現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県域にあった旧国名。「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新の国郡制により
和銅元年(七〇八)の現状を示す陸奥国戸籍(正倉院文書)によれば、大宝二年(七〇二)に戸籍が作られたこと、「郡上里」と称する里があったことが判明する。和銅五年九月に出羽国が建置され、同年一〇月には陸奥国のうち
陸奥国はもと道奥国と書き、「みちのおくのくに」とよばれた。「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に、「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新のすぐ後には道奥国が成立したとみられる。道奥とは
創立期の陸奥国の範囲は明らかでないが、従来の地方豪族が中央の支配下に入って国造となり、国郡制をとるようになると、従来の国造の支配した領域が郡に編成されることが多いので、当地方の国造をみれば範囲の推測の手掛りとなる。「国造本紀」に道奥菊多・道口岐閇・阿尺・思・伊久・染羽・浮田・信夫・白河・石背・石城の一一国造がみえ、伊久・思以外は現在の茨城県・福島県内である。伊久は
仙台市の名取川左岸の
陸奥国はもと道奥国と書き、「みちのおくのくに」と読まれたが、その確実な文献上の初見は「日本書紀」斉明天皇五年三月是月条の「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」という記事である。このうち後半の郡領(郡の長官と次官)や主政(郡の三等官)という表現は、明らかに後の大宝令の知識によって修飾されたものであるから、史料としての信憑性に問題が残るが、斉明天皇の時代にすでに東のフロンティアに位する国として道奥国、北のフロンティアに位する国として越国が存在していたことまでを疑う理由はない。とすれば道奥国が初めて設置されたのは他の諸国と同様、大化改新後あまり時を経ない時期であったとみるべきであろう。この道奥国という命名は、他の諸国の国名とは多少異なった命名法で、東海・東山二道の奥という意味で名付けられたものと思われる。二道の最末端に位置する国、すなわち東限(地理的には北限)の国という意味である。道奥国はその北限が本州最北端の津軽海峡に到達するまで前進していく可能性を秘めた国として、設置されたわけである。ということは南の方の常陸国や下野国との国境は確定できるが、北方の
道奥国は天武天皇五年以前の某時点で「陸奥国」と表記法が変わり、のち変わることはなかった。ただしその読み方は八―九世紀を通じて正式には「みちのおくのくに」(「和名抄」には「三知乃於久」)であったらしいが、これと並んでその約称たる「みちのくのくに」(「万葉集」に「美知能久」「美知乃久」などの用例)も行われた。そしてさらに九世紀末までに「みちのくに」(古今集、伊勢物語)、やや遅れて「むつのくに」(「柿本集」にみえるものが最古か)という読み方が成立した。最後の二つは九世紀の宮廷における漢詩文の盛行に伴って、陸奥国を唐風に「陸州」と表記したことに由来するらしい。すなわち陸州をそのまま和訓で読めば「みちのくに」となり、一方、「
近世までの陸奥国は現在の岩手県および青森・宮城・福島三県と秋田県の
「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新後あまり時を経ない時期に道奥国(みちのおくのくに)が成立したと考えられる。陸奥国はもと道奥国と記し、東山道の奥の意と思われる。東山道が国家支配の及んだ地域であるのに対し、その領域外の地域の呼称で、支配が及んだのちもその名が使用されたとみられる。同書天武天皇五年(六七六)正月二五日条に「凡そ国司を任けむことは、畿内及び陸奥・長門国を除きて、以外は皆大山位より以下の人を任けよ」とあり、この頃までに「陸奥国」と表記を改めたものと思われる。しかし「和名抄」による読み方は「みちのおく(三知乃於久)のくに」で、「万葉集」においては「美知乃久」「美知能久」などの「みちのくのくに」の呼称が用いられている。九世紀頃には陸奥国を唐風に「陸州」と表記し、「みちのくに」と読んだようであるが、「陸」の借字「六」を用いて「六州」とも表記したため、「むつのくに」の読み方が生じたと考えられる。「みちのく」の呼称は、旧出羽国を含む東北地方全体の汎称として、現在も使用されている。
