平安中期の天台宗の僧。近江(おうみ)国(滋賀県)浅井郡の出身。俗姓木津(きづ)氏。延喜(えんぎ)12年9月3日生まれ。幼時から霊童とされ、梵釈(ぼんしゃく)寺覚阿(かくあ)に勧められ、923年(延長1)比叡山宝幢院(ひえいざんほうどういん)月燈(がっとう)のもとへ行き、ついで理仙(りせん)に学び、928年出家した。いまだ受戒して僧とならぬうちに理仙が寂したので、尊意(866―940)について受戒し、喜慶(きけい)や満賀、相応(そうおう)らを歴学して天台教学顕密二教に通じた。937年(承平7)に興福寺の維摩会(ゆいまえ)に参列して、早くも頭角を現し、以後密教修法に精通し灌頂(かんじょう)を受けた。横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)を創(はじ)め、藤原師輔(ふじわらのもろすけ)から横川法華三昧(ほっけさんまい)堂も寄進された。963年(応和3)の清涼(せいりょう)殿での論義に、最澄(さいちょう)以来の定性(じょうしょう)二乗(生まれながら声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)たるもの)も成仏(じょうぶつ)すると主張して奈良の学僧と論争した応和宗論(おうわのしゅうろん)は、良源の名を高めた。964年(康保1)内供奉(ないくぶ)十禅寺、966年第18世天台座主(ざす)となる。比叡山内に六月会広学竪義(りゅうぎ)(論義問答)をおこして天台宗の教学振興を図る。当時焼亡した講堂などの復興にも敏腕を振るい、その他一山諸堂の造営は数多い。かくて比叡山の僧徒は2700人を数えた。963年に律師、968年(安和1)権少僧都(ごんのしょうそうず)、981年(天元4)大僧正(そうじょう)と、仏教界の綱位を極め、輦車(れんしゃ)の使用も許された。論義の振興のほか、密教修法にも効験あらたかで宮中に祈祷(きとう)するなど活躍した。また一山の経営では、寺観を整えるばかりでなく、対立をみせていた円仁(えんにん)門徒と円珍門徒の協力態勢をとらしめ、厳にその対立を止めさせた。藤原師輔との交流深く、その子を出家させ尋禅(じんぜん)(943―990)とし、後事を託するなど、延暦(えんりゃく)寺の貴族化にも影響が大きい。弟子にはほかに増賀(ぞうが)や源信(げんしん)などもあり、『九品往生義(くほんおうじょうぎ)』を著すなど浄土教を盛んにした。命日1月3日にちなみ元三(がんさん)大師と通称され、没後慈恵(じえ)大師と諡(おくりな)された。また天海(てんかい)と並んで両大師とよばれる。死後早くから伝説化され、鎌倉時代には良源の木像を多数つくって寺に納めたり、1万体の画像を摺(す)って戸口に貼(は)ったり魔除(まよ)けの護符とする風習を生じ、比叡山横川の大師堂などから出される角(つの)大師、魔滅大師(豆大師)の護符とともに、その霊験(れいげん)が独自の信仰を生んだ。
[木内曉央 2017年10月19日]
平安中期の天台宗の僧。俗姓木津氏,近江国(滋賀県)浅井郡に生まれる。12歳のとき比叡山に登り,17歳で出家受戒した。935年(承平5。一説に937年)興福寺唯摩会で義昭と対論して名声をあげ,藤原忠平の知遇をえた。忠平の子師輔も良源と師檀関係を結び,のち良源は摂関家守護の観音の化身であるとの伝承が生まれ,摂関家に尊崇された。949年(天暦3)横川(よかわ)の首楞厳院(しゆりようごんいん)に籠居したが,翌年師輔の推挙で東宮護持僧となった。師輔は横川に法華三昧堂を建立して良源に付し,荘園を寄進し,その子兼家も恵心院や薬師堂を建立するなど,積極的な援助をした。963年(応和3)宮中清涼殿で行われた宗論(応和宗論)で南都の学匠法蔵らを論破し,964年(康保1)には内供奉十禅師となり,966年第18代天台座主となった。良源は座主として,火災で焼失した東塔の諸堂の再建にあたり,さらに西塔や横川の諸堂や僧房,経蔵,政所屋など,山内の施設を整備した。延暦寺の三塔十六谷は良源のとき完成をみたのである。住山の僧も3000人といわれ,かつてない盛況を示した。970年(天禄1)良源は《二十六箇条起請》を定めて山内の僧団規律とした。僧の奢侈,武装,私刑を禁じ,籠山結界をきびしく守らせ,春秋2季に房主帳を提出させることで生活を律し,また年分度,受戒,灌頂,布薩,安居や山内の法会を厳重にし,日常の修行にいたるまで細かく定めている。さらに毎年6月に行う法華大会に広学竪義(こうがくりゆうぎ)という論義を設けて教学の振興につとめた。良源の門下からは源信,覚運,覚超,尋禅(じんぜん)など学匠が多数でている。
