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源信 げんしん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

源信
げんしん

[生]天慶5(942).大和
[没]寛仁1(1017).6.10. 近江
平安時代中期の天台宗の僧。恵心 (慧信) 僧都ともいう。早くから出家して比叡山横川の良源の門に入り,止観業 (天台の哲学) ,遮那業 (天台の行法) を学び,良源門下四上足の一人に数えられた。寛弘1 (1004) 年権少僧都となったが,翌年辞退した。

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源信
みなもとのまこと

[生]弘仁1(810)
[没]貞観10(868).閏12.28.
平安時代前期の廷臣。嵯峨天皇の子。母は広井氏または藤井氏。弘仁9 (818) 年勅により源姓を賜わり臣籍となる。兄弟である常 (ときわ) ,定 (さだむ) らとともに政府の要職につき,嵯峨源氏は朝廷の大勢力となった。

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デジタル大辞泉の解説

げんしん【源信】

[942~1017]平安中期の天台宗の僧。俗姓、卜部(うらべ)氏。比叡山良源に師事。横川(よかわ)恵心院に住んで著述に専念、「往生要集」を著してのちの浄土教成立の基礎を築いた。また、和讚(わさん)などの確立にも貢献。恵心僧都横川僧都

みなもと‐の‐まこと【源信】

[810~868]平安前期の公卿。嵯峨天皇の皇子。通称、北辺(きたのべ)左大臣。源の姓を賜り、臣籍に降下。応天門の変で嫌疑を受けたが難を免れた。

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百科事典マイペディアの解説

源信【げんしん】

平安時代の僧。恵心僧都(えしんそうず)とも。大和国当麻(たいま)の人。比叡(ひえい)山で良源(りょうげん)に師事,横川(よかわ)の恵心院に住して念仏を修した。天台宗の観心念仏と善導の称名念仏を合わせ,《往生要集》によって日本浄土教の祖とされる。
→関連項目西教寺浄土教真盛天台宗二十五菩薩仏教法語満月寺横川良源

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源信 みなもとの-まこと

810-869* 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
弘仁(こうにん)元年生まれ。嵯峨(さが)天皇の皇子。母は広井氏。弘仁5年臣籍にはいり,賜姓源氏の初例となった。天長8年(831)参議。天安元年左大臣となり,2年正二位。貞観(じょうがん)8年応天門の変にまきこまれたが,藤原良房の協力で無実となった。貞観10年閏(うるう)12月28日死去。59歳。贈正一位。北辺(きたのべ)大臣とよばれた。

源信 げんしん

942-1017 平安時代中期の僧。
天慶(てんぎょう)5年生まれ。天台宗。比叡(ひえい)山で良源に師事。横川(よかわ)の恵心院に隠棲して修行と著述に専念し,恵心僧都(そうず),横川僧都とよばれた。宋(そう)(中国)でもたかく評価された「往生要集」をあらわしたほか,念仏結社を指導するなど,のちの浄土教におおきな影響をあたえた。寛仁(かんにん)元年6月10日死去。76歳。大和(奈良県)出身。俗姓は卜部(うらべ)。著作に「一乗要決」「観心略要集」など。
【格言など】人かずならぬ身のいやしきは,菩提を願うしるべなり(「横川法語」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

源信

没年:貞観10.閏12.28(869.2.13)
生年:弘仁1(810)
平安前期の公卿。北辺左大臣と称される。正二位。嵯峨天皇の第7皇子。母は広井氏の娘。弘仁5(814)年に源姓を賜って臣籍に下った賜姓一世源氏(嵯峨源氏)。左京一条一坊に戸籍をあたえられた。幼時より読書,絵画,音楽をたしなんだが,特に箏にすぐれ,天人がその曲に感じ入って地上に降り立ったという。天長8(831)年,参議に任じられてから順調に昇進し48歳で左大臣。9年後に起きた応天門の変(866)で伴善男の讒言により罪に陥れられたが,太政大臣藤原良房の進言で事なきを得た。その後は政界を離れ,藤原氏の躍進を許すこととなった。摂津国河辺郡(兵庫県)で好きな狩の最中に落馬したのがもとで死去。北山の麓の墓所に棺が納められ,人や獣が遺骸を犯さないように四壁を塗り固めたという。

(朧谷寿)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

げんしん【源信】

942‐1017(天慶5‐寛仁1)
平安中期の天台宗の学僧。浄土教家として著名で,恵心僧都(えしんそうず),横川(よかわ)僧都とも称された。大和国(奈良県)当麻郷に生まれ,父の名は卜部正親,母は清原氏。7歳で父の死にあい,9歳で比叡山に登る。954年(天暦8)得度受戒し,良源の門下となって経論の研鑽に努め,973年(天延1)32歳で広学竪義となり,内供奉十禅師に補せられた。978年(天元1)に著した《因明論疏四相違略註釈》3巻は撰述年時のわかる最初の著書で,のち宋の慈恩寺弘道の門人に贈られたが,青年時代の著述とみられるものに《六即義私記》がある。