創立期の陸奥国の範囲は明らかではない。従来地方豪族が中央政権の支配下に入って国造となり、国造の支配した領域が郡に編成されることが多いとされる。「国造本紀」にみえる陸奥国一一国造のうち伊久が
「日本書紀」景行天皇二七年二月一二日条によると、東国の視察を終えた武内宿禰は「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。奥州。現在の福島県,宮城県,岩手県,青森県の全域と秋田県の一部。
東山道に属する大国(《延喜式》)。《延喜式》の規定では35郡を管し,国府は多賀城(現,宮城県多賀城市)にあった。その設置は他の諸国と同様,大化改新(645)後あまり時を経ない時期と思われるが,当時は〈道奥国(みちのおくのくに)〉と記し,読まれた。この〈道奥国〉という命名は他の諸国の国名とは趣を異にし,東海・東山2道の奥すなわち最末端に位置する国という意味である。したがって,その北限が本州最北端の津軽海峡沿岸に到達するまで前進してゆく可能性を秘めた国として命名されたわけである。言い換えれば,南接する常陸国や下野国との国境は確定できるが,北方の蝦夷(えみし)(蝦夷(えぞ))の国と相対する側の国境はつねに不確定であって,その領域はしだいに拡大されてゆく可能性を初めからもっていたことになる。この〈道奥国〉は676年(天武5)以前の某時点で〈陸奥国〉と表記法が変わり,その後変わることなく現在に至っているが,読み方の方には若干の変化を生じた。8,9世紀を通じて正式の呼称〈みちのおくのくに〉とならんで,その約称〈みちのくのくに〉も行われたが,9世紀における漢詩文の盛行に伴って中国風に〈陸州(ろくしゆう)〉と表記し,さらに〈六州〉とも表記した。前者から〈みちのくに〉,後者から〈むつのくに〉の読み方が発生したと推定されている。
創置当初の道奥国はおそらく現在の福島県の全域と宮城県の南部を併せたものであったと推定されるが,その後山形県の内陸部や宮城県中部へと領域を広げ,712年(和銅5)出羽国設置に当たって山形県内陸部の最上郡,置賜(おいたむ)郡を同国に割き,718年(養老2)には福島県の全域と宮城県の亘理(わたり)地方とが分かれて石城(いわき),石背(いわせ)の2国が立てられた(2~3年後に再び陸奥国管内に復帰)。当時おそらく宮城県の北部までを領域としたらしい。平安時代前期には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)や文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)などの征討によって,およそ岩手県中部までがその領域に入った。その後,平安時代後期に平泉を根拠地とする奥州藤原氏の約1世紀にわたる支配の間に,その領域は青森県の一部にも及んだと察せられる。
古代の陸奥国は蝦夷と境を接する辺要の国として,例えば陸奥鎮守府が設置され,また各地に柵(き)が営まれたこと,国司の在任期間が他の諸国の通例と比較して長かったことなど,行政上においても特殊性を有していた。《延喜式》にみえる調庸その他の貢納品目は少なく,産業構造は単純であったと思われるが,その中にあって砂金と馬は例外的に著名な産出品であった。
執筆者:虎尾 俊哉
陸奥国の中世は,12世紀における奥州藤原氏4代(清衡,基衡,秀衡,泰衡)の奥羽両国支配にはじまる。藤原氏が先行する安倍氏,清原氏から受けついだものは,陸奥国では奥六郡(おくろくぐん)(胆沢(いさわ),江刺,和賀,稗貫(ひえぬき),斯波,岩手)の支配権だった。藤原氏はそこを根拠として,その支配を奥六郡以南の地域にのばし,ついに陸奥一国を支配下におさめた。そのさいよりどころとなったのは,藤原氏が4代にわたって世襲していた陸奥・出羽押領使(おうりようし)の地位であり,摂関家領荘園や神祇官領諸社の管領権であった。陸奥の産金,馬の交易,さらには北海方面との交易によって得た財力も無視できない。藤原氏はそれをもとにして,平泉に黄金の文化を築いた(平泉文化)。藤原氏の陸奥国支配の中で,はじめてこの国の南部と北部は一体化し,北辺の津軽までが陸奥国,ひいては日本国の範囲とされるにいたった。また中世の陸奥国は,現在知られているところでは,ほぼ44の郡と17の保(ほ),それに21の荘から成っているが,その基本部分もこの時代にでき上がったものである。《和名抄》の郷や,郡を分割した条,院などの単位がみられない点が,この国の特徴である。荘園は摂関家領と皇室領が多く,保は国衙(こくが)(多賀城)と平泉の周辺に多い。
