中や夜間には止水する場合も少なくない。灌漑地区を数ブロックに区分し,各ブロックの順番に必要水量を灌漑し循環させる方法を循環灌漑といい,水不足の時期や地域では番水と呼んでこの方法を用いていることもある。
1枚の水田において灌漑期間中に必要とされる水量は,蒸発散量,浸透量および栽培管理用水量である。蒸発散量と浸透量の和を減水深ともいう。水田の湛水深を時期的に変化させるため人為的に落水させる水量や,水管理労力節約のため掛け流しとなる水量などを栽培管理用水量と呼んでいる。これらの必要な水量は有効雨量によって補充されるが,不足分を灌漑によって補給する。この圃場における灌漑水量を純用水量という。水源から圃場に送配水されるまでの間に,漏水などの送水損失水量と,送配水操作の時間的不整合や水路水位確保のために必要とする配水管理用水量とがあり,純用水量にこれらを加算したものが粗用水量であって,灌漑地区全体の用水量となる。地区が広域にわたる場合や水不足地区では,上流部水田の排水量を下流部で積極的に反復利用する場合があり,水源水量としてはその分だけ少なくてよい。用排兼用水路をもつ地区では,1枚ごとの水田の自由な水管理を犠牲にして反復利用を可能としている。用水量は時期的に変動するもので,とくに代搔き期には一時的に100~200mmくらいの深さの水をためるので,地区内で代搔き時期が重なると多量の用水量となり,年間で最大の用水量時期となることが多い。最大用水量によって送配水施設が設計され,また河川水利権としての申請が必要なことから,一般に代搔き用水量は重要な意味をもつ。用水量は対象地区の調査などから決定されるが,圃場整備や乾田化の進展,栽培法の変化によって変わる性格のものである。普通時期における圃場での用水量は20~30mm/dぐらいの場合が多い。
畑地灌漑では,干ばつ防止が最大の目的であるが,灌漑を導入することによって,農産物の品質向上や作物選択の自由度が増し,合理的営農体系が実現する礎となる例も多い。最近は,灌漑施設を利用した液肥や薬剤の散布など,多目的利用もみられるようになった。また凍霜害,風食,潮害など気象災害の予防にも利用できる。
灌漑方式として,スプリンクラー灌漑,定置パイプ灌漑,地表灌漑,地下灌漑に分類できる。スプリンクラー灌漑とは,地表定置または地下埋設パイプを圃場に設置し,一定間隔にとりつけたスプリンクラーから圧力をかけた水を雨滴状に噴出させ,土壌面に散水する方式である。地形に影響されず,また深部浸透損失が少なく比較的均等に灌漑できるので,日本の畑地灌漑にいちばん多く用いられている。しかし風によって散水分布が影響されやすいこと,圧力をかけるための動力を必要とする欠点がある。定置パイプ方式には,アルミ管,塩化ビニル管などのパイプに開孔し地表定置して散水する多孔管法と,地表定置のポリエチレン管などに一定間隔ごとに取りつけた点滴ノズルから,わずかずつ頻繁に作物に滴下する点滴法(ドリップまたはトリクル法ともいう)の両方式がある。前者は,スプリンクラー方式では小回りのきかないような小区画の作物に適していて,散水強度は比較的大きいのに対し,後者は水源がとぼしく節水を必要とする場合に適し,施設園芸やマルチ栽培などに用いられている。地表灌漑方式では,ボーダー法,コンターディッチ法,水盤法などの全面灌漑法は日本であまり用いられず,畝間灌漑法が多い。麦類,野菜類など畝立てをする作物に用いられ,動力は不要であるが,耕地全面に均一な灌漑が行われるように適当なこう配をもつ圃場であることが必要となる。地下灌漑方式とは,暗きょなどを利用して地表面下から根群に給水するもので,日本では施設園芸にわずかに利用されている程度である。
畑地灌漑では,土壌水分が圃場容水量(深部浸透しない程度で十分湿潤な状態)と乾燥によって生長阻害を引き起こす水分量との間に保たれることを目標にし,有効雨量でまかなえない分を補給する。したがって蒸発散量が圃場における消費水量となる。一般の畑地灌漑計画では,根群域の中で土壌水分がいちばん消費される位置において,生長阻害水分量から圃場容水量にまで回復する水量を,一度にまとめて灌漑することにしている。このためローテーションを組んでブロックごとに順番に灌漑することとし,3~8日を間断日数としている例が多い。圃場での灌漑に伴う水量損失や,水源から圃場に導水するまでの間の漏水および管理操作に伴う損失水量などを,純灌漑水量に加算して水源から取水すべき粗用水量が決められる。普通畑における通常の灌漑水量は日平均にして3~6mm/dぐらいが多い。
水源から取水すべき用水量が河川の渇水時でも確保できるならば,頭首工やポンプを設置して河川から取水する。渇水量が少なすぎたり,新規水利権が確保できない場合には,ダムによって河川流量を調節し,渇水時に必要水量を放流すれば取水が可能となる。このような河川水依存は日本の灌漑面積の88%に達する。その他は溜池や地下水利用などによっている。水源から灌漑地区まで水路によって送水され,地区内では需要に応じた配水がされる。水源から圃場に至るまでの送配水施設の管理は,水資源の有効利用の観点から重要であり,途中に調整池やファームポンドを設け,水源からの供給水量と圃場での需要水量とを時間的に調整している例も多い。また遠隔監視,遠隔操作によって合理的管理を指向している地区が増えつつある。
