江戸時代の代表的な飢饉の一つ。1783年(天明3)の大凶作によって翌年にかけ深刻な飢饉となり,また86年の凶作でその翌年も飢饉となった。この期間は一般に冷害型の気候,海流異変が続き,とくに関東,東北に著しい被害を与えた。83年は夏でも綿入れを着用するほどの寒冷な北東風(やませ)により稲は実らず,4分作以下で山間部などでは収穫皆無となった所も少なくなかった。このため米価は騰貴し,また自領の防衛のために行われる津留政策によって食糧の欠乏する地帯の飢饉は倍加され,雑穀はもとより海草,草木の芽や雑草,松の甘皮など,食糧になりうるものはすべて取り尽くされたという。さらにこの年7月の浅間山大噴火で降灰が周辺農村を埋め,広範囲の地域に被害をもたらした。全体的な統計はないが,東北地方では3分の1に及ぶ人口減をみた所も少なくない。これは餓死だけでなく,流浪逃亡や極度の粗食と衛生環境の低下による疫病流行のための多数の病死者を含んでいる。この時期には商品生産の発展によって農民間の貧富の分化が激しく,貧農,質地小作人,借屋,奉公人,日雇稼ぎの者が町在にあらわれはじめ,食糧を買い求める者もあって,この階層がもっとも厳しい被害を被っている。領主や富裕民によって行われた救小屋の施粥・施米に窮民が殺到した。作物や食糧の盗難,放火はもちろん,食人の記録も残されているほどで,入札によって犯人を摘発したり,民間に犯人の殺害をふくむ制裁を認めた領主も少なくなく,悲劇を多発させた。
飢饉を激しくした一因は領主の政策にもある。とくに三都商人から借財していたため年貢米をはじめ備荒の貯米分までが江戸,大坂に回送され,幕府が米価低落を防止するために空米や過米切手の禁止等の手段をとったことも,大名の現米輸送に拍車をかけた。幕府領も大名領もこの時期に江戸・大坂廻米,商品流通統制,専売制を強化していることが注目される。したがって農民一揆や打毀も,飢饉とあいまって未曾有の増加をみせた。農村部でも安米の払出しや廻米中止の一揆,穀商に対する打毀が発生した。次の87年の飢饉に際し打毀が江戸,大坂をはじめ全国主要都市に集中的に発生したのは,このような動向に対し農村対策が優先された結果と考えられる。寛政改革は天明の飢饉対策を基調とした。幕府は流亡農民の旧里帰農奨励(人返し),社倉・義倉制による貯穀,江戸の七分金積立て(七分積金)等のほか,大名にも囲籾(囲米)を義務づけた。江戸の町会所や御用達商人を登用して囲米を行い,米価調節にも利用したのは,備荒とともに都市窮民の打毀に備えた対策でもあった。藩でも同様に救荒対策と農村再興の諸政策がとられているが,それは領内商人や豪農の資力にたよるところが大きく,彼らの特権拡大に利した。民衆側では畑作経営の多角化や稲の品種改良等の技術が重視され,救荒書,飢饉記録が本格的に作られ伝承されていく契機となった。
執筆者:難波 信雄
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享保(きょうほう)の飢饉、天保(てんぽう)の飢饉と並ぶ江戸時代三大飢饉の一つ。天明年間(1781~89)には連年にわたって飢饉が発生し、とくに1783年(天明3)と86年は惨状が甚だしかった。西日本とくに九州は82年に飢饉にみまわれたが、西日本の場合、天明年間の前半には収束した。飢饉はむしろ東日本、とくに東北地方太平洋側(陸奥(むつ)国)、北関東一帯で猛威を振るった。津軽(つがる)地方では早くも安永(あんえい)年間(1772~81)末期に凶作の兆しがあったが、八戸(はちのへ)地方では83年夏に「やませ」が吹いて冷害となり、稲が立ち枯れ、東北飢饉の前触れとなった。そこへ同年7月の上州浅間山の大噴火が重なり、噴火による降灰の被害は関東・信州一円に及び、その被害の甚だしかった北関東(上野(こうずけ)、下野(しもつけ))、信濃(しなの)では、凶作から飢饉となった。
