平安中期の天台宗の学僧。大和(やまと)国(奈良県)葛城(かづらき)郡当麻(たいま)郷に生まれる。父は卜部正親(うらべまさちか)、母は清原氏。伝えによれば、7歳で父と死別、その遺命により出家し、9歳のとき比叡山(ひえいざん)に登り良源(りょうげん)(慈慧大師(じえだいし))に師事、13歳のとき得度受戒したという。横川恵心院(よかわえしんいん)にあって修行と著述に従事したので、横川僧都(そうず)、恵心僧都とも称された。978年(天元1)37歳にして『因明論疏(いんみょうろんしょ)四相違略註釈(ちゅうしゃく)』を著す。因明とは仏教論理学であり、この著作が今日知られる限りでの源信の処女作であるから、この年から彼は学僧として出発したことになる。985年(寛和1)主著『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著す。彼はここで多くの経典のほかに、インド、中国、日本の諸師の論疏を引用して、人間は穢土(えど)を厭離(おんり)し極楽(ごくらく)に往生することにより初めて仏陀(ぶっだ)の悟りに分け入ることができると述べ、「往生の業は、念仏をもって本となす」と説く。『往生要集』はこの後、宋(そう)人の手により中国の天台山国清寺にもたらされて賛仰の的となり、源信の名は中国の仏教界にも知られるに至った。986年(および988年)に著された『二十五三昧(さんまい)式』は、『往生要集』の教説に基づいて念仏三昧を勤修する三昧会(さんまいえ)の結衆の指針となるもので、三昧会が25人の発起衆の呼びかけにより結成されたので、この名称がある。正暦(しょうりゃく)年中(990~995)、霊山院を造営、また華台(けだい)院に丈六弥陀(みだ)三尊を安置し、迎講(むかえこう)を始めた。1005年(寛弘2)には、大乗仏教概論ともいうべき『大乗対倶舎抄(くしゃしょう)』を完成させ、また翌1006年には、一切衆生(いっさいしゅじょう)の成仏(じょうぶつ)を説く『一乗要決(いちじょうようけつ)』をまとめた。1007年撰述(せんじゅつ)の『観心略要集』は、理観の念仏を強調した書として『往生要集』と並び称される。さらに1014年(長和3)には『阿弥陀経(あみだきょう)略記』を著し、生涯を学問と修行に終始して、寛仁(かんにん)元年6月10日、76歳で示寂した。彼の伝記は『楞厳院(りょうごんいん)源信僧都伝』のほか多数あり、さらに往生伝、説話集などにも採録されている。
[広神 清 2017年7月19日]
『石田瑞麿校注『日本思想大系6 源信』(1970・岩波書店)』▽『川崎庸之校注『日本の名著4 源信』(1983・中央公論社)』▽『八木昊恵著『恵心教学の基礎的研究』(1962・永田弘文堂)』
平安中期の天台宗の学僧。浄土教家として著名で,恵心僧都(えしんそうず),横川(よかわ)僧都とも称された。大和国(奈良県)当麻郷に生まれ,父の名は卜部正親,母は清原氏。7歳で父の死にあい,9歳で比叡山に登る。954年(天暦8)得度受戒し,良源の門下となって経論の研鑽に努め,973年(天延1)32歳で広学竪義となり,内供奉十禅師に補せられた。978年(天元1)に著した《因明論疏四相違略註釈》3巻は撰述年時のわかる最初の著書で,のち宋の慈恩寺弘道の門人に贈られたが,青年時代の著述とみられるものに《六即義私記》がある。985年(寛和1)代表著作である《往生要集》3巻を撰述した。本書は極楽往生に関する経論の要文を選集し,念仏を勧めたもので,のちの浄土信仰に決定的な方向を与えた。翌年源信は同書を宋の周文徳に贈り,文徳は天台山国清寺の経蔵に納めたが,宋においても高く評価された。またこの年より首楞厳院(しゆりようごんいん)において念仏結社たる二十五三昧会をはじめ,2年後の988年(永延2)には〈十二箇条起請〉を作って,同志の平生および臨終の作法を定めた。この二十五三昧会につながるものとして,横川の花台院では迎講がはじめられ,在俗の念仏者が多く集まり,横川には念仏集団が形成された。1000年(長保2)法橋に叙せられ,04年(寛弘1)権少僧都に進んだが,翌年辞退した。当時の比叡山の世俗化と堕落の風潮を嫌い,名利を避けて横川に隠栖し,行法と著作に励んだ。《源氏物語》の横川僧都は源信がモデルといわれる。70歳前後から病で起居が不自由であったが,なお念仏を怠らず,17年6月,76歳で没した。