→治水 →農地排水
執筆者:豊田 勝
水田開発がもっとも早く行われたのは,現在のような大河川下流部の平たん地ではなく,きわめて単純,小規模な,あるいは自然のままでも容易に引水しうるような谷間の小平地や山麓部であり,以後,時代が下るに従って平地に進出した。現在,政府の減反政策によって放棄され,林地化または荒地化しつつあるような谷間の水田こそ,もっとも古い時代からの,天水や谷間の渓流を利用しての水田であったことが多い。記紀によれば崇神,垂仁,応神,仁徳などの古代に溝や樋(ひ)の存在したことが記され,これらの時代に造られたとされる幾つかの池の名が現れており,当時の帰化人たちの技術が加わっていることが察せられるこれらの施設が,畿内を中心に分布している。大化以後の水利事業は地域的に拡大して全国的に伸び,また大河川の岸に堤防を築造し,治水と,大河川からの引水灌漑もあり,国司,郡司にその支配地域の灌漑,水利に努めさせ,池溝を百姓に均給して,水利の公平な配給に努めさせた。《延喜式》にも,国々の大小に従って,池溝料を下付している事実が見いだされる。
律令制の衰退は各地に荘園を生ぜしめ,古代国家の手に代わって各荘園領主ごとの,小規模な,荘園単位の水利管理の時代を迎える。大和国一円を支配した興福寺の場合や,現在の京都市域内にも支配地をもっていた東寺などの場合については,川,池の支配管理やその分水についての事情が明らかであり,河川水については各荘からの申入れによって寺の役人が支配していた。村ごとの順位や引水時間も慣習的に定まっていたが,水田面積との関係は比例的ではなかった。これらは後の時代までも引き継がれた灌漑用水分配問題の複雑性を示しているといえる。池水についても法隆寺や西大寺の場合,奉行,池守(いけもり)が置かれ,築造は寺と,百姓の賦役とであり,分配は時間配水であった。小規模であった中世の灌漑組織も,戦国期以降は,地域的により広域を支配する統一者の手によって行われるようになり,より統一的かつ大規模な灌漑へと移行した。江戸期に至って,幕府,諸大名による支配・管理のもと,新田開発ともあいまってこれらの水田にも灌漑する組織や手段がほぼでき上がった。これはごく近年まで引き継がれ,実施されていた。
江戸期の灌漑事情は,当時〈地方巧者(じかたこうしや)〉と呼ばれていた農村支配の実務巧者たちの,数多くの著書の中にも詳細に説かれており,村庄屋の最重要の任務は灌漑,水利のこととせられているほどである。全国的見地から見れば,河川をせき止めて,その上流部の水位をたかめ,河岸の一方(両岸にもつ例は少ない)の取入口を開閉し水量を調節して,下流の水田に引水する用水ぜきがもっとも多い。次いで讃岐,大和,河内,和泉をはじめ水田開発の歴史が古く,かつ日本では寡雨地域に属する諸地域では,著しく濃密に分布する溜池の地位が高い。3位は湧泉(ゆうせん)であるが,これはしばしば流路を変えた荒れ川の旧河道跡を掘っての湧出水の場合が多く,湖沼の水の利用が4位であるのは,低位置の湛水を水田面まで揚水する技術の未開発に由来するところが大きいのであろう。河川水を引用する区域は当時井組,せき組などと称し,池水による灌漑区域は池下,湧水を利用するものは泉組などと称し,2,3ヵ村あるいは数十ヵ村が組織され,村ごとに一定の順序で,それぞれの割当時間内の水量を輪番で利用していたいわゆる番水法が広く実施されていた。干ばつ期には,番水規定の微妙な点の解釈の相違から,多くは上流村と下流村の間に,まま紛争(水論)を生じても,仲間村々中の代表有力村の仲裁によって解決した。代表役員の出る村はその位置,施設築造の因由などでだいたい定まっていた。一つの河川の上・下流に並立するせき組間の争いに比すれば,中世にしばしば見られた水合戦(暴力による争奪紛争)は比較的少なかった。溜池も大規模なものは国普請の場合もあったが,多くは池下の負担になる場合が多かった。せきの形式にも一文字ぜき(河身に対し直角の方向に築く),箕(み)の手ぜき(河身に対し斜めに),袋ぜき(中央部を下流へたるませて流水とともにたまる砂をこの部分に支える)などの諸形式があるが,出水時の破壊が難点であり,溜池も出水時の堤の破壊,貯水取入れのための流入河川の水とともに生ずる池底の滞留した土砂による埋没や深度(貯水量)の減少などが,その利用が多年にわたれば免れえない難点であった。また,せきからの引水の場合,幕領あるいは幕閣の要路を占める領主の所領であった村などが,多年の保護で,他村を圧倒して,とくに有利な引水権を多年行使していた場合もあった。
1河川の流域に幾十かのせきが乱立し,それらの築造費のむだはもちろん,下流ぜきは上流ぜきからの漏水に頼り,あるいは上流ぜき側の恩恵的厚意に頼っていたような非合理な面もあったが,この場合,合口と呼ぶ,多数のせきを廃して最上流の優れた地点に合同ぜきを設け,種々の条件を近代的に考慮して関係村々への配水が,諸大河川に多く行われるようになったのは大正末以降の進歩である。
明治以後における灌漑の発達は,国,都道府県による大規模な治水事業の発達,取入口や用水路工事のコンクリート工法の採用(大正期末,長野県梓川流域の合口もこの早いものの一つ),動力揚水機の発達(佐賀・福岡両県下有明海のクリークからの揚水は,永い間の人力による踏車から,大正年間に電力揚水に変わった),用水管理のための諸法律の改正や,国・府県の関与・推進の面において著しいものがある。用水の管理は明治以後もなお旧来の慣習下に置かれたものが多かったが,明治以降水利土功会が生まれ,1898年の普通水利組合法の制定,第2次大戦後の1949年の土地改良法による土地改良区の組織などは著しい変化である。