1189年(文治5)の奥州征伐によって,奥州藤原氏を攻め滅ぼした源頼朝は,戦後この国に2人のいわゆる奥州総奉行(おうしゆうそうぶぎよう)をおいた。その1人は,合戦の直後に平泉におかれた葛西清重で,彼は陸奥国の御家人統率と,平泉郡内検非違所(けびいしよ)すなわち検断(警察)のことを命ぜられた。もう一人は,翌年の平泉残党の蜂起,大河兼任(かねとう)の乱の後で,国衙の多賀城におかれた伊沢(留守)家景である。彼は陸奥国留守職(るすしき)といわれ,在庁官人を統率して,民庶の訴えを聞き,国務にたずさわるものとされた。この国には守護はおかれなかった。この奥州総奉行については,(1)それを乱後の一時的なもので,その後廃止ないし有名無実化して,その権限は郡地頭に継承される,とみる説,(2)留守職の設置によって,葛西の権限はそこに整理,吸収されたとみる説,(3)両者ともその後長く存続したとみる説,の3説がある。また(3)の場合の両者の権限区分については,(a)葛西は守護,留守は国地頭に相当するという説と,(b)葛西は藤原氏の権限を継承したもので,留守職設置とともに平泉関係のことに権限の限定が行われる,という説がある。幕府設置の職としては,このほかに北辺の津軽に蝦夷管領(えぞかんれい)というものがあった。津軽から北海道に居住する蝦夷(えぞ)(アイヌか)を統轄・支配するもので,津軽に多くの所領をもつ北条氏がその地位にあったが,現地にいる代官は被官の安藤氏(安東氏)であった。
しかし鎌倉時代の陸奥国の支配機構の根幹は,郡,荘,保を単位に任命された郡地頭である。年貢収納,検断,裁判,寺社造営などに及ぶその権限と収益は,他の荘郷地頭にくらべてたいへん大きい。そのほとんどは有力な関東御家人であったが,鎌倉末には北条氏に集中している。北条氏所領の多い点もこの国の特徴である。なお中世の陸奥国の産物としては,金と馬が有名だが,鎌倉時代のこの国の基本的な年貢は奥布(おくふ)といわれる麻布である。これらの産物の生み出す財貨のほとんどは,この時代には鎌倉に運ばれていたといってよい。
14世紀に入って,建武政府が国司制度を復活したことはよく知られているが,陸奥国には北畠顕家が国守として義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)を奉じて下向した。その国府の組織は特別に大きく,8人の評定衆,3番からなる引付衆,政所(まんどころ),侍所(さむらいどころ),評定奉行,寺社奉行,安堵奉行を置くという,鎌倉幕府の機構を小さくしたようなものであった。奥州小幕府(陸奥将軍府)といわれるこの政治構想のねらいは,鎌倉を根拠とする旧勢力に対抗し,その力を削減することにあったといわれる。当時陸奥国は日本の半国といわれ,その政治的存在意義が大きく評価されていた。ついで南北朝内乱に入ると,室町幕府は足利氏の一門を奥州管領として派遣し,陸奥国の武士を統率しようとする。そのはじめは1337年(延元2・建武4)2月の石塔義房(いしどうよしふさ)であり,それ以前は関東執事の斯波家長(しばいえなが)が,鎌倉にいてこの国の軍政をつかさどっていた。ついで45年(興国6・貞和1)畠山国氏と吉良貞家が,幕府内の高師直派と足利直義(ただよし)派を代表する形で乗り込み,観応の擾乱(じようらん)にさいしては両者分かれて争うことになる。その後斯波家兼が管領となるが,これ以後吉良,畠山,石塔,斯波の諸氏が入り乱れて管領類似の行動をとり,だれが正員かはっきりしなくなる。そして92年(明徳3)の内乱終結とともに,陸奥国は鎌倉府の管轄とされ,奥州管領も廃止される。なお北畠顕家の陸奥国府も奥州管領も,ともに郡を単位とする検断奉行を創設しており,これはやがて守護ともいわれるようになる。中世の陸奥国においては,郡の政治機構上の意義が大きかったといえる。
