尾張村(読み)おわりむら

日本歴史地名大系 「尾張村」の解説

尾張村
おわりむら

[現在地名]邑久町尾張

千町せんちよう平野の中央に位置し、古くから当地方の政治・社会・経済の中心とされる。古代の邑久郡尾張郷(和名抄)の遺称地とされ、中世尾張保が成立していた。応永一四年(一四〇七)五月二五日の安法師売券(吉備津神社文書)によれば、板倉いたくら(現岡山市)のうち「吉野村両法花堂」内三五代の地が「おわりの村」住人弥二郎に売却されている。

寛永備前国絵図に尾張村とみえ、高二千三一二石余。正保郷帳には枝村としておか村が載る。「備陽記」では田畑一四〇町九反余、家数一八八・人数一千五二、枝村に小物屋こものやがある。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高三千五六六石余で、うち一千二四一石余が蔵入、残りが家臣二三名の給地となっており、分割所有が著しい。


尾張村
おわりむら

[現在地名]赤碕町尾張

みつ村の南西に位置する。集落の東をくろ川の支流尾張川が北流、西を大山道(川床道)が通る。地名は尾張国出身の石賀源太夫という者が移り住んだことにちなむという。拝領高は一二四石余、本免は五ツ。藪役銀五匁を課されていた(藩史)幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高一四四石余、竈数一八。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では家数一八・人数九〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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