執筆者:喜多村 俊夫
広大な中国では,華北(黄河流域),江淮(おおよそ淮河(わいが)流域),江南では自然条件が異なり,華北は畑作,江淮,江南は米作である。それゆえ利水の様式に著しい差があるが,巨視的に見れば,華北は渠(きよ),江淮は陂塘(ひとう)が主で,江南には陂塘と圩田(うでん)にともなって生じる独特の灌漑法とがある。
華北の雨量は関中では年平均400mmくらい,黄河平野でも500~600mm前後である。この雨も大半が6月下旬~9月中旬に集中する。しかも黄土は毛細管現象がつよいため,表層は乾燥しやすいが適度の水分を含んだ場合ははなはだ肥効性が高いので華北の農業は水害と干害,豊作と凶作が隣合せという性格をもつ。このような条件のもとで華北では河と河をむすぶ漕渠を作り,その渠に水門を設けて支渠を作り,順次に渠を小さくした網目状の水路によって付近の地に灌漑するのであるが,この渠は洪水時の分水を兼ねるため末端は普通ほかの河川に結びつく。この意味で華北の渠は交通,輸送,治水,灌漑の多目的渠である。華北の河川は〈一石の水に数斗の泥〉と評せられた所もあるほど多量の泥を含むものもあるが,この泥は畑中に沈殿して客土の役割を果たし,単なる清水灌漑以上の効果がある。
渠の歴史はひじょうに古く,戦国時代すでに魏では鄴に大規模な灌漑工事を行い,秦の鄭国渠は涇水を引いて4万頃(けい)を良田にし,四川の李冰の工事(都江堰(とこうえん))も有名である。その後も盛んに渠は掘られたが,清水の場合は渠の底を下げるし,泥土の場合は天井川になるなど,常時補修が必要で政治的混乱が起こるとすぐ渠が破壊する。どの王朝にも渠を開削した記録が多く見られるが,旧渠の復活である場合も少なくない。華北でも水量の多い場所は稲作が可能であるが,ほとんどは陸田灌漑である。陸田灌漑は反当り面積の水量は少量ですむ(とくに播種(はしゆ)期の灌水が必要)が,それでも耕地面積のごく一部(民国時代の山東で10%以下という説もある)で,ほとんどの畑地は雨水のみによる乾地農法が行われている。
江淮地方では主として陂と塘による灌漑で,河川に陂・堰を作りまた溜池(塘)を作って貯水し導水路によって漸次分水していく,いわば日本の灌漑に最も類似している。しかし土地は平たん広大のため,貯水池面積と受益面積が日本に比べて低く,かつ導水路も必然的に長大化して工事量が大きくなる。またこの地帯の雨量は700~900mmくらいで畑作の南縁と水田の北縁の交錯する地帯で,水田地帯としては灌漑水が不足気味のため,往々水田の増加にともなって無理をして陂,塘を構築する結果をまねき,古来からたびたび洪水の害をうけた。なおこの地方に黄河が南流した時期もあり,その際は排水にも多大の困難があった。
江南地方にも多くの陂,塘,渠による灌漑が見られるが,江南経済の中心地である太湖を中心とした長江(揚子江)下流地帯は,宋以後圩田が行われ,それにともなう特別な灌漑が行われた。この地方はほとんど海面と同じ高さのうえ,長江の増水や,南の天目山山系からの流水で,定期的に溢水状態となる。そのため隋・唐時代まではだいたい低湿地をすて,丘陵の中腹などの小高い所を耕地として,陂渠灌漑による水田耕作が行われていたが,宋代からこの地方の人口が急激に増加し,低湿地に隄防をきずいて土地を囲い込み,その中を排水,干拓して耕地化した(圩田,囲田,湖田などと呼ぶ)耕地が多くなった。この囲込みの結果,圩の外の従来の河川は運河(クリーク)と化し,ここから取水し,また排水した。その際水量のいかんによって竜骨車,水車などを使用した。この地帯は長江の土砂が沈殿するほか,土地が低いため,満潮時には海水が逆流して水が往復するため土が積もりやすく,クリークの底が高くなり,常時浚渫(しゆんせつ)するほか,しばしばクリークをつけかえる必要があり,歴代地方官の悩みとなった。この地の水問題は排水にあるが,水量の豊かなことは水稲二期作を可能にしている。
中華人民共和国では一言にいって,〈蓄洩兼籌〉(貯水と排水を総合的に体系づける)を基本方針に,支河に貯水池を設け,護岸工事をすすめ水の利用率を高める一方で,要所要所に水利センターを設け,さらに末端の人民公社でも各自に導水路を作って灌漑面積の増大につとめている。その結果,1960年代には耕地の60%以上を灌漑化したという。しかし中国の近代化とともに,水問題は単に治水,灌漑の面にとどまらず,工業用水その他に水の需要が多くなり,利水問題は多角化してきており,水の絶対量の不足する華北では深刻な問題となっている。したがって中国の水問題の根本的解決は長江水系の水をいかに多量に華北に送水するかということにあり,現在いろいろの計画がなされている。