15世紀の陸奥国の政治の中心勢力は,南北朝内乱の中でこの国に土着した国人の結集体たる国人一揆である。それは14世紀末にはみられるが,1404年(応永11)の福島県中通りの伊東一族を中心とした国人20名からなる仙道一揆(せんどういつき),10年の岩城,岩崎,楢葉,標葉(しめは),行方(なめかた)の海道5郡の国人10氏による五郡一揆などが代表的なものである。鎌倉公方足利満兼は1399年弟の満直(篠川御所(ささがわごしよ)),満貞(稲村御所)を陸奥に派遣するが,彼らはこうした国人一揆に支えられて,かろうじて南奥の一角に根拠をもつことができたにすぎない。鎌倉府滅亡の永享の乱(1438)にあたっては,稲村御所満貞は鎌倉に上って鎌倉公方足利持氏とともに自殺し,篠川御所満直は幕府と直結して,持氏にとってかわろうとする野心をみせるが,成功するはずもなく,1440年(永享12)の結城合戦の中で殺されてしまう。その後の陸奥国の政治的中心は,南北朝期の奥州管領斯波氏の後裔大崎氏である。大崎氏は当時奥州探題とよばれ,宮城県北部の大崎五郡を根拠に,軍事指揮,段銭(たんせん)徴収,官途推挙(かんどすいきよ)(推薦)などをよりどころとして,国人との間に弱いながらも一応の統属関係を保っており,この体制は15世紀末まではつづいていた。陸奥国の戦国争乱はこの体制の崩壊のあとにくる。
戦国時代の陸奥国は,数郡にわたる支配領域をもつ伊達,蘆名,葛西,大崎,南部らの大名と,その周縁部に位置する郡規模あるいはそれ以下の国人によって構成されており,国人層の帰趨をめぐって複雑な抗争がくりひろげられていた。南奥では,戦乱は伊達氏を中心に展開する。伊達氏は16世紀前半に尚宗(ひさむね)対稙宗(たねむね),稙宗対晴宗の当主父子の対立を軸とする深刻な内争を経験し(後者を天文の乱という),その中でみずからを戦国大名に鍛え上げていった。(1)財政基盤の確立を目ざす1535年(天文4)の棟役日記および38年の段銭古帳の作成,(2)36年の家法《塵芥集(じんかいしゆう)》の制定,(3)53年の家中に対する所領安堵状のいっせい給付(晴宗公采地下賜録)などが,その達成である。戦国後期の伊達氏は,この結果得られた強力な軍事力をもとに,北進する常陸の佐竹氏との間で,南奥の国人の帰属をめぐる争いを行い,89年(天正17)伊達政宗が会津の蘆名義広(佐竹義重次男)を攻め滅ぼしたところで,豊臣秀吉の小田原攻めを迎え,争乱は終結せしめられた。伊達勢力の北辺に位置する葛西,大崎両氏は葛西七郡,大崎五郡を領する大勢力であったが,最後まで家中の統制に苦しみ,最終的には伊達氏の従属下に入って,秀吉の奥羽仕置による取りつぶしのうき目にあう。
一方北奥では最後まで一族一揆的な状態がつづき,南部氏の場合も一戸(いちのへ)から九戸までの一族諸氏が割拠的に分立,連合していた。その中で大浦(津軽)為信が戦国末ぎりぎりのところで下剋上に成功,南部から独立して,90年秀吉から津軽一郡を安堵される。南部一族の中では三戸信直が南部七郡の大名に取り立てられた。91年の九戸政実の乱は,そのために独立性を奪われた南部一族による,信直とその背後にある統一政権に対する反乱であり,同時に陸奥国の戦国争乱の終幕を告げるものであった。
執筆者:大石 直正
陸奥国の近世は1590年の豊臣秀吉による奥羽仕置に始まる。秀吉は同年8月,小田原征伐後直ちに予告どおり奥羽仕置のため陸奥国会津黒川城(会津若松)に入った。仕置の中心は小田原出陣の奥羽諸大名に対する知行割(ちぎようわり)の実施と不参大名の領地没収にあった。翌年,秀吉の新政を不満とする葛西・大崎一揆および九戸政実の乱を鎮めた秀吉は,奥羽最大の大名伊達政宗の転封を行うなど再仕置を実施し,豊臣政権下の奥羽の支配体制が定まった。まず,このときに定まった大名配置をみると,最北の津軽郡は南部氏の支配から独立した津軽為信に与え,三戸の南部氏には糠部,鹿角,岩手,閉伊,志和,稗貫,和賀の7郡を与えた。出羽国米沢から陸奥国岩出山に移封となった伊達政宗には,胆沢,江刺,気仙,磐井,本吉,登米,牡鹿,桃生,栗原,玉造,加美,志田,遠田,黒川,宮城,名取,柴田,亘理,伊具,宇多の20郡を与えた。牛越の相馬義胤は宇多,行方,楢葉にわたる旧領がそのまま認められ,最南の岩城氏も岩城郡を認められた。白川,石川,岩瀬,安積,田村,安達,二本松,伊達,小手,刈田,信夫,猪苗代,南山,津川,伊南伊北(いないほう),稲川,河沼,門田(もんでん),大沼,山の諸郡は会津黒川城に封ぜられた蒲生氏郷の版図となった。多くの大名が本領安堵であった中で,伊達氏の転封,蒲生氏の奥羽の鎮としての会津入部が注目される。蒲生氏郷の死により,1598年(慶長3)会津に越後より上杉景勝が入封した。
