大川町(読み)おおかわちよう

日本歴史地名大系 「大川町」の解説

大川町
おおかわちよう

[現在地名]東区大川町

心斎橋しんさいばし筋を境に過書かしよ町の西に延びる両側町で、北は土佐堀とさぼり川、西は七郎右衛門しちろうえもん町一丁目。同川に東から淀屋よどや橋・肥後ひご橋が架かり、中之島なかのしま(現北区)に通ずる。淀屋橋南詰より北御堂きたみどう(現本願寺津村別院)前辺りまでを淀屋橋よどやばし筋という(元禄一〇年「摂州難波丸」)。「天保町鑑」は淡路あわじ町から南を御堂筋としており、淡路町津村東之つむらひがしの町辺りはいずれともよばれたと思われる。「天保町鑑」に「淀屋ばし南詰浜がハ并一すじ内小路とも」とある。小路とは文化三年(一八〇六)増修改正摂州大阪地図に載る淀屋小路のこと。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図では当町の地域は東から十三人じゆうさんにん町・北浜きたはま四丁目と記される。延宝七年(一六七九)小町のため十三人町八軒、北浜四丁目の一五軒が合併して当町が成立した(大坂町之内町名替り候写・安政三年「水帳」大坂市立中央図書館蔵)

大川町
おおかわちよう

面積:三四・八三平方キロ

大川郡の中央部に位置する。東は旧長尾ながお街道の田面たづら峠から大内おおち町に至り、南は檀特だんとく(六三〇・八メートル)かさヶ峰(五五九・七メートル)稜線白鳥しろとり町と境し、両山間にある日下くさか峠越の道路が通じている。北は雨滝あめたき(二五三・二メートル)(二五九・八メートル)の山稜で津田つだ町と境し、相地あいじ峠・柴谷しばだに峠の二道が通ずる。西は開けた平地寒川さんがわ町と接する。長尾街道が町中央部を東西に走り、津田川が町内を貫流する。古代難破なは郷とよばれ、早くから開けた所で、四国最大の富田茶臼山とみだちやうすやま古墳古枝ふるえだ古墳などの前方後円墳をはじめ、多くの古墳がある。平安時代には京都安楽寿あんらくじゆ院領富田庄が成立した。

大川町
おおかわちよう

[現在地名]函館市大川町など

昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、追分おいわけ町の東に位置し、南は八幡はちまん町。それまでの函館区大字亀田村かめだむらの字であった大川通おおかわどおり(二筆)八幡社後手はちまんしやうしろて(八一筆)の各一部を町域とした(函館市字地番改正調書)。町名は亀田川を大川とよんでいたことによる。昭和一〇年の世帯数二七・人口一一三。同二二年に大川中学校が開校。

大川町
おおかわちよう

明治二六年(一八九三)から同三三年まで存続した町。同二六年四月かわ村が改称、大川町となる。同年秋田の大平山三吉たいへいさんさんきち神社(現秋田市)の分霊を勧請して三吉神社を建立。同二九年曹洞宗の大乗だいじよう寺を創立。「状況報文」に「大川町」とみえ、同三一年の戸数四三三・人口三千二一一で、南北に区画された市街には巡査駐在所・病院(余市第二病院)・学校・旅人宿・料理屋・劇場などがあり、「商店櫛比」の賑いであった。移民は秋田・青森二県からの者が多く、新潟・石川両県が次ぐ。

大川町
おおかわちよう

昭和二五年(一九五〇)東一条北ひがしいちじようきた東二条北ひがしにじようきた東三条北ひがしさんじようきたの各一部を割いて設定された字。北を十勝川が東流する。旧陸軍将校官舎が建設されていた地で、第二次世界大戦後民間に払下げられ、整備された住宅地

大川町
おおかわちよう

[現在地名]釧路市大川町

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと釧路村の一部(モシリヤ)。昭和七年の世帯数一九八・人口一千九一(釧路郷土史考)。この頃に釧路商工信用組合・釧路商工会議所・市公益質屋・専売所釧路出張所などが設立された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報