良源の活動によって延暦寺は他の教団を圧し,末寺や荘園も増加し,世俗的にも強大な存在となった。しかし檀越(だんおつ)であった摂関家の援助に負うところが大きく,良源没後に諸堂や荘園の大部分は師輔の子であった弟子の尋禅に譲られて,教団の門閥化を招く結果となった。972年良源は病をえて遺告を書き,没後の堂舎,所領,法文,法具の処分と葬送の方法,石塔造立のことなどを定めた。その後981年(天元4)には円融天皇の病気を祈って験あり,行基以後はじめての大僧正に任ぜられている。985年(寛和1)正月3日横川定心房で没した。遺骸は遺言にしたがって横川の北方華芳峰に葬られ,石塔がたてられた。987年(永延1)慈慧と諡号(しごう)されたが,正月3日に没したので俗に元三(がんさん)大師ともいう。また良源の墓所はさまざまの霊験があり,一山の護法とされ,御廟(みみよう)大師と称された。良源の住房定心房(四季講堂)には画像がまつられ,御影堂として信仰を集めた。良源の信仰は全山におよび,中世には〈めぐり大師〉とよばれて画像を交替に諸院で護持したり,堂内に木像や画像をまつった。民間でも信仰され,豆大師または角(つの)大師とよぶ護符を,家の門口にはって疫病や災難よけにする風習があり,現在も諸地方で見られる。
執筆者:西口 順子
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(勝浦令子)
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…弘法大師(空海)をまつる真言宗寺院では,毎月21日が縁日で,元三大師の場合は1月3日である。元三大師は天台宗良源上人のことで,正月の厄払いの機能をもっており,正月の縁日は人口に膾炙(かいしや)している。七福神の一つ毘沙門天は,1月,5月,9月の最初の寅の日が縁日,とくに正月の初寅の縁日が知られる。…
…その後,円仁,円珍が現れて寺運は発展の一途をたどり,開創から1世紀を経ずして,早くも9世紀中ごろに延暦寺は仏教界最大の勢力となった。10世紀に入ると,905年(延喜5)宇多法皇が登山受戒したころから,皇室・摂関家の信仰を集め,10世紀中葉の座主良源の時代,966年(康保3)山上諸堂焼失の厄もあったが,つぎつぎと復興され,大衆三千といわれる学徒が雲集し,当寺は全盛期を迎えた。しかし,このころから慈覚(円仁),智証(円珍)両門徒の対立が進行激化し,ついに993年(正暦4)に至って慶祚以下の智証派1000余人は下山して園城寺(三井寺)に拠った。…
…そのなかでいわゆる裹頭(かとう)という独特の風体と,僧侶らしからぬ武勇の描写は,僧兵が寺院社会横暴の副産物という印象を後世にのこすことになった。室町時代前期に成立した《山家要記浅略》には,天台座主良源が,仏聖灯油・供料を確保し,他宗の攻撃を退けるため,愚鈍・無才の僧徒を〈武門一行之衆徒〉(武芸専門の僧徒)となしたとあり,この説は後に《大日本史》に継承され,僧兵の起源とされた。ところが970年(天禄1)良源みずから記した《二十六箇条起請》には,僧徒が裹頭にて堂内に入り行法を妨げることを禁じ,また武器を帯し寺内を横行する僧徒の捕縛を定めており,《山家要記浅略》の説は史実として認めがたい。…
…暮の11月23日に大師講と称し,小豆粥やだんごを作って,大師が村に来るのを歓待するとか,大師が来て麦やソバをもたらしたとする伝説も多い。 元三大師は角大師ともいわれるが,天台の僧良源のことで,正月の3日に生まれたからこの名がついたとされる。祈禱をよくするため,民間に厄よけ,疫病よけとして信仰される。…
…平安時代に入り密教修法が盛んになると,《七仏本願功徳経》による七仏薬師法が発達した。七仏薬師法は,薬師7体を並べて祈るもので,9世紀の円仁がはじめたというが,10世紀の中ごろ天台宗の良源が摂関家の安産祈願に修して以来,有名になった。東密では七仏薬師法を行わないが,台密では除病安産など息災増益の秘法として特に重んじた。…
※「良源」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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