さらに1600年関ヶ原の戦後の処分で上杉氏120万石が米沢30万石に減転封となり,会津に蒲生秀行が再入封した。伊達政宗は居城を岩出山より仙台に移し,恩賞として刈田郡が与えられ仙台藩陸奥領60万石が定まった。岩城氏は常陸の佐竹氏の減転封を機に改易となり,その跡に譜代大名鳥居忠政が入り,塙(はなわ)領は幕領となり,ついで棚倉には立花宗茂が入った。この戦後の大名配置で陸奥にはじめて譜代藩が設けられ以後南陸奥に相ついで中小諸藩の設置をみた。まず,再封蒲生氏の会津藩60万石は2代で加藤氏40万石に交替し,加藤氏も2代で保科(松平)氏23万石に替わり幕末に及んだ。この会津藩の変遷で削減された領地に白河藩(丹羽氏),三春藩(加藤氏),二本松藩(松下氏)が生まれ,南会津の南山地方は幕府領となり会津藩の領地となった。さらに加藤氏後の三春藩5万5000石には秋田氏,二本松藩10万石には丹羽氏が移り幕末に至った。1664年(寛文4)上杉氏の削封によって伊達・信夫両郡は幕府領となり,その後,同地方には福島藩,梁川(やながわ)藩,桑折(こおり)藩,下手渡(しもてど)藩,下村藩などの小藩に,桑折,川俣,梁川などの幕府領が加わり複雑な入組支配(いりくみしはい)の変遷が続いた。現福島県南部も同じ傾向で,鳥居氏が山形に移封となった後の磐城平藩には譜代大名内藤氏7万石が入り,以後井上氏,安藤氏と続き,泉藩2万石が1634年(寛永11)に,湯長谷(ゆながや)藩が70年にそれぞれ磐城平藩から分知した。棚倉藩は立花氏が筑後柳河に去った後,丹羽,内藤,太田,松平,小笠原など5万~6万石の大名の転入封が続き,塙領に加えて小名浜5万石弱が1746年(延享3)に幕府領となった。そのほか中通り地方には大久保藩,長沼藩,守山藩などのほか越後高田藩領8万石強の分領が置かれるなど複雑な藩領配置となっていた。
南陸奥のたび重なる幕藩領の変遷に対し,北・中陸奥の藩領の変化は少なかった。1664年,盛岡藩は八戸藩2万石を分与し8万石になった。1660年(万治3)仙台藩内に一関,岩沼それぞれ3万石の支藩が設けられ,一関藩は幕末まで続いた。このほか黒石藩1万石が1809年(文化6)に弘前藩より,七戸藩1万1000石が19年(文政2)に盛岡藩よりそれぞれ分知し独立している。また,1808年,盛岡藩は高直しで20万石となった。
陸奥諸藩の知行制はほとんど地方知行(じかたちぎよう)であった。知行侍は,給人(きゆうにん)あるいは地頭と呼ばれ,知行地農民は給人の直接的な支配下にあった。大藩の蒲生会津・仙台両藩には1万石以上の知行侍もみられ,戦国期以来の城館に居を構えるものもいた。しかし,藩のたび重なる検地による知行割政策によって給人の農民支配はしだいに形骸化し,寛永期(1624-44)ごろからおそくとも明暦期(1655-58)ごろに実施された陸奥諸藩の総検地によって,藩による農民の直接支配体制は確立した。この政策に抵抗した欠落(かけおち)・逃散(ちようさん)農民に還住令,人返し令を出した。1611-12年ころ仙台藩は,米沢藩および相馬藩とそれぞれ百姓・下人の人返しを協定し,1621年(元和7)には盛岡藩と協定を結んでいる。このように各藩が相互に人返しを行い,総検地を経て農民の土地緊縛がいっそう進み,貢租の村請(むらうけ)制が成立してくる。村は名子(なご)などの隷属農民を抱える親方百姓から構成され,村役人は肝煎(きもいり)(名主,庄屋にあたる),組頭の2役で百姓代を欠く藩が多かった。親方百姓は中期以降散田化した土地を集積し村方地主となり,手作経営のほか高利貸や移入商品を取り扱う在方商人を兼ね村の経済を支配していた。その中には,仙台藩の斎藤善右衛門家のように,藩に多額の献金を行いその代償に耕地や知行地を与えられ大地主となる者もいた。