かくて陸奥では「神武(じんむ)以来の大凶作」といわれた卯歳(うどし)(1783)の飢饉となった。これは、霖雨(りんう)、低温、霜害、冷害などの自然的悪条件だけでなく、過酷な封建的搾取や分裂割拠の支配体制による津留(つどめ)・穀留(こくどめ)政策の犠牲という政治的・社会的原因が、飢饉の惨状を極度に悪化させた。このために津軽藩では1783年9月~84年6月にかけて、領内人口のうち8万1100人余の飢餓(きが)・病気(むくみなど)による死亡、八戸藩では6万5000人のうち餓病死者3万人余と記録されており、また陸奥辺境部各地では人肉相食(あいは)む凄惨(せいさん)な話が伝えられている。
[山田忠雄]
1782年(天明2)から87年まで気象異変が続き飢饉となった。83年夏の浅間山の噴火が原因とされているが、すでに82年から異常が現れているところから、噴火の影響があるとすれば、83年の浅間山噴火以前の、たとえば1779年(安永8)以来の桜島の大噴火などが関与しているものと思われる。83年は世界的にみても著しい異常低温の夏であったが、欧州の場合は、浅間山の噴火よりは地元に近いアイスランドにおける噴火がより大きく影響していた。
[根本順吉]
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天明年間(1781~89)に連続して発生した大飢饉。天候不順・浅間山噴火・洪水などが原因で,奥州を中心に被害は全国に及んだ。とくに1782~83年の奥羽地方の被害は甚だしく,草根木皮や牛馬・犬猫の肉,はては人肉まで食べる惨状で,餓死者は弘前藩で8万人(13万または20万人とも),盛岡藩で4万人とも伝えられる。幕府や諸藩は施米(せまい)や御救小屋の設立,米の買占め禁止などの方策を講じたが,効果は不十分に終わった。また米価が急騰し,一揆や打ちこわしが都市を中心に各地でおこり,老中田沼意次(おきつぐ)の失脚を早めた。
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…農村では農業人口が減少し,耕地の荒廃が進み,重い年貢や小作料の収奪に苦しむ農民たちによる百姓一揆が激化した。1783‐86年に続発した天災,飢饉(天明の飢饉)は,農村の荒廃にいっそうの拍車をかけ,都市に流入する離村農民が顕著にみられた。農村は領主財政の基盤であったため,年貢収入の激減により幕府財政は極度に窮迫した。…
…この改革実施の直接的契機としては,1787年5月に江戸町方全域に発生した激しい打毀(うちこわし)があげられる。これは天明の飢饉による窮乏化の中での都市下層民衆による一種の米一揆であるが,江戸全域に及んで幕府に大きな衝撃を与えた。そして,都市下層民衆を各地域ごとで本来統轄すべき町共同体や地主層の動揺を防ぎ,併せて,それまで不在であった江戸惣町ぐるみの下層民対策を一挙に確立する必要性を幕閣に認識させた。…
…1777年(安永6)には,出稼ぎ農民の所持する田畑が荒廃するのは不埒(ふらち)であるから,村方ではあらかじめ村高と人数を調べ,出稼ぎしても村にさしさわりのない範囲を確かめたうえで出稼ぎを許可し,万一限度をこえて出稼ぎしたため田畑が荒廃したら,本人はもちろん村役人も罰する,と触れている。さらに88年(天明8)には,天明の飢饉によって荒廃の著しい陸奥,常陸,下野の3国から江戸へ出稼ぎするときは,とくに願い出て代官・領主の添状(そえじよう)を得て,これを江戸の人宿(ひとやど)へ提出し,そこからさらに町奉行所へ差し出すようにせよと,厳しい規制を施した。また江戸居住の長期出稼人には旧里帰農令を出し,農具代を貸与して帰村・帰農を奨励している。…
…33年には奥州は3分作以下収穫皆無の所もあり,東海道は7分作といわれ,関東,東北が主であったが,36‐37年には北陸,九州,四国を除く全国的規模のものとなった。ほぼ50年前の天明の飢饉と同様に餓死,疫病死,流亡などの惨状を呈したが,やや異なるのは天明の飢饉が比較的短期間に集中して死者や被害を出しているのに対し,長期間にわたり慢性的な状況を呈したことである。この原因には救荒対策の一定の進展がある。…
※「天明の飢饉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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