寛印(読み)かんいん

朝日日本歴史人物事典 「寛印」の解説

寛印

生年:生没年不詳
平安中期の天台宗の僧。願蓮房,丹後先徳と号した。丹波国多紀(兵庫県)波々伯部村の人。俗姓は紀氏,父は紀忠方。出家後比叡山に登り,源信に学ぶ。源信が中心となってはじめた「霊山院釈迦堂毎日作法」の結衆中に名がみえる。内供奉十禅師となったが,のちに妻帯している。晩年に丹後国に帰り,古寺に住んで往生極楽を願い,迎講を行った。寛印の息子の行円は京都祇園社感神院の権長吏となり,出身地の私領波々伯部村保司職を寄進している。<参考文献>虎関師錬編『元亨釈書』,『今昔物語集』15巻,『平安遺文』1398号,3414号

(西口順子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寛印」の解説

寛印 かんいん

?-? 平安時代中期の僧。
天台宗。良源,源信にまなぶ。正暦(しょうりゃく)(990-995)のころ宮中に奉仕する内供奉十禅師となった。丹後(京都府)出身。俗姓は紀。号は願蓮房,丹後先徳。

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