ところで,中国の治水灌漑について,ウィットフォーゲルの有名な〈水の理論〉ともいうべき説がある。彼の説は大規模かつ統合的な治水,灌漑の必要性が強大な中央集権的官僚制国家を生み出したということにあるが,中国最初の統一国家である秦・漢帝国は華北を基盤に成立したものであり,この時代にはすでに中国社会の諸特質もほぼ成立している。華北は前述のごとく灌漑される畑地はごく一部で,ほとんどの地は雨水のみにたよる乾地農法を行ってきたし,治水にしても当時の村落は比較的高地にあったように思われる。乾地農法と灌漑農業では耕作体系も異なれば,その上に成立する農村社会も異質なものとなる。中国の中央,地方における支配の構造を解明するためには,もっと乾地農法と灌漑農業の両立とその調和という面から検討されるべきであろう。
執筆者:米田 賢次郎
東南アジアの灌漑は稲作のためのものである。インドより西のそれが麦などの畑作物のためのものであり,オセアニアのそれが水イモのためのものであるのとは明りょうな対照をなす。
この地域の灌漑は四つの類型に分けると理解しやすい。大陸部山間盆地の井ぜき型,低平デルタの運河型,大河河口の輪中(わじゆう)型,それに,島嶼部の井ぜき型である。第1の型は山間の中・小流に井ぜきをかけ,そこから派生する水路で導水している。上ミャンマーや北タイでは,13~14世紀にはこの技術は確立しており,当時,こうした灌漑施設は盆地を占拠した王たちによって,国家的事業として建設,維持,管理された。この型は雲南,四川など中国南部にも広く分布しており,東南アジアのそれと同系統の一群をなすものと考えられている。第2の運河型のものは一望千里の低平なデルタに見られる。碁盤目状に数百本の運河が掘られ,それらが水利調節に利用される。こうした運河は,もともとは舟運用に掘られたものであるが,今では農民たちはそこに竜骨車やポンプを据えて灌漑に利用している。これらは,メナム・デルタ,メコン・デルタに典型的に見られる。この種の運河型灌漑は1870年代以降,デルタが米のプランテーションの場として爆発的に開発されたとき,それにともなって出現してきたものである。
第3のものは同じくデルタに見られるが,より河川密度が高く,また雨季の洪水がより狂暴なデルタに見られる。こういう所では,運河の掘削よりも,むしろ河岸に強固な堤防を築き洪水を防ぐことの方が急務になってくる。高い堤防がいたるところに作られ,全体はちょうど濃尾平野の輪中地帯のような形になる。これの最も典型的なものはソンコイ川に見られ,イラワジ川にも同類のものが見られる。第4の島嶼部の井ぜき型はジャワやバリ島に典型がある。技術的構造という点では内陸の井ぜき型と変わらない。多くは火山裾などの急流部に作られ,どちらかといえば,小規模なものが多い。こうしたものは古くから農民組織によって建設,維持されてきたものである。ただ,20世紀初頭になって,オランダの植民地技術の手で改変させられたものも少なくない。
以上の各種の灌漑は,伝統的にはその大部分が雨季の補助灌漑であった。しかし,1960年代後半に入ってからは,多くの所で乾季作のための用水確保を要求するようになってきている。この結果,山間に近代的な大ダムを建設する動きが各所で起こってきている。
執筆者:高谷 好一
インドの灌漑の歴史は古く,インダス文明の溢流灌漑が知られているほか,ベーダ文献にも溜池や井戸への言及がみられる。またカーベーリ川の大ぜきは2世紀にさかのぼるといわれる。イギリスのインド支配を契機として,インドの灌漑は大きく変わった。それ以前には北のインダス・ガンガー(ガンジス)平原では,井戸(揚水方法は浅井戸でははねつるべ,深井戸ではペルシア井戸あるいは先端に皮袋をとりつけたロープを牛にひかせるなど),池沼,小水流のなげつるべ揚水といった小規模なものに限られていた。また南のデカン高原や東西両ガーツ山脈部では,浅い谷ぞいに溜池を連鎖状に構築して灌漑した。当時,大河川の取水灌漑は少なかった。その主たる理由は,ガンガー川下流平野や海岸平野の多雨地帯で栽培される稲は,作付季にあたる南西モンスーン季の雨だけで生産しうることによる。そこでの稲栽培にとっては,むしろ排水が重要であった。しかし稲も含めて〈農業はモンスーンの賭〉という言葉のとおり,南西モンスーンの年による変動によって農業が左右されてきた。
インドを支配したイギリスは,地租収入の安定化,飢饉頻発への対策として大河川の潜在的な灌漑能力に注目し,大規模な用水路を開発していった。それは,インダス・ガンガー両川の支流群,ゴーダーバリー,キストナ,カーベーリ川などの流域においてであった。北のヒマラヤ山系の氷河を水源とする諸河川は周年河川で,そこから取水する用水路もほぼ周年灌漑が可能である。これに対して,南インドの東西両ガーツ山脈を水源とする諸河川の用水路は,雨季のみを灌漑季とする。イギリス領時代には,とりわけパンジャーブでの大規模用水路の建設が進み,広大な荒蕪地が用水路入植地(キャナル・コロニー)と呼ばれる沃地に変じた。独立以後は,大規模な多目的ダムを建設して用水路灌漑,拡充がなされてきた。その代表的なものはバークラ・ナンガル,ガンダクなどである。また1960年代以降,農村電化の進行と井戸掘削技術の発達をうけて,電力揚水式の深井戸(チューブ・ウェル)の普及もいちじるしい。いまでは井戸灌漑面積は用水路灌漑面積にほぼ匹敵するに至っている。水力・灌漑開発は1951年以降の各5ヵ年計画において重点目標の一つとしてとりあげられてきた。その結果,総灌漑面積は1950年の2090万haから75年には3370万haに,89年には4300万haに増加した。しかし作付面積に占める灌漑面積の比率は低い。