門下に覚超,良暹,明豪など多くの高僧が出て,一門の教学を恵心流という。著作は,前記のほか《要法文》3巻(986),《菩提心義要文》1巻(997),《大乗対俱舎鈔》14巻(1005),《一乗要決》3巻(1006),《霊山院釈迦堂毎日作法》1巻(1007),《白骨観》1巻(1011),《阿弥陀経略記》1巻(1014)など70余部150巻ある。なお《後拾遺往生伝》平維茂条に記されているように,早くから来迎図の創始者とみられ,世に源信作と伝える来迎図は多いが確証はない。しかし源信教学の影響を受けて作られたことは明らかである。
執筆者:伊藤 唯真
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942~1017.6.10
恵心僧都(えしんそうず)・横川(よかわ)僧都・今迦葉(いまかしょう)とも。平安中期の天台宗僧。大和国葛下郡当麻(たいま)郷の卜部(うらべ)正親の子。比叡山で良源(りょうげん)に師事,論議に優れ広学竪義(りゅうぎ)の竪者(りっしゃ)を勤め,因明学の書を著す一方,浄土教にも親近。天禄年間から横川に隠棲して念仏・読経と著述の生活に入った。985年(寛和元)「往生要集」を著して浄土教義を大成し,往生の指南として僧俗に広く読まれた。また念仏結社二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)に参加し「横川首楞厳院(しゅりょうごんいん)三昧式」を制定した。1004年(寛弘元)権少僧都に任じられたが翌年辞退。13年(長和2)までに念仏20億遍・大乗経読誦(どくじゅ)5万余巻・念呪(ねんじゅ)100万遍と称したように,数量重視・諸行往生の浄土教信仰者だった。著書は叡山学院編「恵心僧都全集」所収。
810~868.閏12.28
北辺大臣とも。9世紀半ばの公卿。嵯峨天皇皇子。母は広井宿禰氏。814年(弘仁5)源朝臣を賜り臣籍降下。825年(天長2)従四位上。831年参議。大納言・東宮傅・右近衛大将などを歴任し,857年(天安元)左大臣。翌年正二位。貞観の初め頃から伴善男(とものよしお)と対立し,866年(貞観8)応天門放火の犯人と誣告(ぶこく)され,結局善男が真犯人とされたが,以後出仕しなかった。869年正一位追贈。
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(朧谷寿)
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…事件の発端はこの年閏3月10日夜に朝堂院の正門である応天門が炎上したことであった。最初大納言伴善男(とものよしお)は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。ところが8月3日に左京の備中権史生大宅鷹取が伴善男・中庸父子が真犯人であると告げた。…
…比叡山横川(よかわ)恵心院の僧都(そうず)源信が1006年(寛弘3)に著した書。3巻。…
…この一族は代々学者を輩出し,鎌倉時代には,兼頼の子兼文が《古事記裏書》,その子兼方(懐賢)が《釈日本紀》を著すなど,歴史書の研究に優れた業績を残していた。なお平安時代の浄土教の恵心僧都源信は,大和国葛下郡の占部正親の子と伝えられている。 兼熙の10世兼治の次男兼従は雲上家の卜部萩原姓を名のり,萩原員従の次男従久より錦織家(にしごりけ)が分かれた。…
…比叡山横川(よかわ)の恵心院の僧都(そうず)源信が985年(寛和1)に撰述した書。3巻。…
…古へは比比丘女(ひふくめ)といへり。その始原は恵心僧都経文の意をとり,地蔵菩薩罪人をうばひ取給ふを,獄卒取かへさんとする体をまなび,地蔵の法楽にせられしより始れりといへり〉とあり,仏法の意に基づいて恵心僧都源信が創案した鬼遊びで,古くは〈ひふくめ〉と呼ばれていたことがうかがわれる。遊び方は,(1)まず鬼と親を1人ずつ決め他の者は子となる。…
