日本歴史地名大系 「小矢部村」の解説 小矢部村おやべむら 富山県:小矢部市小矢部村[現在地名]小矢部市小矢部・小矢部町・本町(ほんまち)・泉町(いずみちよう)・今石動(いまいするぎ)一―二丁目・中央町(ちゆうおうまち)・新富町(しんとみまち)・観音町(かんのんまち)今石動町の下新田(しもしんでん)町・中新田町・上新田町・細工(さいく)町などの南側、小矢部川左岸の平地に立地。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(敦賀郡古文書)によれば、佐々成政は「利波郡 おやへ」の一〇〇俵などを石塚藤三郎に与えている。同一四年一〇月一二日、前田利秀は「越中礪波郡之内大矢部村」の一町五段を同氏の菩提寺高徳(こうとく)寺(のちの永伝寺)に寄進している(「前田利秀寄進状」永伝寺文書)。 小矢部村こやべむら 神奈川県:横須賀市小矢部村[現在地名]横須賀市小矢部一―四丁目・衣笠栄(きぬがささかえ)町一―三丁目・公郷(くごう)町一―三丁目・根岸(ねぎし)町三―四丁目東は森崎(もりさき)村、西は上平作(かみひらさく)村、南は大矢部(おおやべ)村、北は公郷村と接する。中世を通じて史料には大矢部を含んで矢部郷として記される。「吾妻鏡」建久五年(一一九四)九月二九日条に「三浦矢部郷内、可建立一堂之由思食立、為被訪故介義明没後也」とみえ、源頼朝が三浦義明追福のため一堂を矢部郷内に草創した。義明の子義澄は矢部次郎といわれた(三浦系図)。義澄の子胤義は承久合戦に京方として参加して敗死し、その子が三浦の「屋部」に隠れたが捕らえられたという(承久記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by