執筆者:応地 利明
西アジアの農業は,冬の降雨にたよる天水農業と河川やオアシスの水を人工的に利用する灌漑農業とに大別される。天水農業はシリア,ジャジーラ,アナトリアに広くみられる粗放な農耕法であるが,これらの地方でも果樹園の経営や夏作物(綿,サトウキビ,野菜など)の栽培は小河川や井戸水を用いて行われた。一方,灌漑農業はティグリス・ユーフラテス川やナイル川の流域でとくに発達した集約農法であり,冬作物(小麦,大麦,豆類,アマなど)を中心とする農業生産力は播種量の数十倍に達した。またイランでは,蒸発を防ぐために地下の暗渠(カナート,カレーズ)によって水を導く乾燥地域に特有な引水法が考案され,テヘラン周辺やイスファハーンなどの高原地帯では現在でもこの方法が用いられている。河川灌漑では耕地まで水を引く運河(ハリージュ,ナフル)や水路(トルア)の開削が不可欠であった。
歴代のイスラム王朝は積極的な勧農政策を実施し,種々の水利事業を興して租税収入の増加に努めた。例えばウマイヤ朝(661-750)政府は湿地帯の多い下イラクの開発に力を注ぎ,私領地所有者に小運河の開削をゆだねるとともに,大排水溝の開削を政府事業として推進した。次のアッバース朝(750-1258)は中部イラクの開発に重点を移し,ユーフラテス川とティグリス川を結ぶ数多くの運河の開削によって,バグダード南西部は帝国随一の肥沃な農耕地帯に変貌した。エジプトでは,ナイル川の水位を測る最初のナイロメーターがローダ島に建設(716)されて以来,水利事業は運河の開削と補修,湛水用の灌漑土手(ジスル)の建設を中心に進められた。ナイル川の適正な増水は確実に翌年の豊作を約束したから,10月初めにナイル川が最高水位に達すると,カイロ市中は〈満水の祭〉でにぎわったと伝えられる。
イスラム法の規定によれば,大河川の水は共同体の所有とみなされた。それゆえこれに関連する大規模な水利機構の管理,維持は国家の責任とされ,政府はそのための費用を水利税として農民から徴収した。しかも運河を開削,補修する労働力は力役(スフラ)の徴発によってまかなわれたから,冬の農閑期に行われる水利事業は農民にとって大きな負担であった。一方,小規模な水利施設を管理する責任は,初期イスラム時代には徴税官や徴税請負人に,またイクター制の成立後はイクター保有者にあるとされた。そして農民たちはこの場合にも運河の浚渫や補修工事にみずからの労働力を提供しなければならなかったのである。用水権は古くからの慣行(アーダ)によって定められた。同一の河川や運河を利用する複数のむらにはそれぞれ一定の持分があり,またむらの中でも耕地に灌水する順番と時間が詳細に決められていた。多くのむらではこのような用水のしかたを監督する水番や管理人を置いていたが,渇水季になるとわずかな水の利用をめぐって水争いの起こることがしばしばあったといわれる。揚水具としては,水力を用いる水車(ナーウール),畜力を用いる揚水車(サーキヤ,ドゥラーブ),人力による揚水車(ダーリーヤ)やらせん状揚水機(タンブール)およびはねつるべ(シャードゥフ)などが一般に用いられた。しかしイランのカナートが熟練の技術者によって掘られたように,ナーウールやサーキヤなどの揚水車も専門の大工によって製造されたから,その建設には費用がかかり,いきおい建設に伴う用水権はイクター保有者や地主などの富裕者に帰することになったのである。
以上の伝統的な灌漑の体系は,近代以降もほぼそのままの形で踏襲された。しかし西欧からの水利技術や土木工学の導入による変容も決して少なくなかった。第1は動力揚水車の導入であり,建設費用がかさむことから普及の速度は緩慢であったが,労働力の節約には大いに貢献した。第2は深井戸の掘削や運河の改良によって,商品作物である夏作の栽培が拡大したことである。エジプトを例にとれば,従来の運河を深くして渇水季にも通水が可能な通年運河とし,ここから動力ポンプやサーキヤを用いて揚水することにより綿作面積は飛躍的に増大した。第3は水量を調節し,運河の水位をあげるための大規模なダムの建設である。エジプトでは1872年のデルタ・バラージュの建設に続いて1902年にはアスワン・ダムが完成したことにより水量の調節がすすみ,70年にはアスワン・ハイ・ダムの完成によってナイルの増減水を完全に統御できるようになった。これによって耕地面積と電力の供給量は文字どおり倍増したが,肥沃な泥土をもたらす古来の洪水は失われた。68年から建設が始まったシリアのユーフラテス・ダムもアスワン・ハイ・ダムと同様の多目的ダムであるが,ダム建設に伴う流水量の減少はイラクとの間に水利権をめぐる紛争を生む原因となった。灌漑設備の充実によって水の供給量は増大したにもかかわらず,排水設備がこれに伴わないために土地の塩害化が進行し,この対策には多額の出費を強いられることが西アジア諸国共通の悩みとなっている。
執筆者:佐藤 次高
アメリカ大陸土着の文明(メソアメリカとアンデス)の発展に対して,灌漑が大きな役割を果たしたかどうか,この問題については賛否両論があった。最近の研究の動向は,灌漑が食糧生産の増大に重要な役割を果たしたことを積極的に評価する方向にある。ただし,灌漑の方法や規模は地域や時代によりまちまちである。したがって,メソアメリカやアンデスなど,文明の発達したところでは,食糧生産を大きくするために,いろいろな方法が試みられ,人工的に水を畑に供給することもその一つであったといった方がよい。
