日本大百科全書(ニッポニカ) 「モーツァルト」の意味・わかりやすい解説
モーツァルト
もーつぁると
Wolfgang Amadeus Mozart
(1756―1791)
オーストリアの作曲家。西洋音楽の歴史が生んだ最大の大家の1人。1月27日、ザルツブルクに生まれ、1791年12月5日、ウィーンに没する36年にわずかに満たない短い生涯に、数多くの名曲を残した。父レオポルトJohann Georg Leopold M.(1719―1787)はザルツブルク大司教の宮廷楽団のバイオリン奏者(のち副楽長)で、作曲家としても活躍。また三男四女の末子ウォルフガング誕生の年に著した『バイオリン奏法』は、その分野の古典的文献である。
[大崎滋生]
幼・少年期―1773年まで
幼少時から父親によって天才教育が施されたモーツァルトは、すでに5歳のとき最初の作品を書いたといわれる。しかし、こうした最初期の作品はほとんど父の書いた原稿の形で伝わっており、それらにおいて父親が果たした役割は推測の域を出ない。父レオポルトは息子を音楽に関心の深い人々の前で披露し、名声を得ようとし、また同時に、多くの刺激を息子に与えて、その実りの豊かな発展を期待した。たいていはこうした目的で企てられたたび重なる旅行が、彼の生涯を彩っている。延べ日数にするとその旅行は10年以上にも及び、生涯の4分の1以上が旅の間に過ぎていったといえる。ことに1770年代までに行われた相次ぐ旅行は、当時ヨーロッパの各地でそれぞれ独自に展開していた音楽を吸収する絶好の機会となったし、その影響が刻々と変化するさまは、その作品にはっきりと跡づけることができる。しかしもちろん、こうした少年時代からの肉体的な消耗が、早逝の遠因をつくったことも否めないであろう。また、こうした数多い旅の間に家族と取り交わしたおびただしい手紙が、彼の生活ぶりや考え方、作品成立の事情、また18世紀後半の音楽情況などをよく伝えてくれる。
6歳の誕生日の前後に行ったミュンヘンへの24日間の旅行が最初のものであったが、このときに関してだけ記録が残っていない。翌1763年6月(7歳)に開始されたパリ―ロンドン旅行は、1766年11月(10歳)までの3年半近くにも及び、生涯で最大の旅行であった。音楽の重要な中心地を巡りながら、各地の宮廷で演奏し、教会でオルガンを弾き、道中や仮住まいの家で作曲をする、という旅であった。ミュンヘンをはじめとするドイツ各地を経て、出発から5か月すこしたってパリに到着、5か月滞在する。同地で活躍するショーベルトJohann Schobert(1735ころ―1767)らドイツ人作曲家たちの影響を受け、バイオリン・ソナタを作曲、この作品集の刊行(1764・パリ)が彼の最初の出版となる。続いて1765年7月までロンドンに15か月滞在するが、とくにここではヨハン・クリスチャン・バッハ(J・S・バッハの末子)と一家をあげて親しくつきあった。こうして、かつてミラノにいたJ・C・バッハを通じて、当時の音楽界をリードしていたイタリア様式を学んだ。その成果が初めての交響曲創作(6曲、うち2曲は消失。K19aと番号をつけられた1曲は長らく失われていたが、1981年に再発見された)として現れている。その後約15か月をかけてオランダ、ベルギー、フランス、ドイツ各地を巡って、ザルツブルクに戻ったときは貴族から贈られた多くの金輪時計、小箱などを手にしていた。
約9か月を故郷に過ごすが、その間の1767年初めには最初の劇作品である宗教劇『第一戒律の責務』、ラテン語喜劇『アポロンとヒアキントス』が書かれた。同年9月ウィーンへ出発、15か月滞在。その間にオペラ・ブッファ『ラ・フィンタ・センプリーチェ(みてくれのばか娘)』、ジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』、最初のミサ曲『荘厳ミサ曲ハ短調』(K47a)、6曲の交響曲などを作曲した。1769年はほとんど故郷で過ごし、ミサ曲ハ長調(K66)、その他短い宗教音楽、実際踊られるためのメヌエット集、オーケストラのためのセレナーデなどを作曲、10月にザルツブルクの大司教宮廷のコンサートマスターに任命された。