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大辞林 第三版の解説

げんしん【源信】

942~1017) 平安中期の天台宗の僧。恵心僧都・横川よかわ僧都。大和の人。比叡山で良源に師事し、横川恵心院に住す。「往生要集」を著して浄土教の興隆に大きく貢献し、また文学・芸術にも多くの影響を与えた。一方、天台宗恵心流の祖とされ、中古・中世の天台本覚思想の先駆をなした。著「一乗要訣」「観心略要集」「阿弥陀経略記」など。

みなもとのまこと【源信】

810~868) 平安初期の廷臣。嵯峨天皇の皇子。814年源姓を賜り臣籍に降下、皇子で源姓を賜る初例となった。857年左大臣。応天門の変では放火の罪に問われたが疑いは晴れた。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

源信
げんしん
(942―1017)

平安中期の天台宗の学僧。大和(やまと)国(奈良県)葛城(かづらき)郡当麻(たいま)郷に生まれる。父は占部正親(うらべまさちか)、母は清原氏。伝えによれば、7歳で父と死別、その遺命により出家し、9歳のとき比叡山(ひえいざん)に登り良源(りょうげん)(慈慧大師(じえだいし))に師事、13歳のとき得度受戒したという。横川恵心院(よかわえしんいん)にあって修行と著述に従事したので、横川僧都(そうず)、恵心僧都とも称された。978年(天元1)37歳にして『因明論疏(いんみょうろんしょ)四相違略註釈(ちゅうしゃく)』を著す。因明とは仏教論理学であり、この著作が今日知られる限りでの源信の処女作であるから、この年から彼は学僧として出発したことになる。985年(寛和1)主著『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著す。彼はここで多くの経典のほかに、インド、中国、日本の諸師の論疏を引用して、人間は穢土(えど)を厭離(おんり)し極楽(ごくらく)に往生することにより初めて仏陀(ぶっだ)の悟りに分け入ることができると述べ、「往生の業は、念仏をもって本となす」と説く。『往生要集』はこの後、宋(そう)人の手により中国の天台山国清寺にもたらされて賛仰の的となり、源信の名は中国の仏教界にも知られるに至った。986年(および988年)に著された『二十五三昧(さんまい)式』は、『往生要集』の教説に基づいて念仏三昧を勤修する三昧会(さんまいえ)の結衆の指針となるもので、三昧会が25人の発起衆の呼びかけにより結成されたので、この名称がある。正暦(しょうりゃく)年中(990~995)、霊山院を造営、また華台(けだい)院に丈六弥陀(みだ)三尊を安置し、迎講(むかえこう)を始めた。1005年(寛弘2)には、大乗仏教概論ともいうべき『大乗対倶舎抄(くしゃしょう)』を完成させ、また翌年には、一切衆生(いっさいしゅじょう)の成仏(じょうぶつ)を説く『一乗要決(いちじょうようけつ)』をまとめた。07年撰述(せんじゅつ)の『観心略要集』は、理観の念仏を強調した書として『往生要集』と並び称される。さらに14年(長和3)には『阿弥陀経(あみだきょう)略記』を著し、生涯を学問と修行に終始して、寛仁(かんにん)元年6月10日、76歳で示寂した。彼の伝記は『楞厳院(りょうごんいん)源信僧都伝』のほか多数あり、さらに往生伝、説話集などにも採録されている。[広神 清]
『八木昊恵著『恵心教学の基礎的研究』(1962・永田弘文堂) ▽石田瑞麿校注『日本思想大系6 源信』(1970・岩波書店) ▽川崎庸之校注『源信』(『日本の名著4』1972・中央公論社)』

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世界大百科事典内の源信の言及

【一乗要決】より

…比叡山横川(よかわ)恵心院の僧都(そうず)源信が1006年(寛弘3)に著した書。3巻。…

【卜部氏】より

…この一族は代々学者を輩出し,鎌倉時代には,兼頼の子兼文が《古事記裏書》,その子兼方(懐賢)が《釈日本紀》を著すなど,歴史書の研究に優れた業績を残していた。なお平安時代の浄土教の恵心僧都源信は,大和国葛下郡の占部正親の子と伝えられている。 兼熙の10世兼治の次男兼従は雲上家の卜部萩原姓を名のり,萩原員従の次男従久より錦織家(にしごりけ)が分かれた。…

【往生要集】より

…比叡山横川(よかわ)の恵心院の僧都(そうず)源信が985年(寛和1)に撰述した書。3巻。…

【子捕ろ子捕ろ】より

…古へは比比丘女(ひふくめ)といへり。その始原は恵心僧都経文の意をとり,地蔵菩薩罪人をうばひ取給ふを,獄卒取かへさんとする体をまなび,地蔵の法楽にせられしより始れりといへり〉とあり,仏法の意に基づいて恵心僧都源信が創案した鬼遊びで,古くは〈ひふくめ〉と呼ばれていたことがうかがわれる。遊び方は,(1)まず鬼と親を1人ずつ決め他の者は子となる。…