都市は城下町中心で,弘前,盛岡,仙台,若松,磐城平,白河などが主で,仙台,盛岡のように近世初頭に新たに建設された都市の存在が注目される。他に比して侍町の占める割合が大きいが,城下商人は藩領内の商品流通を一手に握り,特権商人となって藩専売制に関与した。港町の青森,石巻は江戸廻米の積出港として近世初期に建設され,その後遠隔地商品流通の展開で発達した。多くが中世に系譜をもつ小城下町は小藩あるいは藩重臣の城下町として発達した。八戸,花巻,水沢,白石,中村,三春などがその例である。はじめ三斎市あるいは六斎市などの定期市だけが開かれていた村の中の町は,中期以降特産物流通などで在郷町あるいは小港町に発達し,現在の中小都市の母体となった。
産業は原材料供給の原始産業が主で,藩の専売制が特権商人の手で移出されることが多かった。弘前藩の材木,南部藩下北半島の材木は日本海海運で上方に送られ,三陸沿岸の俵物(たわらもの),干鰯(ほしか)などは東廻海運で江戸,上方方面に,盛岡藩の銅は幕府御用銅として野辺地湊から日本海を大坂に廻送された。また,同藩の鉄は宮古湊などから積み出され,南陸奥や江戸方面に売られた。仙台藩は初期から新田開発に力を入れ,産米を強制的な買米制を実施して集め,年間24万~25万石にのぼる江戸廻米を確保し有力な藩財源としていた。馬も陸奥国の特産で,とくに南部・仙台両藩では馬産を積極的に奨励し,公設馬市で良馬を買い上げ,幕府はじめ諸大名の御用馬として供給していた。南陸奥の信夫・伊達地方は,中期以降養蚕等の発達が著しく,幕末開港時には蚕種・生糸を外国にも輸出した。山間部の多い会津藩は初期から蠟の専売制を実施し幕末に至るまで藩の有力財源とした。
これら特産物の市場が上方あるいは江戸であったからこれを輸送する陸運,水運が発達した。陸奥の基幹道は奥州街道(仙台・松前道)である。宿駅は白河宿から三厩(みんまや)宿までの89次あるいは87次で増減があった。桑折宿で分岐する羽州街道をはじめ,佐渡路(会津街道),米沢街道,浜街道,石巻街道,秋田街道,八戸街道などの脇街道に分かれ,各地に通じていた。これら街道は参勤交代路であると同時に庶民の往還道として,また物資の輸送路,通信路であった。佐渡路は佐渡産金の江戸輸送路ともなり,福島,仙台に店をもつ飛脚仲間は上方下りの呉服など貴重で軽量な品物を運んだ。伊勢参詣の庶民や馬をひく博労衆は奥州街道を上ったが,中期ごろから奥州のみならず東日本各地から,仙台,松島,平泉あるいは出羽三山等を巡覧する参詣の旅が展開してくる。三山参詣路の一つである七ヶ宿通りの或る宿屋の年間休泊人数は2593人であったという。芭蕉の足跡をたずねる文人の奥州下りも数多く,仙台や松島は遊覧地としてにぎわった。
物資輸送は陸運より水運であった。岩木川は鰺ヶ沢より積み出す弘前藩の大坂廻米を運び,北上川は仙台藩のみならず盛岡,八戸,一関の諸米の江戸廻米,盛岡藩の材木,銅などの輸送路であった。阿武隈川は信達地方の幕府領,諸藩および仙台,米沢藩米を川下し,阿賀野川は会津藩が利用していた。いずれも藩米等の輸送のほか塩,古手,木綿などの商人荷物も輸送され,沿岸には河岸(かし)が発達し藩の米蔵のほか大きい河岸は町場になっていた。河川を利用して河口港に集積された物資は海上輸送された。弘前藩の鰺ヶ沢,青森,盛岡藩の野辺地の各湊からは日本海を上方と東廻りで江戸方面に積み出され,八戸,宮古,気仙沼,石巻,荒浜などの湊から東廻りで江戸に送られた。三陸沿岸の諸湊は海産物輸送でにぎわった。
中期以降,各藩で藩政改革が行われた。弘前藩の宝暦改革,白河藩の寛政改革などがよく知られるが,寛政改革は各藩でそれぞれの規模で行われた。窮乏した藩財政と荒廃した農村の立直しを眼目とし,緊縮財政,人口増加,殖産興業などの諸政策を実施した。しかし,生産力の低さ,商品経済の未熟さによっておのずから限界があり,結果としては中央の商業資本に依存する改革となり,根本的な改革とはならなかった。藩政動揺の背景に近世を通してたびたび襲った飢饉がある。宝暦,天明,天保期のそれは三大飢饉とよばれる。直接的には天候不順による冷害や洪水など災害を契機としておこったが,より根本的には陸奥の低生産力と幕藩体制の矛盾に起因した。東北地方の百姓一揆件数が他地方を凌駕し,そのなかでも盛岡藩領で最も多かった。この社会的特質に加え過重な年貢・諸役があったからである。初期の逃散・訴は,中期には会津南山御蔵入騒動や磐城平元文一揆のごとき大規模な村方騒動や大一揆となり,後期には南部藩の専売反対一揆(三閉伊一揆)のように農民の商品生産・流通の自由を求める反抗となり,幕末には激増しその性格も世直し一揆の様相をもった。
