日本歴史地名大系 「富田庄」の解説
富田庄
とだのしよう
現広瀬町に所在した庄園。「出雲国風土記」の渡庄目録(九条家文書)には、宇治平等院領の一つとして「式部大輔在輔卿 富田庄 年貢鉄二千五百卅廷 莚三百枚 比皮百井」とあり、領家は菅原在輔で、藤原氏の氏長者が支配する摂
渡庄であった。当庄は他の中国山地沿いの庄園に比しても多量の鉄を負担している。
文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一三番には「富田庄九十九丁四反六十歩信濃前司」とみえ、出雲・隠岐両国守護であった佐々木泰清が当庄の地頭であった。承久の乱後、泰清の父義清が出雲・隠岐両国守護となっており、当庄も義清が承久の乱の恩賞として獲得したものと推定される。なおこの結番帳には六番に「富田新庄比田三十丁村上判官代入道」もみえる(→比田)。出雲国守護職を継承した泰清の子三郎頼泰が
富田庄
とみだのしよう
名東郡にあった奈良春日社領の庄園。吉野川河口部南岸の現徳島市中心部一帯と
建仁四年(一二〇四)二月一七日、奈良春日社領の名東郡示の設定が行われた(前掲富田庄立券状案)。これによって当庄は正式に奈良春日社を本家、大江泰兼を領家、粟田重政・藤原親家を庄官とする庄園として成立した。成立時の当庄は耕地面積五二町三反一八〇歩、うち田八町三反六〇歩・畠一三町五反一二〇歩・常荒三〇町五反、在家八宇のほか、沢・江・河・池・山があり、田畠は一九条六里―九里、二一条九里、二二条八里の釘貫・松江、
富田庄
とみたのしよう
現中川区
康和五年(一一〇三)右大臣藤原忠実の家領としてみえて以来(朝野群載)、一四世紀末までおおむね近衛家領として続いた。この間、一三世紀末には荘内の飛地北馬嶋領家職について、姉小路実文が別相伝していることが知られ(正応三年九月一二日付「六波羅下知状」円覚寺文書)、また建武政権下では一時期後醍醐天皇の妃新待賢門院阿野廉子が領家職を領した。藤原忠実は康和五年平季政を下司職に補任している(朝野群載)が、鎌倉時代に入っては、嘉暦二年(一三二七)五月一八日付富田庄領家雑掌契状(円覚寺文書)に「於
荘務権は当初領家側にあったが、承元五年の地頭請を期に地頭の年貢未進・押領などが増し、嘉暦二年再度地頭請が行われた。
富田庄
とみだのしよう
近世の
富田庄
とんだのしよう
- 宮崎県:日向市
- 富田庄
臼杵郡内に所在した豊前宇佐宮領庄園。現日向市
富田庄
とみたのしよう
富田庄
とんだのしよう
富田庄
とんだのしよう
富田庄
とんだのしよう
富田庄
とみたのしよう
- 福井県:大野市
- 富田庄
荘域は、
富田庄
とみたのしよう
富田庄
とみたのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報