もと下道(しもつみち)真備。奈良時代の学者,政治家。備中国下道郡出身。父は右衛士少尉下道圀勝(くにかつ)。母は楊貴(八木)氏。圀勝の母の骨蔵器が岡山県矢掛町三成で発見されている。716年(霊亀2)22歳で唐への留学生となり翌年出発し,735年(天平7)に帰国。唐では儒学のほかに天文学や兵学,音楽も学んだことは,帰朝時に献上した《唐礼》130巻(経書),《大衍(えん)暦経》1巻,《大衍暦立成》12巻(以上天文暦書),測影鉄尺(日時計),銅律管,鉄如方響,写律管声12条(以上楽器),《楽書要録》10巻(音楽書),絃纏漆角弓,馬上飲水漆角弓,露面漆四節角弓各1張(いずれも騎馬民族の使う弭(ゆはず)が角製の弓),射甲箭20隻,平射箭10隻等によってわかる。また《東漢観記》も将来した(《日本国見在書目録》に記す)。帰朝後,大学助また737年中宮亮に任ぜられ,738年右衛士督を兼ねた。737年痘瘡が流行して多くの貴族が死に,生き残った貴族から橘諸兄が738年右大臣に任ぜられ,政権を握った。吉備真備と僧玄昉(げんぼう)(真備と同時に帰国)とは諸兄に重用された。これをねたんだ大宰少弐藤原広嗣は740年に真備と玄昉を除くのを名目として九州で反乱を起こしたが,まもなく鎮定された。真備は皇太子阿倍内親王(のち孝謙・称徳天皇)に東宮学士として《漢書》《礼記》を教授した。彼が後年称徳天皇時代に右大臣に任ぜられたのは,このときの信任によるといえよう。743年従四位下,春宮(とうぐう)大夫兼皇太子学士になり,746年姓吉備朝臣を賜り,747年右京大夫に転じ,749年従四位上に昇った。
孝謙天皇が即位すると,藤原仲麻呂が専権をふるい真備は不遇であった。淳仁天皇時代も同様である。すなわち750年(天平勝宝2)筑前守ついで肥前守に左遷され,14年間九州にいた。754年大宰少弐,759年(天平宝字3)同大弐に昇任し,この間751年遣唐副使として渡唐,また筑前怡土(いと)城を756年に築いた。763年儀鳳暦に替え,大衍暦が採用されたのは,彼の暦学が認められたものである。764年造東大寺長官に任ぜられ,70歳で帰京できた。同年9月恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こしたときには,その退路を遮断する方向へ派兵,押勝を斬りえたのは,彼の兵学の才を示す。その功で従三位勲二等を授けられ,中衛大将に任ぜられた。称徳天皇の重祚により,中納言,大納言をへて766年(天平神護2)右大臣に任ぜられた。地方豪族出身では破格の出世である。770年(宝亀1),称徳天皇没後,後継天皇候補に文室(ふんや)浄三を推して敗れ,辞職。775年10月2日,81歳で没。著書に《私教類聚(しきようるいじゆう)》《道璿和上纂(どうせんわじようさん)》《刪定(さくてい)律令》がある。
執筆者:横田 健一 《江談抄(ごうだんしよう)》や《吉備大臣入唐絵詞》などによると,真備は入唐のとき,諸道・諸芸に通じていたので,唐人は恥じてこれを殺そうとする。まず鬼のすむ楼に幽閉するが,鬼が唐土に没した阿倍仲麻呂の霊で真備は救われる。さらに《文選》,〈野馬台の詩〉の解読や囲碁の勝負などを課せられるが,鬼の援助で解決する。最後に食を断って殺そうとするが,真備は鬼に求めさせた双六(すごろく)の道具で日月を封じ,驚いた唐人は彼を釈放したという。《今昔物語集》は僧玄昉をとり殺した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術をもって鎮圧したとし,《簠簋(ほき)抄》は,陰陽書《簠簋内伝》を請来したのを真備とし,彼を日本の陰陽道の祖とする。中世の兵法書などは,張良が所持した《六韜・三略》の兵法を請来したのを真備とし,日本の兵法の祖とする。野馬台の詩は蜘蛛(くも)のひく糸によって解読したと伝えるが,中世の寺社などではこの野馬詩を重宝し,多くの写本が作られた。囲碁,《文選》,火鼠(かそ)の皮なども真備が日本に請来したとされる。
執筆者:山本 吉左右
