藤原顕光(読み)ふじわらのあきみつ

改訂新版 世界大百科事典 「藤原顕光」の意味・わかりやすい解説

藤原顕光 (ふじわらのあきみつ)
生没年:944-1021(天慶7-治安1)

平安中期の公卿堀川大臣,広幡大臣と号した。従一位左大臣に昇り,長寿を保ったが,終始従兄弟の藤原道長に望みを妨げられ,悪霊と化したとされる。関白兼通の長男,母は元平親王の女。父兼通は道長の父兼家と犬猿の仲であった。顕光は長女元子を一条天皇の女御としたが,同天皇の中宮であった道長の長女彰子の勢力に圧せられ,さらに次女延子を小一条院(三条天皇皇子敦明親王)の妃としたが,ここでも同じく妃となった道長の五女寛子に寵を奪われた。顕光は度重なる怨みと失意の中で,嘆き悲しむ延子を見るうちに,一夜にして白髪となり,道長の呪詛(じゆそ)に心を砕くようになったという。悪霊の大臣と称された顕光の説話は,《十訓抄》《古事談》《続古事談》などに見え,停滞しはじめた公家社会の陰湿な政治的葛藤様相をよく伝えている。強烈な怨霊として,後世に語り伝えられた。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原顕光」の解説

藤原顕光

没年治安1.5.25(1021.7.7)
生年天慶7(944)
平安中期の公卿。堀川左大臣と呼ばれる。関白兼通と元平親王の娘の子。53歳で右大臣,寛仁1(1017)年左大臣に昇った。家柄のよさで大臣を4半世紀務めたが政治(朝儀)に疎く,儀式の最中に懐中のメモをひっきりなしに見たり,失態を演じることたびたびであったことから,従兄弟の藤原道長や碩学の藤原実資らから「至愚の又至愚なり」と批判されている。後宮対策では一条天皇に入れた娘元子(承香殿女御)に皇子の誕生がなく,天皇の死後に密通事件を起こしたため勘当した。次女の延子を東宮敦明親王に入れたが(女御),その後道長の娘寛子が入内,悩んだ延子は病死する。そんなことからのち寛子が死んだとき世間で延子と顕光の怨霊のしわざといわれた。

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原顕光」の解説

藤原顕光 ふじわらの-あきみつ

944-1021 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天慶(てんぎょう)7年生まれ。藤原兼通(かねみち)の長男。母は元平親王の娘。天延3年(975)参議。のち左大臣,従一位にいたる。長女元子を一条天皇の女御(にょうご)に,次女延子を皇太子敦明(あつあきら)親王の妃としたが,藤原道長の圧力で後宮対策に失敗。治安(じあん)元年5月25日死去。78歳。道長一族にたたり,世に悪霊左府とおそれられた。通称は堀川左大臣。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原顕光の言及

【蘆屋道満】より

安倍晴明と術くらべする人物として登場することが多い。《古事談》《宇治拾遺物語》《十訓抄》に,道摩法師が藤原顕光の命で藤原道長に妖術をしかけるが,道長の犬と晴明に見破られ,本国播磨国に追放されたと伝える。《峯相記》《東斎随筆》に同じ説話が見え,道摩を道満に作る。…

【敦明親王】より

…三条天皇は後一条天皇(一条天皇皇子)への譲位に際し,藤原道長の意に反して親王の立太子を実現したが,道長は東宮に伝えるべき壺切の剣を渡さぬなど圧迫を加えたのでその地位は不安定で,父上皇の没後ついに東宮を辞し,後一条天皇の同母弟敦良親王(後朱雀天皇)が道長の望みどおり東宮となった。以後は上皇に準じて小一条院と号し,道長も女の寛子を妃とし優遇したが,もとの妃の延子と,その父藤原顕光の悲嘆は大きく,その死後は道長一家にたたる怨霊として恐れられた。【黒板 伸夫】。…

※「藤原顕光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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