メソアメリカのオアハカ地方は,比較的雨の少ないところであるが,地下水位の高い部分では,畑のあちこちに小さな井戸を掘り,容器で水をくみあげて,株ごとに散水する。この井戸灌漑方式は,少なくとも前1000年ころにさかのぼると考えられている。一方,メキシコ中央高原では,天水に頼る農耕が続いたのち,湧水をひく小規模な水路による灌漑がみられた。また浅い湖沼では,チナンパ耕作が開発された。これは,湖沼や湿地の底の土をすくって盛りあげ,そこを畑とするもので,毎年堆積する土をあげるので,つねに肥沃である。この方式はマヤ文明の一部でも利用されたらしい。さらに,テワカン谷では,西暦初頭のころ,小さな支谷を石と土でせきとめて貯水ダムを作り,下流の平地を耕地とした例がある。
アンデス地帯では,前1000年ごろに,石を並べた水路で川の水をひく工事が行われるようになったらしい。やがてアンデス文明の古典期になると,かなり規模の大きい灌漑が登場する。一つは海岸の乾燥した平野での灌漑である。これは,谷のやや上流に取入口を設け,そこからゆるい傾斜で山裾の水路に水を通し,適宜畑に水を流すものである。その幹線水路は,モチカ文化のように,日乾煉瓦を積み,石を並べたりっぱな運河で,30kmにも達する場合がある。また,ナスカ文化のように,上流から長い地下水路で水をもってくる例もある。これなどは,水の蒸発による減少を防ぐ方法という点で,西アジアのカナートによく似ており,砂漠を灌漑するに際して,新旧両大陸での別々の発明が同じような形に収れんしたものであろう。
高地ではアンデス山脈の広大な斜面が,灌漑により耕地化され,インカ帝国のようなアンデス文明の高地社会成立の経済的基盤が確立する。標高4000mをこえる高いところの湖や泉,あるいは高い場所の谷間から水を取り,細い水路を斜面に延々とはわせ,畑へ水を流す。ペルー北部高地のカハマルカ市西では,岩を巧みにけずって水を流し,自然の分水嶺の尾根を越えて反対側に水をもってくることも行っていた。このような水路方式の灌漑は今日でも持続しており,水路の清掃や修理,水の配分などは共同の関心事であり,祭祀や村の政治組織と組み合わさって,複雑な慣習となっている。
執筆者:大貫 良夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
農地に人為的に水を注ぐこと。作物に限らず一般に植物は増加乾物重(成長に伴う生体重量増加分から含水重量を除いたもの)の数百倍の水を根から吸収して葉から蒸発させ(蒸通発という)ながら成長する。この作物の必要水量に都合よく雨が降れば、あえて灌漑する必要はない(そのような作物栽培を天水農業という)。しかし一般に年降水量が500ミリメートル以下の乾燥地域(たとえば中東、北アフリカ地域など)では灌漑なしには作物栽培は困難であり、湿潤多雨地域でも年間の降雨分布が作物栽培上不適当な地域(たとえば日本を含めた東南アジア地域など)では灌漑が必要となる。
灌漑の目的は、まず作物の生育に必要な水を、降雨を補って人為的に供給することであるが、それに限られるものではない。栽培技術の進歩に伴って多様な目的に使われるようになっている。たとえば施肥、農薬散布、除草などに際して、肥料や薬剤を溶かした水を散布する方法で省力化することが多くなってきており、地域によっては除塩、潮風塩害防止、高温障害防止、凍霜害防止、冷温障害防止などのために灌漑を行うし、さらに播種(はしゅ)、耕うん、移植、収穫などの作業能率をあげるために灌漑を行う場合もある。これらは多目的灌漑と称される。
古くから灌漑用水は洗濯など生活用水としても用いられてきたが、近年では施設園芸や畜産の増加に伴い、それらの用水としても用いられる。その結果、灌漑はいまや農村地域の総合用水という性格のものになっている。
[志村博康・冨田正彦]
灌漑は大別して水田灌漑と畑地灌漑とに分けられる。両者の違いはおもに水管理と用水量の差に現れる。水田灌漑は水田での常時湛水(たんすい)を目的として行われるので、日本ではほぼ毎日の連続的灌漑となる。地域によっては、かけ流しといって、水田に水を入れっぱなしにする場合もある。水田の水管理は一般に畑に比べて粗放的となり、用水量も大きな値となる。水田灌漑の必要水量は主として減水深(給水しない場合に水田湛水位が低下する1日当りの値。蒸発散量と浸透量の和)で規定される。日本では、地域によって異なるが20ミリメートル前後の値になることが多い。その場合の単位用水量(給水のための原単位)はヘクタール当り約2リットル/秒となる。日本以外の東南アジアや欧米の水田では単位用水量を概算値としてヘクタール当り約1リットル/秒とするのが一般的である。日本以外では水田灌漑においても数日おきに給水する間断灌漑が一般的である。
畑地灌漑は土壌への水分補給を図りつつ、あわせて先述の多目的水利用を行うのが一般的で、日本では、だいたい4~6日おきに給水する間断灌漑である。日本ではスプリンクラーなど散水装置を用いるのが一般的であるが、日本以外では、畝間(うねま)灌漑、あるいは農地表面に広く水を流し込むボーダー灌漑が一般的である。畑の水管理は水田に比べて集約的となるが、用水量は水田に比べてかなり小さい。日本での畑地灌漑用水量は、作物や地域によって異なるが無降雨時1日当り約2~5ミリメートル、1回の灌水が10~30ミリメートルで、単位用水量はヘクタール当り約0.2~0.5リットル/秒である。