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奈良時代の政治家、学者。「真吉備」とも書く。吉備の豪族下道朝臣(しもつみちのあそん)国勝の子。母は楊貴(やぎ)(八木)氏。716年(霊亀2)遣唐留学生となり、翌年入唐。経史、衆芸を学び、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)とともに唐で名声をあげた。735年(天平7)帰朝、唐礼130巻、暦書、音楽書、武器、楽器、測量具などを献じた。大学助を経て東宮学士に任ぜられ、阿倍皇太子(後の孝謙(こうけん)天皇)に『礼記(らいき)』『漢書(かんじょ)』などを講義した。大宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)は、真備と僧玄昉(げんぼう)が重用されるのをねたみ、740年2人を討つ名目で挙兵、乱を起こしたが敗死した。746年吉備朝臣の姓(かばね)を賜った。751年(天平勝宝3)遣唐副使となり翌年入唐、754年帰国。大宰大弐に任ぜられ、在任中に怡土城(いとじょう)を建設した。764年(天平宝字8)藤原仲麻呂の反乱鎮定に功をたてた。参議、中衛大将(ちゅうえのだいしょう)、中納言(ちゅうなごん)、大納言を歴任、766年(天平神護2)右大臣に昇った。称徳(しょうとく)天皇崩御後、皇嗣(こうし)冊立に自説がいれられず、光仁(こうにん)天皇の即位後致仕した。宝亀(ほうき)6年10月2日没。
[横田健一]
693/695~775.10.2
奈良時代の公卿・学者。父は下道朝臣圀勝(しもつみちのあそんくにかつ)。子に泉(いずみ)がいる。746年(天平18)吉備朝臣に改姓。717年(養老元)遣唐使とともに入唐し,734年(天平6)留学僧玄昉(げんぼう)らと帰国。翌年入京して「唐礼(とうらい)」「大衍暦(だいえんれき)」などの書籍やかずかずの宝器を将来し朝廷に献上,正六位下となる。玄昉の推挙によって右衛士督となるが,740年藤原広嗣(ひろつぐ)によって除かれそうになった(藤原広嗣の乱)。皇太子阿倍内親王(孝謙天皇)の春宮(とうぐう)大夫兼学士を勤めたが,孝謙即位後は一時筑前守に左遷された。751年(天平勝宝3)遣唐副使に任命され,帰国後大宰大弐(だいに)として怡土(いと)城を造るなど,緊張した東アジア情勢をふまえた防備充実に尽力した。恵美押勝(えみのおしかつ)の乱後,正二位右大臣。称徳天皇(孝謙重祚)没時には天武天皇の孫文室浄三(ふんやのきよみ)・大市(おおち)王の即位をはかるが失敗,致仕。逸話が多い。「吉備大臣入唐(にっとう)絵巻」(ボストン美術館蔵)が現存。
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…奈良時代に現福岡県糸島郡前原町の高祖山に築かれた山城。唐の安禄山の乱が伝えられ,新羅の征討が計画される緊迫した状況の中で756年(天平勝宝8)に兵法家としても知られる大宰大弐吉備真備(きびのまきび)を専当として起工された。763年(天平宝字7)にほぼ成り,765年(天平神護1)には大弐佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を築怡土城専知官とし,768年(神護景雲2)に完成した。…
…いずれも理論書というよりは当家の伝承を書きとどめたもので,系譜,奏演記録,故事来歴などをおもな内容としている。中国の楽書で記録上はじめて日本へもたらされたのは,735年(天平7)4月,入唐留学生吉備真備が聖武天皇に献じた《楽書要録》である。則天武后の撰とされ,もと10巻あったが,大部分が散佚した。…
…奈良時代の学者官僚吉備真備(きびのまきび)が遣唐使として入唐したときの不思議な説話を1巻(現在は4巻に分離)6段に描いた絵巻。制作は12世紀末から13世紀初と考えられる。…
…しかし,この伝統的な五十音図の拡充という方法によって,日本語の音節表が作成されることが多いのは,その組織が,字の発音の共通性に従って,縦横に整備しているからで,古来,語源,語釈,てにをは,仮名遣い,活用など国語の研究において尊重された歴史的事実と照応するが,さらにこの図の発生,伝承,実用の沿革が有用性をよく物語る。現存最古の図は醍醐寺蔵の《孔雀経音義(くじやくきようおんぎ)》に見えるもので11世紀初めのものであるが,その起源について悉曇(しつたん)から出たという説(大矢透),国語のために作られたのではなく,外国語学ことに漢字音の反切(はんせつ)のために作られたとする説(橋本進吉),儒家に端を発し,反音を簡明に示すために仮名を用いた図が,日本の語音の組織を明らかにするに足るものに発展したとする説(山田孝雄),悉曇反音を理解しやすくするために悉曇章のひな形を示すものとして作ったとする説(小西甚一)などがあるが,発生の契機や,その後の整備の目的とか暗示,また実用例の多様性を考えると,作者を吉備真備(きびのまきび)個人に帰する伝説が疑わしいことは当然にしても,現存の資料だけからは,決定的な断案が下されない。とにかく,古い図では,行・段の順がまちまちであり,悉曇の母音,子音の順に暗示を得た整理の事実は判然としているが,根底に漢字音や国語の音についての省察が存したことも疑うことができない。…
