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天明の飢饉 てんめいのききん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

天明の飢饉
てんめいのききん

天明2(1782)年から同 7年にかけての全国的飢饉享保の飢饉天保の飢饉と合わせて江戸時代の三大飢饉と称されている。同 2年は天候不順で凶作,翌同 3年は春から冷雨が続き,さらに洪水,浅間山の大噴火(→天明浅間山噴火)のため大凶作となった。同 4~6年も不作で慢性的な大飢饉となり,各地で餓死,行き倒れ,病死が続出,なかでも関東,奥羽地方は草根牛馬はもちろん犬猫,あるいは人肉すら食うという惨状を呈した。このため逃亡,騒動,一揆諸所に頻発,老中田沼意次失脚の一因となるとともに,東北諸藩の藩政改革推進の契機となった。

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デジタル大辞泉の解説

てんめい‐の‐ききん【天明の飢饉】

天明2~7年(1782~87)にかけての奥羽・関東地方を中心とした大飢饉。冷害浅間山の噴火などで大凶作となり、疫病の流行もあって、餓死者・病死者は全国で90万人を超えた。各地で一揆打ち壊しが発生した。

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百科事典マイペディアの解説

天明の飢饉【てんめいのききん】

1782年(天明2年)から1787年に至る全国的大飢饉。1782年の六分作,1783年の関東地方水害,浅間山噴火,気候不順などによる凶作,1786年の水害などの災害で慢性的飢饉が続いた。
→関連項目寛政改革鎌原村享保の飢饉七分積金徳川家治松平定信

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世界大百科事典 第2版の解説

てんめいのききん【天明の飢饉】

江戸時代の代表的な飢饉の一つ。1783年(天明3)の大凶作によって翌年にかけ深刻な飢饉となり,また86年の凶作でその翌年も飢饉となった。この期間は一般に冷害型の気候,海流異変が続き,とくに関東,東北に著しい被害を与えた。83年は夏でも綿入れを着用するほどの寒冷な北東風(やませ)により稲は実らず,4分作以下で山間部などでは収穫皆無となった所も少なくなかった。このため米価は騰貴し,また自領の防衛のために行われる津留政策によって食糧の欠乏する地帯の飢饉は倍加され,雑穀はもとより海草,草木の芽や雑草,松の甘皮など,食糧になりうるものはすべて取り尽くされたという。

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大辞林 第三版の解説

てんめいのききん【天明の飢饉】

1782年(天明2)から87年にかけての大飢饉。特に83年の浅間山の大噴火の影響が大きく、東北地方の被害が甚大であった。各地で一揆・打ちこわしが続発し、老中田沼意次の失脚を早めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

天明の飢饉
てんめいのききん

享保(きょうほう)の飢饉、天保(てんぽう)の飢饉と並ぶ江戸時代三大飢饉の一つ。天明年間(1781~89)には連年にわたって飢饉が発生し、とくに1783年(天明3)と86年は惨状が甚だしかった。西日本とくに九州は82年に飢饉にみまわれたが、西日本の場合、天明年間の前半には収束した。飢饉はむしろ東日本、とくに東北地方太平洋側(陸奥(むつ)国)、北関東一帯で猛威を振るった。津軽(つがる)地方では早くも安永(あんえい)年間(1772~81)末期に凶作の兆しがあったが、八戸(はちのへ)地方では83年夏に「やませ」が吹いて冷害となり、稲が立ち枯れ、東北飢饉の前触れとなった。そこへ同年7月の上州浅間山の大噴火が重なり、噴火による降灰の被害は関東・信州一円に及び、その被害の甚だしかった北関東(上野(こうずけ)、下野(しもつけ))、信濃(しなの)では、凶作から飢饉となった。
 かくて陸奥では「神武(じんむ)以来の大凶作」といわれた卯歳(うどし)(1783)の飢饉となった。これは、霖雨(りんう)、低温、霜害、冷害などの自然的悪条件だけでなく、過酷な封建的搾取や分裂割拠の支配体制による津留(つどめ)・穀留(こくどめ)政策の犠牲という政治的・社会的原因が、飢饉の惨状を極度に悪化させた。このために津軽藩では1783年9月~84年6月にかけて、領内人口のうち8万1100人余の飢餓(きが)・病気(むくみなど)による死亡、八戸藩では6万5000人のうち餓病死者3万人余と記録されており、また陸奥辺境部各地では人肉相食(あいは)む凄惨(せいさん)な話が伝えられている。[山田忠雄]

気象

1782年(天明2)から87年まで気象異変が続き飢饉となった。83年夏の浅間山の噴火が原因とされているが、すでに82年から異常が現れているところから、噴火の影響があるとすれば、83年の浅間山噴火以前の、たとえば1779年(安永8)以来の桜島の大噴火などが関与しているものと思われる。83年は世界的にみても著しい異常低温の夏であったが、欧州の場合は、浅間山の噴火よりは地元に近いアイスランドにおける噴火がより大きく影響していた。[根本順吉]

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世界大百科事典内の天明の飢饉の言及

【寛政改革】より

…農村では農業人口が減少し,耕地の荒廃が進み,重い年貢や小作料の収奪に苦しむ農民たちによる百姓一揆が激化した。1783‐86年に続発した天災,飢饉(天明の飢饉)は,農村の荒廃にいっそうの拍車をかけ,都市に流入する離村農民が顕著にみられた。農村は領主財政の基盤であったため,年貢収入の激減により幕府財政は極度に窮迫した。…

【七分積金】より

…この改革実施の直接的契機としては,1787年5月に江戸町方全域に発生した激しい打毀(うちこわし)があげられる。これは天明の飢饉による窮乏化の中での都市下層民衆による一種の米一揆であるが,江戸全域に及んで幕府に大きな衝撃を与えた。そして,都市下層民衆を各地域ごとで本来統轄すべき町共同体や地主層の動揺を防ぎ,併せて,それまで不在であった江戸惣町ぐるみの下層民対策を一挙に確立する必要性を幕閣に認識させた。…

【出稼ぎ】より

…1777年(安永6)には,出稼ぎ農民の所持する田畑が荒廃するのは不埒(ふらち)であるから,村方ではあらかじめ村高と人数を調べ,出稼ぎしても村にさしさわりのない範囲を確かめたうえで出稼ぎを許可し,万一限度をこえて出稼ぎしたため田畑が荒廃したら,本人はもちろん村役人も罰する,と触れている。さらに88年(天明8)には,天明の飢饉によって荒廃の著しい陸奥,常陸,下野の3国から江戸へ出稼ぎするときは,とくに願い出て代官・領主の添状(そえじよう)を得て,これを江戸の人宿(ひとやど)へ提出し,そこからさらに町奉行所へ差し出すようにせよと,厳しい規制を施した。また江戸居住の長期出稼人には旧里帰農令を出し,農具代を貸与して帰村・帰農を奨励している。…

【天保の飢饉】より

…33年には奥州は3分作以下収穫皆無の所もあり,東海道は7分作といわれ,関東,東北が主であったが,36‐37年には北陸,九州,四国を除く全国的規模のものとなった。ほぼ50年前の天明の飢饉と同様に餓死,疫病死,流亡などの惨状を呈したが,やや異なるのは天明の飢饉が比較的短期間に集中して死者や被害を出しているのに対し,長期間にわたり慢性的な状況を呈したことである。この原因には救荒対策の一定の進展がある。…

※「天明の飢饉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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