日本歴史地名大系 「尾西市」の解説 尾西市びさいし 面積:二二・六一平方キロ県西北部、木曾川中流左岸の濃尾(のうび)平野の中心地にある。木曾川の対岸は岐阜県羽島(はしま)市で県境に位置する。古くから河川の氾濫で村の興廃がはなはだしかった地域である。市の中ほどを北から南にかけて日光(につこう)川が流下している。尾西市は昭和三〇年(一九五五)に中島郡から独立して市制を施行したが、市名は尾張西部地方の意味である。〔原始・古代〕縄文時代の遺跡は発見されていない。しかし三条(さんじよう)・北今(きたいま)の地域で弥生土器や土師器が地下砂層の下から発見され、木曾川水系のデルタに早くから人が住みついたようである。市域には、御母板倉(おもいたぐら)御厨・笑生(のぶ)御厨・加野御厨(位置不詳・市近辺とみられる)などが置かれたところからも生産力は比較的高かったとみられる。〔中世〕承久の乱に京方についたため、一時所領を没収されたこともあった中島氏一族によって、鎌倉時代この辺り一円は支配されていた。元応二年(一三二〇)中嶋承念譲状案(妙興寺文書)に尾張国大介職とされる彼の所領に「阿古江」(阿古井)・「曾不江上下」(祖父江)・「興郷」(起郷)があり、ことに阿古江(あこえ)は、貞和五年(一三四九)の中嶋長利寄進状(同文書)のなかに「長利重代相伝所領也」とあるように中島氏の有力な所領であった。しかし、尾張の守護斯波氏、さらに織田氏などの勢力台頭以前に、中島氏の居館は菩提寺である長隆(ちようりゆう)寺(現一宮市)とともに兵火に炎上したと伝えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by