朝日日本歴史人物事典 「小森桃塢」の解説
小森桃塢
生年:天明2.4.3(1782.5.14)
江戸後期の蘭方医。名は義啓,字は玄良,号は桃塢,鷯斎。美濃国外淵村(大垣市)大橋政右衛門の次男。寛政3(1791)年その才能を見込まれ,同国出身で山城伏見に住む医師小森義晴の養子となる。寛政7年大垣の蘭方医江馬蘭斎に入門,2年後伏見に帰り,文化2(1805)年に海上随鴎(稲村三伯)が京に移住するや,翌年友人藤林普山と共に入門した。のち普山は蘭語研究と翻訳,桃塢は蘭方による治療に専念。同9年随鴎の遺志を継ぎ人体解剖を行う(門人波多野貫道が『解観大意』を著す)。同11年洛中に転居,同14年ブカンの著を訳し『蘭方枢機』を著す。文政3(1820)年典薬寮医師,従六位下肥後介。翌年再度人体解剖,わが国乳糜管観察の最初とされる(門人池田冬蔵が『解臓図賦』を著す)。同9年江戸参府途上のシーボルトを厚くもてなしている。同10年『病因精義』(桃塢講義の筆記,ブールハーヴェの影響を受け「自然良能」を重視),『泰西方鑑』刊行。大垣藩,岡部藩へ多額の寄付をし,祇園祭の緞帳や伏見御香宮への大型灯籠の寄付もしている。死後の天保14(1843)年5月12日従五位下信濃守に叙せられ,翌日死が公表された。小森家(京都市伏見区)に厨子入り衣冠束帯姿の木造桃塢座像や門人帳(324名署名)がある。昭和56(1981)年大垣市外淵に生誕地碑と顕彰碑建立。桃塢は正月3日間のほかは診療を休まず,傍ら教育と著述を行った熱心な医家であった。<参考文献>山本四郎「小森桃塢伝研究」(有坂隆道編『日本洋学史の研究』2),京都府医史会編『京都の医学史』
(山本四郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報