…やがてこの制度は形骸化して暦職は世襲され暦道は秘伝となって賀茂家に独占されるようになった。吉備真備(きびのまきび)は留学生として唐に学び,その帰朝に際して他のもろもろの文物とともに大衍暦を携えてきた博識の人物である。その6世の孫に忠行という陰陽道の大家が出,さらにその子保憲もその道に優れ陰陽博士,天文博士などを歴任した。…
…〈さんていりつりょう〉とも読む。24条よりなり,769年(神護景雲3)吉備真備,大和(倭)長岡らが撰し,791年(延暦10)施行され,812年(弘仁3)停止された。日本における体系的な律令法典の編纂は大宝律令につぐ養老律令で終わり,その後の律令法の部分的改正は法典そのものを改めることなく,詔,勅などで公布される単行法令すなわち格(きやく)によって行われたが,この删定律令は24条という限られた条文についてではあるが,養老律令の条文そのものを修訂したものと推定される。…
…吉備真備(きびのまきび)の著書。逸書であるが,目録38ヵ条が《拾芥抄》に引用されて残っている。…
…五位以上の貴族官僚は天皇に上表し,六位以下の下級官僚は太政官に申し牒(ちよう)して,太政官から奏聞(そうもん)する規定になっていた。具体的なケースをみると,764年(天平宝字8)正月,大宰大弐の吉備真備(きびのまきび)は,数え年70に達して致仕を上表したのであるが,まだ奏上されないうちに,造東大寺司長官に遷任を命ぜられている。また771年(宝亀2)に数え年70に及んだ大納言の大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)は,上表して致仕を願ったがゆるされず,774年12月,右大臣に昇進していた清麻呂は重ねて致仕を上表したが,またゆるされていない。…
…唯一の史料である《続日本紀》の記載の整理結果によると,次のような経過をたどったと考えられる。玄昉(げんぼう),吉備真備(きびのまきび)と対立し,藤原氏内部でも孤立していた藤原広嗣は,738年末,大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐にうつされた。彼は740年8月下旬に玄昉と吉備真備を除くことを要求する上表文を提出し,中央政府の返事を待たずに8月末ごろ挙兵にふみ切った。…
…古代の兵法は中国伝来のもので,《司馬法》《孫子》《八陣書》《太公六韜》《兵書論要》など多くの兵書が舶載されており,《日本書紀》の天智紀には兵法に閑(なら)える者に授位した記事がみえる。奈良時代では唐に留学した吉備真備(きびのまきび)が兵法にくわしく,平安時代では学者の家として著名な大江氏が歴代兵法を伝え,大江匡房(まさふさ)は源義家に秘法を授けたという。 しかし兵法の諸流派が喧伝されるようになったのは幕藩体制下軍学(兵学)が興隆してからである。…
…初めは無節の竹管を用いたが,同一条件の正確な律の竹管が求めがたく保存にも不便であったので,玉や銅をも用いて作るようになった。唐代に張文収が360銅律を作ったり,吉備真備(きびのまきび)が銅律一部を唐から持ち帰った記録がある。律管の長さや内径は音律との関係から種々の計算方法がとられてきた。…
…しかし701年(大宝1)の遣唐使が派遣されるころから,留学生のほとんどは唐に渡った。とくに717年(養老1)に出発した遣唐使には吉備真備(きびのまきび),阿倍仲麻呂,玄昉(げんぼう),大倭長岡(やまとのながおか)らが随行し,彼らの学業は長安でも高く評価されたという。仲麻呂はついに帰国できなかったが,真備らは大量の書籍や楽器などを持ち帰り,唐の文化の本格的な摂取の段階に入った。…
※「吉備真備」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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