世界の畑地の用水量は国によってまったく異なるが、日本より少ない所が多い。日本の水田灌漑においても、渇水時には2~3日おきの間断灌漑に移行する。給水区を分け、順繰りに水を回す。これを番水(ばんすい)という。このとき、水管理は厳しくなるが、給水量は地域全体として減少する。台湾では、水田と畑を輪作にして、水田灌漑と畑地灌漑を周期的に交代させる。このような場合は水田も間断灌漑となり、これも厳しい水管理となるが、節水と畑の連作障害防止に効果的である。
[志村博康・冨田正彦]
灌漑を実施するためには、水源施設、送水施設、分配水施設などを備えた一連の大システムが必要となる。世界的に古代から灌漑地域に設けられてきた壮大な灌漑施設と水管理機構がこれである。日本の灌漑水源は現在、灌漑面積の割合で表示して、河川88%、溜池(ためいけ)10%、地下水2%で、圧倒的に河川依存型である。東南アジア諸国はほぼこれに近いが、スリランカのように溜池を主水源とする地域もある。乾燥地域では地下水が主水源の国もある。日本の河川利用では、すでに江戸時代にほぼ渇水流量を利用し尽くしたので、現代では新たに灌漑開発するにはダムをつくる必要がある。
灌漑システムは、基幹的施設(ダム、河川から取水する頭首工あるいは揚水機場、幹線水路およびシステム管理センター)、支線的施設(幹線水路から分水して集落まで送水する諸施設)、集落内圃場(ほじょう)施設(集落の各圃場への配水を行う諸施設)に大別される。これらの施設の管理は、現代の日本では、灌漑地域の農業者全員で組織された土地改良区によって行われるが、集落内圃場施設については伝統的な水利共同体である集落に任せられる。しかし、これら施設の建設・改造は公共性が強く、かつ高度の技術力を必要とするので、土地改良区の発議に基づいて、基幹施設は国営事業、支線的施設は都道府県営事業、集落内圃場的施設は土地改良区営事業として行われるのが常である。世界各国の灌漑システムも、程度の差こそあれ、日本のそれとほぼ似ているが、管理については国の事情により著しく異なる。しかし公共機関または農業者組織による管理が多く、なかには企業的経営の場合もある。
農業水利学者の緒形博之(おがたひろゆき)(1919― )の指摘によれば、灌漑システムの配水原則には二つの対極的型がある。一つは水使用者(農業者)の要求に即応する配水(需要サイド主導型)、いま一つは水源状況にあわせた配水(供給サイド主導型)である。水源が豊富・安定な地域では前者になりやすく、不足・不安定な地域では後者になりやすい。日本の灌漑は、常時には前者、渇水時には後者となる。台湾などの灌漑は常時後者だといえる。
[志村博康・冨田正彦]
灌漑を通じて農地の生産性が向上し、安定化するため、国民1人当りの必要農地面積が減少し、土地の多面的利用と高い人口密度を許容する国土がつくられる。とくに水田灌漑の発達した東南アジア諸国では、日本を含めて、その効果が顕著に現れている。
灌漑の実施とともに圃場の整備が進み、圃場の管理も強化されるのが常であるが、それらに伴って農地の保全機能が全体として強化される。とくに水田灌漑では畦畔(けいはん)の整備が進むため、水田のもつ豪雨時の貯水機能が強化される。アジアモンスーン地域では治水上豪雨対策が重大であるが、水田灌漑を通じて広範な農地が事実上治水施設の役割を果たしている。
灌漑が広い地域で実施された場合、自然の水循環に影響を及ぼすことになるが、不適切に計画された場合には生態系のバランスを壊し、病気などをも含めて悪い結果をもたらすこともある。第二次世界大戦後の世界の灌漑開発ではいくつかそのようなことが生じているが、とくに深刻なものとして世界に知れ渡ったものに中央アジアのアラル海の干上がりがあげられる。アラル海に流入するアムダリヤとシルダリヤの豊かな流れは、旧ソ連の大規模な綿花畑開発に伴って綿花畑の灌漑のために大規模に取水されて、アラル海へ流入する水量が大幅に減少していった。それに伴ってアラル海の水位はじりじりと低下していき、1990年ころにはアラル海の面積は元の3分の1にまで縮小した。旧ソ連の崩壊によって情報が得られるようになり、アラル海漁業が壊滅状態に陥っている深刻な状況が世界の目にさらされた。灌漑開発には環境アセスメント(環境影響評価)がたいせつなことを示す重い例であるが、灌漑は本来長い期間をかけて自然と一体化するように行われるべきものであり、むしろ絶えざる改良の積み重ねが灌漑計画の本質である。現在、世界の灌漑面積は約2億ヘクタールで全農地面積の約13%、陸地総面積の約1%にとどまるが、今後世界人口の急増がとくに開発途上国において予測されているので、灌漑はますます重視されてくるであろう。
[志村博康・冨田正彦]