…古代末から中世的世界の形成期にかけて姿を現したといえるが,具体的には各種の〈往生伝〉の編述(王朝末期)および《地獄草紙》や《餓鬼草紙》などの六道絵の制作(鎌倉初期)となって実を結んだ。そしてそのような動きに大きな影響を与えたのが源信の《往生要集》であったことは重要である。というのも《往生要集》はその第1章〈厭離穢土(おんりえど)〉と第2章〈欣求浄土(ごんぐじようど)〉によって,のちに日本における地獄学と浄土学の出発点とみなされるようになったからである。…
…弥勒信仰は白鳳期を経て奈良時代前期にはかなり栄えたが,奈良時代後期には遅れて伝来した阿弥陀信仰の方が優勢を占めるようになる。つぎの平安時代初期に樹立された天台宗の教団内に阿弥陀信仰の浄土教がおこり,とくに円仁が入唐して五台山に巡礼し法照の五会念仏にもとづく念仏三昧法を移入し,ついで源信が《往生要集》を著して地獄と極楽の詳細を描き出してから,浄土教の全盛時代を迎えるにいたる。平安末期から鎌倉時代にかけて,ひとえに善導によると称した法然は,源信の教義をも受けて専修念仏を強調し,《選択本願念仏集》を著して浄土宗を開き,その弟子の親鸞は《教行信証》を著して絶対他力の信仰を鼓吹し,浄土真宗の祖となり,また一遍は全国を遊行して念仏をすすめ時宗の祖とされる。…
…10世紀には空也によって庶民の間に浄土信仰が醸成される一方,貴族の間には不断念仏と法華経信仰の併修が流行する。 985年(寛和1)源信の撰述した《往生要集》は,現世をいとい来世に往生する手段として阿弥陀如来を念仏する五つの方法や臨終時の作法を説いたが,その中でも最も重視されたのは阿弥陀を観想する法と臨終時に来迎(らいごう)を祈念する法であったとみられる。以後浄土信仰は急速に貴族社会に滲透したが,その際,前者からは定印阿弥陀仏と阿弥陀堂建築が成立し,後者からは迎講(むかえこう),阿弥陀来迎図が生まれる。…
…《横川首楞厳院(よかわしゆりようごんいん)二十五三昧式》ともいう。源信撰と伝えるが不明。986年(寛和2)源信を指導者として比叡山横川首楞厳院で結成した念仏者集団二十五三昧会のために作成されたもの。…
…しかしこれらはいずれも《観無量寿経》にもとづく九品来迎図である。ところがこれとは別に10世紀の末ごろ天台僧源信によって撰述された《往生要集》は末法到来の近いことを前提に極楽往生の緊要なことを説き,阿弥陀仏を観想する法と併せて臨終時に阿弥陀来迎を請い願う作法を説き示した。源信の伝記には彼がその生前に阿弥陀来迎を儀式化した迎講(むかえこう)と来迎図を発案したと記している。…
…すなわち臨終の場面では,病人に罪相(苦しみの相)と前境(法悦の相)が交替してあらわれるが,看病人はそれを病人に問いただして記録し,病人が前境の状態のまま死を迎えることができるよう,ともに念仏を唱えて助けなければならないといっている。 日本では,この道宣と善導の臨終論を正面から受け止めて,浄土往生のための手引きにしようとしたのが,平安中期にあらわれた源信であった。彼はその著《往生要集》末尾の〈臨終の行儀〉において上の両者の説を引用しつつ,臨終時における念仏生活の心得を説いて後世に大きな影響を与えた。…
…また平安時代に盛行した仏名会には地獄変屛風がめぐらされ,罪障懺悔の効果を高めるようはかられた。しかし六道への強い関心は,10世紀末浄土信仰の昂揚期に異常な高まりを見せ,源信は《往生要集》の冒頭の厭離穢土門で,六道輪廻の苦しみから脱するためには極楽浄土に往生せねばならぬとして,この厭うべき六道の情景を諸経を引用して克明に説いている。以後,六道輪廻の思想は,物語,詩歌などを通して人々の心に浸透していく。…
※「源信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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