尾島村(読み)おしまむら

日本歴史地名大系 「尾島村」の解説

尾島村
おしまむら

[現在地名]筑後市尾島

矢部やべ川中流右岸に沿い、東は北長田きたながた村、北は鶴田つるだ村。南西久郎原きゆうろばる村。薩摩街道が通り、尾島町が建設された。永禄一一年(一五六八)と推定される一二月七日の戸次鑑連知行預ケ状(柳河藩史五/大日本史料一一―二〇)に「小嶋」とみえるのは当地と思われ、地内の三町が恩賞として内田元叙(鎮家)に預けられている。また同年と考えられる一二月一四日の戸次鑑連知行預ケ状案(内田文書/大日本史料一一―二〇)には、九嶺(宝満城、現太宰府市など)で討死した内田民部少輔への恩賞としてその子内田伊勢千代に当所のうち五町、伊勢千代名代として粉骨した同鎮賢に三町が預けられた。天正一二年(一五八四)戸次道雪(鑑連)高橋紹運(鎮種)は八月二八日当地など二方から柳川近辺まで攻め込んでいる(九月三日「戸次道雪書状」薦野家譜)

文禄四年(一五九五)の知行方目録に小島村とみえ、高一三四石余。本高は二二〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二三〇石・役高二一二石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高二二八石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田九町八反余・開田六反余・畑田一町四反余・畑七町七反余・居屋敷二反余。旧高旧領取調帳では高三〇九石余。正保四年(一六四七)の大小道之帳によると柳瀬やなぜ(現八女市)から「尾島村北ノ大道わかれ」まで一里一二町四〇間、尾島川(現矢部川)の渡しは幅一〇間・深さ二尺。寛文年中(一六六一―七三)折地おりじ村庄屋市左衛門は、洪水対策として旧矢部川(古川)筋の当村古賀こがの下から船小屋まで新川を掘り、古川のうち農地にできない所や堤筋に松を植立てた(旧家由緒書)。元禄一五―一六年(一七〇二―〇三)新庄組大庄屋矢賀部三之丞らが、当村下の荒籠や松土居を修理した(筑後市史)


尾島村
おじまむら

[現在地名]尾島町尾島

北を石田いしだ川が東へ流れ、東は阿久津あくつ村・岩松いわまつ村、西は亀岡かめおか村。さかい小泉こいずみ往還(現国道三五四号)が東西に走り、往還沿いに元宿もとじゆくの集落が連なる。元宿は上組かみぐみ下組しもぐみに分れ、下組の北に裏組うらぐみ、上組の西に新宿しんしゆくがあった。一五世紀半ば頃の年月日未詳新田庄知行分目録(正木文書)岩松持国当知行分として「尾次嶋郷」がみえる。同じ頃の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(同文書)にも岩松方として「おしま」があげられている。寛文郷帳では畑方のみで幕府領と旗本小林領の二給。小林領四石九斗余は新宿に相当し、幕末まで続く。幕府領一八五石二斗余は元宿と裏組に相当し、延享三年(一七四六)前橋藩領となり、明和七年(一七七〇)幕府領に復した(「前橋御領分石高帳」群馬大学蔵)。天保四年(一八三三)の村明細帳(福島文書)によれば、家数一八二・人数六六三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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