1769年12月中旬に初めてのイタリア旅行に出発、約15か月滞在。イタリアにはその後1771年8月から4か月、1772年10月から4か月と、計3回旅行している。イタリアでは主としてオペラ(『ポントの王ミトリダーテ』『アルバのアスカニオ』『ルチオ・シッラ』)、8曲の交響曲、6曲の弦楽四重奏曲、オラトリオ『救われしベトゥーリア』などを書いたが、いずれもイタリア様式の新鮮な影響が濃く映し出されている。第2回と第3回イタリア旅行の間約10か月ほどザルツブルクの自宅で過ごしたが、この間に、これまでモーツァルト父子がたびたび提出する休暇願につねに寛大であったザルツブルクの大司教シュラッテンバッハ伯ジギスムントが世を去り、後任はコロレド伯ヒエロニムスとなった。その就任祝いのために劇的セレナータ『スキピオの夢』を書いて上演するかたわら、8曲の交響曲を作曲している。
[大崎滋生]
青年期―1773年から1781年まで
第3回イタリア旅行から戻って1773年3月から4か月ザルツブルクに落ち着いていた間には、4曲の交響曲、3曲のセレナーデないしディベルティメント、ミサ曲ハ長調(K167)を作曲。しかし、ザルツブルクという小さな町の、大司教を中心とした音楽生活に明るい見通しをもたなかった父子は、同年7月から2か月間ウィーンを訪れ、就職口を探した。就職の面ではよい成果が得られなかったものの、この旅行は新しいウィーンの音楽(ハイドン、ガスマンら)を十分に吸収する役目を果たし、彼の作品に新風が吹き込まれた。そうした影響をよく示すものに6曲の弦楽四重奏曲(K168~173)がある。
1773年9月末から翌1774年12月までの1年2か月をザルツブルクで送るが、この時期に書かれたいくつかの作品は、神童から大作曲家への転換がおこりつつあることをよく示している。初めての短調交響曲(ト短調・第25番。1773.10)や次のイ長調の交響曲(第29番。1774.4)などがその例である。しかし同時に、このころから新大司教の政策がはっきりと打ち出されるようになり、モーツァルトの創作活動にも大きな影響を及ぼすことになる。旅に出て職務をなおざりにすることは制限されるようになったから、ザルツブルクでより多くの時間を使うことになり、いきおい、同地の音楽生活と密着した作品が数多く生み出されるようになった。その一つは教会音楽であり、しかも礼拝音楽の簡素化を求めた大司教の意向によって、いわゆる略式ミサ(ミサ・ブレビス)が多く書かれた。一方、ザルツブルクの大学や貴族とかかわりの深い、軽い器楽曲や各種の協奏曲などもこの1770年代中盤に多く作曲された。唯一の例外は、オペラ作曲の依頼を受け、『偽りの女庭師』上演のために1774年暮れにミュンヘンに行ったことである。その3か月の滞在中に当地での就職の可能性を探るが失敗。現存する最初の6曲のピアノ・ソナタはこの時期に成立している。
請願書を出してようやく彼だけが旅行を認められ、1777年9月、母親と2人でマンハイム―パリ旅行へ出発する。約16か月に及ぶこの旅行も、彼の音楽様式の発展に大きな影響を与えた。ピアノ・ソナタ、バイオリン・ソナタ、フルートのための協奏曲や四重奏曲、交響曲ニ長調(「パリ」第31番)などにそれはよく現れているが、この旅行でも目的としたよい就職口はみつからず、結局1779年1月にザルツブルクに戻った。帰郷後、宮廷オルガニストの職を得た彼には、一見平穏な宮廷音楽家としての日々が続くが、1780年11月にミュンヘンからふたたびオペラ『クレタの王イドメネオ』の依頼を受け、その上演のため赴いた旅行は、彼の生涯において決定的なものとなった。6週間の予定の休暇がすでに4か月にもなって、当時首都ウィーンに滞在中であった大司教に呼びつけられて叱責(しっせき)を受けたことをきっかけに、ついに1781年5月に辞表を提出した。その後、大司教の部下に足蹴(あしげ)にされる事件も起こり、そのまま、だれにも雇われない自由な音楽家として、ウィーンに居着いてしまった。
[大崎滋生]
ウィーン時代―1781年以後
1781年後半から生涯を閉じるまでの10年半の月日は、オペラを上演し、各種の演奏会に出演し、弟子をとり、楽譜を出版するなどして生計をたててゆくという、近代的な音楽家の生活を実践したのである。また1782年8月には、マンハイム時代に恋愛関係にあった歌手アロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと、父の反対を押し切って結婚している。しかもこの時期には、彼の創作を代表する数々の傑作が生み出されている。