高橋紹運(読み)たかはしじょううん

改訂新版 世界大百科事典 「高橋紹運」の意味・わかりやすい解説

高橋紹運 (たかはしじょううん)
生没年:?-1586(天正14)

実名鎮種(しげたね)。官途は主膳正。入道して紹運。大友氏の年寄吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の子。高橋鑑種叛乱に失敗して筑前を追われた後,高橋氏を継いで筑前三笠郡の宝満・岩屋城督となり,筑前南部の軍事・行政の責任者となる。1579年(天正7)末以来筑前各地での叛乱鎮圧のため,同北部の責任者戸次道雪(べつきどうせつ)とともに奔走筑後へも遠征した。86年7月たてこもる岩屋城を島津勢に包囲され,激戦して敗死。島津勢も主力が大打撃をうけ筑前での北上が不可能となった。戸次道雪の養子統虎は紹運の実子で,後に筑後柳川を領し立花宗茂と名のった。
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朝日日本歴史人物事典 「高橋紹運」の解説

高橋紹運

没年:天正14.7.27(1586.9.10)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。紹運は法名で,実名は鎮種。三河守。大友氏の家臣吉弘鑑理の子。高橋鑑種が筑前(福岡県)を追放されたのちの元亀1(1570)年5月高橋氏を継ぎ,筑前岩屋城・宝満城(太宰府市)の城督となる。天正6(1578)年の耳川の戦後,肥前(佐賀県,長崎県)竜造寺氏や,秋月氏など筑前の国衆が大友氏に反旗を翻すと,立花城(福岡県新宮町)城督戸次鑑連と共に大友氏に敵対する勢力と戦った。同14年島津氏が筑前に進出し,岩屋・宝満両城を包囲。7月27日早朝岩屋城に総攻撃を受け,城衆と共に壮烈な最期を遂げた。

(佐伯弘次)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高橋紹運」の解説

高橋紹運 たかはし-じょううん

1548-1586 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)17年生まれ。吉弘鑑理(よしひろ-あきただ)の次男大友宗麟(そうりん)に追放された高橋鑑種(あきたね)の跡をついで筑前(ちくぜん)(福岡県)宝満・岩屋の城主となる。島津義久に岩屋城を攻められ,天正(てんしょう)14年7月27日自害した。39歳。名は鎮種。通称は孫七郎,主膳正。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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