土地に対して人為的に給水する技術自体は、人類の歴史においてきわめて古く、またかならずしも農耕の発生以後のことでもない。たとえば、北アメリカのロッキー山中の乾燥した高原に住む先住民パイユートは、農耕を知らず野生の食物採集を生業としていたが、ある種の草の実や球根をとる植物の群生地に、雪解け水を人為的に引いて、それらの収量をあげることは知っていた。大規模な灌漑には、大量の水の確保に加え、導水路を整備し維持するなど、進んだ技術と大規模な共同作業を実施することのできる社会組織が必要となるが、小規模な貯水池や井戸から、人力や畜力を用いて揚水し土地に引くだけのことなら、個々の農民や小共同体によって世界各地の乾燥地帯で行われている。西アジアで紀元前6000年ごろから始まった灌漑も、当初はこのような小規模なもので、比較的湿潤な山岳地帯から乾燥高温の平野部に拡大してきた初期の農耕民たちの手で、試行錯誤的に試みられたものであるらしく、恒久的な用水路の発達はみられなかったという。この平野部への拡大が進行するにしたがい、灌漑もより大規模にまた組織的なものになったが、この過程がこの地方での都市文明の成立に密接に結び付いていたのは周知の事実である。
今日、シュメールの都市文明発祥地の土地は、ほとんどが耕作に適さぬ荒れ地となっているが、これは過度の灌漑と不適切な排水による土地のアルカリ化の結果であるという。初期文明を支えた大規模灌漑には、長い目でみると、こうしたマイナス面もあったのである。土地と水の総合管理を中心とする、合理的で大規模な灌漑法が確立したのは、むしろ比較的最近のことである。1970年代、北アメリカの先住民ナバホの間でみられたように、水管理技術のまずさなどのため、近代的な灌漑システムを有効に使いこなせず、土地のアルカリ化などの深刻な問題に直面した例など、灌漑のむずかしさを物語っている。
[濱本 満]
日本の灌漑の歴史は水田開発の歴史と軌を一にしている。ヤマイモ、クリなどの木の実を主食として台地上に人々の暮らしが展開していた縄文時代までのわが国にイネがもたらされると、1世紀を経ずして普及し、稲作に基礎を置く弥生(やよい)文化を開花させた。登呂(とろ)(静岡県)、大中の湖(だいなかのこ)(滋賀県)などの水田遺構はその跡としてつとに名が知られていたが、1980年代以降次々と全国各地で水田遺構を含む大規模な遺跡の発見が続いて、弥生時代の早い時期に稲作はすでに津軽半島にまで及んでいたことが明らかになってきた。このころの水田は自然湿地の利用が主であったが、弥生時代末期になって鉄の使用が農具の刃先にまで及ぶと土工能力が高まり、開田が灌漑水路や溜池を増大して稲作国家を形成していった。『古事記』にある垂仁(すいにん)天皇時代の血沼(ちぬ)池、狭山(さやま)池(大阪府)の構築などはその記録である。その後、灌漑水路(全国的)、溜池(香川県にとくに多い)を伴う開田は連綿と続き、その多くは修復、改良を重ねながら現在も用いられている。とくに戦国時代に築城のための石工技術が発達し、これが大河川の治水工事に応用されるとともに利根(とね)川、淀(よど)川などの氾濫(はんらん)原(沖積平野)も水田化され、国土をほぼ現在の姿に変えた。見沼代(みぬまだい)用水(埼玉県)、宮田用水(愛知県)などはつとに有名。明治以降は西洋土木技術を活用して明治用水(愛知県)、安積(あさか)疎水(福島県)、那須(なす)疎水(栃木県)をはじめ、灌漑による台地の水田化が進んだ。この台地への灌漑は第二次世界大戦後に至って畑作にも及び、愛知用水(愛知県)、豊川用水(愛知県)、笠野原用水(鹿児島県)をはじめ大規模用水が国営事業のかたちで次々と着工され、1980年ころからは県営事業クラスの中小規模の開発も多くなって、わが国畑作の灌漑化が急速に進展した。
[冨田正彦]
『農業土木歴史研究会編著『大地への刻印』(1988・公共事業通信社)』▽『志村博康編『水利の風土性と近代化』(1992・東京大学出版会)』
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…用水争論ともいう。
[古代,中世]
稲作に基礎をおく社会であるかぎり,灌漑用水の確保が死活問題であることは言うまでもないが,古代の律令体制のもとでは,まだ用水をめぐる対立・紛争は問題にならない。それに対して,私的土地所有が発展し,荘園制的土地領有の成立した中世になると,用水争論も加速度的に増加していった。…
…一年のうち,そこに作る作物の生育期間中は湛水灌漑のできる耕地を田という。今日にあっても,特別にその地に水を導く施設のない田もあり,それを天水田といっている。…
… 長いナイル川の流域のうち,水源からスーダン南端にかけては熱帯雨林地帯,スーダンのうち南半分は半乾燥地帯をなし,それ以北地中海に至るまで砂漠に囲まれた乾燥地帯をなしている。
【灌漑と利用の歴史】
ナイル川の特性は,水源地帯での雪どけ水などのため,毎年きわめて正確な周期で増減水を繰り返す性格を備えていることにある。ナイル川の増水期は毎年7月半ばから11月ないし12月にかけ,減水期は1月から6月すぎにかけての期間である。…
…用水とは灌漑,飲料,工業,発電,消火などに利用する水の意味だが,このうち灌漑用水,つまり田畑に導いて作物の育成にあてるための水の意味で使用されることが多く,ここでもこの意味に用いる。また世界各地の記述は〈灌漑〉の項にゆずり,本項では日本における灌漑用水の歴史について記すこととする。…
※「灌漑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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