1868年(明治1)戊辰戦争に際し諸藩は奥羽越列藩同盟を結んだが,会津戦争に敗れた。新政府は同年12月領地没収などの処分を行うとともに,陸奥国を磐城(いわき)国(現,福島県東部と宮城県南部),岩代(いわしろ)国(現,福島県中・西部),陸前国(現,宮城県中・北部と岩手県南東部),陸中国(現,岩手県の大部分と秋田県北東部),陸奥国(現,岩手県北西部と青森県)の5国に分割した。
執筆者:渡辺 信夫
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旧国名。現在の福島、宮城、岩手、青森の各県と秋田県の一部にあたる。『日本書紀』斉明(さいめい)元年(655)条に「道奥」とみえ、東海・東山両道の奥という意味で「みちのおく」と読まれた。のちに読み方は「みちのくのくに」「みちのくに」などを経て、9世紀末ごろ「むつのくに」が成立した。天武(てんむ)5年(676)条にはすでに「陸奥」と表記され、畿内(きない)、長門(ながと)とともに高位者が国司として任命されたが、辺境防備のために重視されたものとみられる。712年(和銅5)出羽(でわ)国の設置に伴い最上(もがみ)、置賜(おきたみ)両郡を割き、また718年(養老2)石城(いわき)、石背(いわしろ)両国の設置により、現在の福島県と宮城県の一部にあたる地域を割いたが、数年足らずで陸奥国に復旧した。719年全国に設置された按察使(あぜち)では、陸奥按察使が置かれ、出羽国も所管し、他が廃止されたあとも、陸奥、出羽だけは残された。律令(りつりょう)制では、北辺に接する軍事的意味が重視されて、戸令の現住に従って本貫を定めるとか、軍防令の帳内(ちょうない)・資人(しじん)の任用を禁じた、いわば例外的規定の対象となった。『延喜式(えんぎしき)』では、東山道に属する大国で、白河(しらかわ)、菊多(きくた)、磐城(いわき)、標葉(しねは)、行方(なめかた)、宇多(うだ)、亘理(わたり)、伊具(いぐ)、刈田(かりた)、会津(あいづ)、耶麻(やま)、磐瀬(いわせ)、安積(あさか)、安達(あだち)、信夫(しのぶ)、柴田(しばた)、名取(なとり)、宮城(みやぎ)、黒川(くろかわ)、賀美(かみ)、色麻(しかま)、玉造(たまつくり)、栗原(くりはら)、新田(にゅうた)、長岡(ながおか)、遠田(とおた)、小田(おだ)、志太(しだ)、桃生(もものう)、牡鹿(おしか)、登米(とよね)、気仙(けせん)、磐井(いわい)、江刺(えさし)、胆沢(いさわ)の35郡を管轄し、国府は多賀城(たがじょう)、現在の宮城県多賀城市に置かれていた。『和名抄(わみょうしょう)』には、大沼郡が加わり、36郡を管したとみえる。
律令政府の蝦夷(えぞ)支配の前線基地となった陸奥では、反乱と鎮圧が繰り返され、797年(延暦16)の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)、811年(弘仁2)の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)をそれぞれ征夷(せいい)大将軍に任命して行った鎮圧が、胆沢(いさわ)城、志波(しわ)城を築くなど効果をあげ、支配も拡大した。しかし、律令国家の衰退とともに弛緩(しかん)し、平安時代中期以降、在地勢力を形成した安倍(あべ)・清原両氏らが支配の実権を握り、安倍氏が前九年の役で、また清原氏が後三年の役で滅亡すると、平泉(ひらいずみ)を根拠地とする藤原清衡(きよひら)の支配が確立し、その子基衡(もとひら)、孫秀衡(ひでひら)の3代にわたる奥州藤原氏の政治と独自な地方文化が展開した。1189年(文治5)全国に支配を拡大しつつあった源頼朝(よりとも)は、弟義経(よしつね)の追捕(ついぶ)を機会に、これをかくまった奥州藤原氏を征討し、奥州総奉行(そうぶぎょう)を置いた。