山元藤助(読み)やまもと・とうすけ

朝日日本歴史人物事典 「山元藤助」の解説

山元藤助

没年:明治4(1871)
生年天保1(1830)
江戸末期の植林家。薩摩藩の諸木植付掛。日向国(宮崎県)諸県郡高岡郷内山村生まれ。父の荘兵衛は天保改革時の手許仕立山(藩直営林)大規模植林事業の際,日州御手山の支配人を勤めた。父の死後そのあとを継ぎ,造林の研究と指導に奔走。安政3(1856)年,江戸に上る。同年,藩命を受けて紀州熊野に到り,炭焼法その他林産取扱法を習得。翌年木曾,大和,大坂を視察して帰郷。文久2(1862)年から4年がかりで鹿児島・日向の参勤交代路福山街道(延長約21km)に並木松苗3万5780本,楠苗1900本,杉苗2000本を植栽。翌3年養蚕桑苗仕立方,明治3(1870)年九州地方山林および物産取調。その巡回報告に『九州産物聞書』2巻がある。天保改革以降の薩摩藩進出の財政基盤のひとつは藤助らの林業振興に負っていた。<参考文献>『鹿児島県史』2巻(復刻,1967),農林省編『日本林制史資料 鹿児島藩

(原口泉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山元藤助」の解説

山元藤助 やまもと-とうすけ

1830-1871 幕末-明治時代の植林家。
天保(てんぽう)元年生まれ。山元荘兵衛(そうべえ)の長男。薩摩(さつま)鹿児島藩士。安政3年日向(ひゅうが)(宮崎県)にある藩林の御手山支配人の職をつぐ。福山街道ぞいに松,杉,樟(くすのき)をうえ,挿し杉の方法をひろめた。明治4年2月死去。42歳。著作に「諸木御仕建方手控」。

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