小一条院(読み)こいちじょういん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小一条院」の意味・わかりやすい解説

小一条院
こいちじょういん

[生]正暦5(944).京都
[没]永承6(1051).1.8. 京都
三条天皇の第1皇子。名は敦明 (あつあきら) 。母は皇后藤原 娍子。一品式部卿となり,長和5 (1016) 年後一条天皇の皇太子となったが,時の関白藤原道長に冷遇されたため,親王は皇太子を辞し,小一条院の院号を賜わり,太上 (だいじょう) 天皇に准じられた。これは皇位につかずに院号を賜わった最初の例である。妃は藤原顕光の娘延子,藤原道長の娘寛子。

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改訂新版 世界大百科事典 「小一条院」の意味・わかりやすい解説

小一条院 (こいちじょういん)

敦明親王(あつあきらしんのう)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小一条院」の解説

小一条院 こいちじょういん

敦明親王(あつあきらしんのう)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小一条院」の意味・わかりやすい解説

小一条院
こいちじょういん

敦明親王

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の小一条院の言及

【敦明親王】より

…三条天皇は後一条天皇(一条天皇皇子)への譲位に際し,藤原道長の意に反して親王の立太子を実現したが,道長は東宮に伝えるべき壺切の剣を渡さぬなど圧迫を加えたのでその地位は不安定で,父上皇の没後ついに東宮を辞し,後一条天皇の同母弟敦良親王(後朱雀天皇)が道長の望みどおり東宮となった。以後は上皇に準じて小一条院と号し,道長も女の寛子を妃とし優遇したが,もとの妃の延子と,その父藤原顕光の悲嘆は大きく,その死後は道長一家にたたる怨霊として恐れられた。【黒板 伸夫】。…

【花山院】より

…はじめ清和天皇と子の貞保親王邸であったのを摂関の藤原忠平が伝領。忠平は別にもと藤原冬嗣邸の東京第(小一条院)も伝領していたが,花山院はその東に位置していたところから東一条家とも単に東家とも呼ばれた(《拾芥抄》)。忠平の所有となったのは10世紀初めごろと考えられる。…

※「小一条院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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