【死】より

…古代末から中世的世界の形成期にかけて姿を現したといえるが,具体的には各種の〈往生伝〉の編述(王朝末期)および《地獄草紙》や《餓鬼草紙》などの六道絵の制作(鎌倉初期)となって実を結んだ。そしてそのような動きに大きな影響を与えたのが源信の《往生要集》であったことは重要である。というのも《往生要集》はその第1章〈厭離穢土(おんりえど)〉と第2章〈欣求浄土(ごんぐじようど)〉によって,のちに日本における地獄学と浄土学の出発点とみなされるようになったからである。…

【浄土教】より

…弥勒信仰は白鳳期を経て奈良時代前期にはかなり栄えたが,奈良時代後期には遅れて伝来した阿弥陀信仰の方が優勢を占めるようになる。つぎの平安時代初期に樹立された天台宗の教団内に阿弥陀信仰の浄土教がおこり,とくに円仁が入唐して五台山に巡礼し法照の五会念仏にもとづく念仏三昧法を移入し,ついで源信が《往生要集》を著して地獄と極楽の詳細を描き出してから,浄土教の全盛時代を迎えるにいたる。平安末期から鎌倉時代にかけて,ひとえに善導によると称した法然は,源信の教義をも受けて専修念仏を強調し,《選択本願念仏集》を著して浄土宗を開き,その弟子の親鸞は《教行信証》を著して絶対他力の信仰を鼓吹し,浄土真宗の祖となり,また一遍は全国を遊行して念仏をすすめ時宗の祖とされる。…

【浄土教美術】より

…10世紀には空也によって庶民の間に浄土信仰が醸成される一方,貴族の間には不断念仏と法華経信仰の併修が流行する。 985年(寛和1)源信の撰述した《往生要集》は,現世をいとい来世に往生する手段として阿弥陀如来を念仏する五つの方法や臨終時の作法を説いたが,その中でも最も重視されたのは阿弥陀を観想する法と臨終時に来迎(らいごう)を祈念する法であったとみられる。以後浄土信仰は急速に貴族社会に滲透したが,その際,前者からは定印阿弥陀仏と阿弥陀堂建築が成立し,後者からは迎講(むかえこう),阿弥陀来迎図が生まれる。…

【二十五三昧式】より

…《横川首楞厳院(よかわしゆりようごんいん)二十五三昧式》ともいう。源信撰と伝えるが不明。986年(寛和2)源信を指導者として比叡山横川首楞厳院で結成した念仏者集団二十五三昧会のために作成されたもの。…

【来迎図】より

…しかしこれらはいずれも《観無量寿経》にもとづく九品来迎図である。ところがこれとは別に10世紀の末ごろ天台僧源信によって撰述された《往生要集》は末法到来の近いことを前提に極楽往生の緊要なことを説き,阿弥陀仏を観想する法と併せて臨終時に阿弥陀来迎を請い願う作法を説き示した。源信の伝記には彼がその生前に阿弥陀来迎を儀式化した迎講(むかえこう)と来迎図を発案したと記している。…

【臨終】より

…すなわち臨終の場面では,病人に罪相(苦しみの相)と前境(法悦の相)が交替してあらわれるが,看病人はそれを病人に問いただして記録し,病人が前境の状態のまま死を迎えることができるよう,ともに念仏を唱えて助けなければならないといっている。 日本では,この道宣と善導の臨終論を正面から受け止めて,浄土往生のための手引きにしようとしたのが,平安中期にあらわれた源信であった。彼はその著《往生要集》末尾の〈臨終の行儀〉において上の両者の説を引用しつつ,臨終時における念仏生活の心得を説いて後世に大きな影響を与えた。…

【六道絵】より

…また平安時代に盛行した仏名会には地獄変屛風がめぐらされ,罪障懺悔の効果を高めるようはかられた。しかし六道への強い関心は,10世紀末浄土信仰の昂揚期に異常な高まりを見せ,源信は《往生要集》の冒頭の厭離穢土門で,六道輪廻の苦しみから脱するためには極楽浄土に往生せねばならぬとして,この厭うべき六道の情景を諸経を引用して克明に説いている。以後,六道輪廻の思想は,物語,詩歌などを通して人々の心に浸透していく。…

【応天門の変】より

…事件の発端はこの年閏3月10日夜に朝堂院の正門である応天門が炎上したことであった。最初大納言伴善男(とものよしお)は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。ところが8月3日に左京の備中権史生大宅鷹取が伴善男・中庸父子が真犯人であると告げた。…

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