オペラの分野では『後宮からの逃走』(1782)、『フィガロの結婚』(1786)、『ドン・ジョバンニ』(1787)、『コシ・ファン・トゥッテ』(1790)、『魔笛』(1791)、『ティトゥス帝の慈悲』(1791)などの、今日世界中のオペラ劇場の演目として定着している諸作品が書かれ、交響曲の分野でも「第35番」以後のもっともポピュラーな6曲、弦楽四重奏曲では「ハイドン・セット」とよばれる6曲(1782~1785)を含む、いずれも質の高い10曲が書かれた。また教会音楽家としての職務からも解放されたので、いずれも未完に終わったミサ曲ハ短調とレクイエム、そして数少ない小規模な宗教音楽を除けば、この種の音楽は書かれなかった。それとは対照的に、この時代の彼の生活をよく示しているのが、17曲に及ぶピアノ協奏曲である。これらは、自ら主催する自作自演の演奏会が自活のための重要な手段であったことを物語っている。とくに1785年の「第20番」以後の7曲は、この分野における歴史上最初の頂点を形成している。またザルツブルクの音楽生活と関係の深かったディベルティメント、セレナーデ、カッサシオンといったジャンルは減り、かわってメヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスといった、実際に踊られるためのおびただしい舞曲が書かれた。ウィーンの音楽要求にこうした形でこたえることは、定収のない作曲家としてはやむをえないことであった。ウィーン時代のその他の際だった事件としては、当時流行していた秘密結社フリーメーソンへの加入(1784)があげられる。これは彼の創作や思想に少なからぬ影響をもったし、実際にこの団体のために音楽をいくつも書いている。
1780年代の前半から中盤にかけて、ウィーンでの新しい生活も順調に運び、父との再会のため約4か月ザルツブルクに旅行した以外にはウィーンを離れなかったが、1787年から、3度にわたるプラハ旅行、ベルリンおよびフランクフルト訪問といった短期間の出稼ぎ旅行が目だっている。これは、ウィーンでの活動に陰りがみえ始めたことを反映していると思われる。このころから借金申込みの手紙も多くなり、経済的に逼迫(ひっぱく)していったことがうかがわれるが、記録に残されている彼の収入は驚くほど多く、今日も借財の理由は明らかになっていない。そして1791年の秋から健康がしだいに衰え、11月20日病床に伏し、12月5日、息を引き取った。葬儀は翌日、シュテファン大聖堂内部の十字架小聖堂で行われたが、最後まで遺体に付き添った者がいなかったため、共同墓地に埋葬され、遺骸(いがい)は行方不明となった。現在、聖マルクス墓地にある墓には遺骨は埋められておらず、ウィーン中央墓地にもベートーベンと並んで記念碑が立てられている。
[大崎滋生]
ケッヘル番号
モーツァルトの残した作品は声楽、器楽にわたりきわめて多く、これをケッヘル番号(KとかK・Vと略記)でよぶことが一般化している。これは1862年にオーストリアの植物学者・音楽研究家のケッヘルが作成した『モーツァルト作品目録』に端を発している。作曲年代順に通し番号をつけたこのカタログは、その後何度もの改訂を受け、曲によっては二重番号が付されて煩雑なものになっているが、研究の進展により、今日なお再度の改訂が必要である。
[大崎滋生]
『アインシュタイン著、浅井真男訳『モーツァルト――その人間と作品』(1961・白水社)』▽『属啓成著『モーツァルト Ⅰ生涯篇、Ⅱ声楽編、Ⅲ器楽編』(1975~1976・音楽之友社)』▽『海老沢敏、E・スミス編『モーツァルト大全集』10巻・別巻1(1976~1979・中央公論社)』▽『海老沢敏・高橋英郎訳『モーツァルト書簡全集』全6巻(1976~2001・白水社)』▽『W・ヒルデスハイマー著、渡辺健訳『モーツァルト』(1979・白水社)』▽『P・ネットゥル著、海老沢敏・栗原雪代訳『モーツァルト叢書17 モーツァルトとフリーメイスン結社』(1981・音楽之友社)』▽『海老沢敏著『モーツァルトの生涯』(1984・白水社)』▽『E・J・デント著、石井宏・春日透道訳『モーツァルトのオペラ』(1985・草思社)』▽『海老沢敏著『モーツァルト』改訂版(1986・音楽之友社)』▽『井上和雄著『モーツァルト心の軌跡――弦楽四重奏が語るその生涯』(1987・音楽之友社)』▽『海老沢敏他著『モーツァルト全集』15巻・別巻1(1991~1993・小学館)』▽『海老沢敏著『モーツァルトを聴く』(岩波新書)』▽『田辺秀樹著『モーツァルト』(新潮文庫)』▽『柴田治三郎編訳『モーツァルトの手紙』(岩波文庫)』