このとき任ぜられた伊沢家景(いえかげ)は、陸奥国留守職(るすしき)とも称し、のち伊沢氏がこの職を世襲した。建武(けんむ)新政(1334)では、陸奥将軍府を設置し、北畠顕家(きたばたけあきいえ)が皇子義良(のりよし)親王(後村上(ごむらかみ)天皇)を奉じて赴任した。ついで室町幕府は奥州探題を設置、奥州管領(かんれい)として足利(あしかが)氏一門の石塔義房(いしどうよしふさ)を派遣し統治したが、のちに吉良(きら)、畠山、斯波(しば)の諸氏が加わり混乱、奥州管領も廃止され、陸奥国は鎌倉府の管轄となった。その後、大崎五郡を根拠とする大崎氏が支配権をもち、戦国時代に入ると、伊達(だて)、蘆名(あしな)、葛西(かさい)、大崎、南部の諸氏が割拠、抗争し、豊臣(とよとみ)秀吉の奥州仕置(しおき)では、津軽、南部、伊達、相馬(そうま)、岩城の諸氏がそれぞれ所領を封ぜられ、蒲生(がもう)氏が会津へ入部した。
江戸時代には、津軽郡の黒石藩・弘前(ひろさき)藩、岩手郡の盛岡藩、宮城郡の仙台藩、白河郡の白河藩、白川郡の棚倉(たなぐら)藩、磐城郡の磐城平(たいら)藩、会津郡の会津藩、信夫(しのぶ)郡の福島藩などが置かれ、産業と交通も飛躍的に発展した。幕末・維新期に、諸藩は、奥羽越(おううえつ)列藩同盟を結んで、明治新政府に抵抗したが、会津戦争に敗れ、崩壊した。新政府は、1868年(明治1)12月7日付けの太政官(だじょうかん)布告によって、陸奥国を磐城、岩代(いわしろ)、陸前、陸中、陸奥の5国に分割、分割後の陸奥国は現在の青森県と岩手県の一部にあたり、二戸(にのへ)、三戸、北、津軽の4郡からなり、1871年の廃藩置県を迎えた。
産業は、古来、砂金と馬が著名であり、近世には材木、俵物(たわらもの)、米、蚕種、生糸、鉄、銅などの産物が移出されることが多かった。
[菊池克美]
東山道の国。現在の福島・宮城・岩手・青森県と秋田県の一部。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では白河・磐瀬・会津・大沼・耶麻(やま)・安積(あさか)・安達・信夫(しのぶ)・菊多・磐城・標葉(しば)・行方(なめかた)・宇多(以上現,福島県),刈田(かった)・柴田・名取・伊具(いぐ)・亘理(わたり)・宮城・黒川・賀美・色麻(しかま)・玉造・志太・栗原・新田・長岡・小田・遠田・登米(とよめ)・牡鹿(おしか)・桃生(ものう)(以上現,宮城県),気仙(けせん)・磐井(いわい)・江刺(えさし)・胆沢(いさわ)(以上現,岩手県)の36郡からなる。8世紀初めに多賀城(たがじょう)(現,宮城県多賀城市)が造営され,ここに国府・鎮守府がおかれた。鎮守府はのち胆沢城(現,岩手県奥州市水沢区)に移転。国分寺・国分尼寺は宮城郡(現,宮城県仙台市)におかれた。一宮は塩竈(しおがま)神社(現,宮城県塩竈市)といわれる。「和名抄」所載田数は5万1440町余。「延喜式」では調庸は布・米など。古くは道奥(みちのおく)国といわれ,676年(天武5)に陸奥国とみえる。718年(養老2)に石城(いわき)国・石背(いわせ)国を分立したが,まもなく再併合した。律令政府は以後も蝦夷(えみし)征討と併行して多数の移民を導入し,国域を北へ拡大した。中世には現青森県域まで国域が広がり54郡といわれた。砂金・馬の産地として知られ,平安後期には奥州藤原氏が陸奥・出羽両国を支配した。鎌倉時代には鎌倉将軍家知行国となり,伊沢(留守)氏・葛西氏をおいて支配した。戦国期には伊達(だて)・蘆名(あしな)・南部氏らが栄えた。江戸時代には北に外様,南に譜代大名がおかれ,要所に幕領があった。1868年(明治元)磐城・岩代(いわしろ)・陸前・陸中・陸奥の5国に分割された。分割後の陸奥国は現在の青森県域にあたり,当初は津軽・北・三戸(さんのへ)の3郡が属した。1871年(明治4)7月の廃藩置県により弘前・黒石・斗南(となみ)・七戸・八戸・館の諸県が成立。同年9月5日,これらの諸県を弘前県に合併。同月18日には県庁を青森に移し,青森県と改称した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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