平安中期の公卿,書家。摂政・太政大臣実頼の孫。夭折した左近衛少将敦敏の子。961年(応和1)従五位下に叙し,侍従,右近衛少将,五位蔵人,左右中弁などを経て,978年(天元1)参議,以後兵部卿,大宰大弐,皇后宮権大夫などとなり正三位にのぼった。性格が奔放で,宇佐八幡宮との紛争で大弐を免ぜられた。
執筆者:目崎 徳衛 佐理は三蹟の一人に数えられる平安時代の書家として,〈さり〉とも通称される。その書跡を〈佐蹟〉という。書芸は生前から名高く,一条天皇も大宰府に赴任していた佐理にはるばると手本を求め,また入宋する僧侶に託して日本書芸の代表として佐理の筆跡をおくったという。性質は怠け者(懈怠者)とか,だらしない(如泥人)とかいわれたが(《大鏡》),一種の芸術家肌であったかもしれない。三蹟の一人,藤原行成の書が悪くすると卑俗の気を生ずるのに比べ,佐理の書は気骨をみせたところがある。作品として信じてよいものは書状が多く,《離洛帖》(畠山美術館),《恩命帖》(宮内庁),《国申文帖》(書芸文化院),《頭弁帖》《去夏帖》などである。その他,書芸上の〈作品〉といえるもので確実なものは,969年(安和2)祖父太政大臣藤原実頼の宴で書した《詩懐紙》1点があるだけである。後世,古筆家などが佐理と鑑定した草がなは少なくないが,おおむね信じられない。大宰大弐としての任地から都へ帰る途中,海が荒れたが,それは伊予の三島の大明神が佐理をひきとめるためで,扁額を揮毫(きごう)すると海がないだという逸話がある。
執筆者:田村 悦子
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平安中期の公卿(くぎょう)で、能書。「~さり」ともいう。小野道風、藤原行成(ゆきなり)とともに「三蹟(さんせき)」として書道史上に名をとどめる。その遺墨は「佐跡(させき)」とよばれて尊重された。摂関家の名門の一系に生まれたが、4歳で父に死別。関白太政大臣(だいじょうだいじん)を極めた祖父の小野宮実頼(おののみやさねより)に育てられ、その権勢を後ろ盾に18歳の961年(応和1)、68歳の小野道風と同日に昇殿を許された。やがて、能書としての頭角を現し、970年(天禄1)円融(えんゆう)天皇の大嘗会(だいじょうえ)において、悠紀主基屏風(ゆきすきびょうぶ)の色紙形(しきしがた)の筆者に抜擢(ばってき)された。能書として最高の栄誉に価するこの仕事を佐理は生涯に三度までも務め、「日本第一の御手」(大鏡)といわれた。参議・従三位(じゅさんみ)に上り、991年(正暦2)には大宰大弐(だざいのだいに)となって任地に下り、翌年正三位に昇進したが、995年(長徳1)に宇佐八幡宮(はちまんぐう)との間に起こした不祥事により、その任を解かれて帰京。不遇のうちに長徳(ちょうとく)4年7月25日、55歳で世を去った。当時の記録によれば、役人に不向きな、芸術家タイプの人物であったらしい。遺墨として、道風の書風の影響が色濃い、26歳の筆になる『詩懐紙』(国宝、徳島・松平家)のほか、能書佐理の面目を発揮した『離洛帖(りらくじょう)』(国宝、東京・畠山(はたけやま)記念館)や『恩命帖(おんめいじょう)』(宮内庁)などの書状が数通現存する。
[松原 茂]
『小松茂美著『平安朝伝来の三蹟と白氏文集の研究』(1965・墨水書房)』
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(古谷稔)
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944~998.7.-
名は「さり」とも。平安中期の貴族。能書家で三蹟の1人。父敦敏は早世し,祖父実頼に後見された。961年(応和元)従五位下となり,右近衛権少将・蔵人・右中弁・参議などを歴任。984年(永観2)新内裏の額を書き従三位に昇った。円融・花山・一条各天皇の大嘗会(だいじょうえ)の屏風色紙形を書く。990年(正暦元)兵部卿となったが,翌年辞し大宰大弐(だいに)として赴任。992年正三位となるが,宇佐八幡宮の神人(じにん)との乱闘事件から995年(長徳元)解任され京に召還された。のち許され,兵部卿に再任したが,まもなく没した。書に名高く,「栄花物語」に「手書きのすけまさ」とみえる。「詩懐紙」(国宝)「離洛帖(りらくじょう)」(国宝)などの書がある。
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…平安中期の公卿,書家。摂政・太政大臣実頼の孫。夭折した左近衛少将敦敏の子。961年(応和1)従五位下に叙し,侍従,右近衛少将,五位蔵人,左右中弁などを経て,978年(天元1)参議,以後兵部卿,大宰大弐,皇后宮権大夫などとなり正三位にのぼった。性格が奔放で,宇佐八幡宮との紛争で大弐を免ぜられた。【目崎 徳衛】 佐理は三蹟の一人に数えられる平安時代の書家として,〈さり〉とも通称される。その書跡を〈佐蹟〉という。…
…平安中期の能書家,小野道風,藤原佐理(すけまさ),藤原行成(ゆきなり)の3人,またその書をさす。中国や日本では名数が好まれたが,書道のうえでも平安初期の嵯峨天皇,橘逸勢(はやなり),空海が〈三筆〉と称され,〈三蹟〉はこれに対応する。…
※「藤原佐理」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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