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産業革命 さんぎょうかくめい Industrial Revolution

翻訳|Industrial Revolution

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

産業革命
さんぎょうかくめい
Industrial Revolution

通常は 18世紀後半から 19世紀前半にかけてイギリスにおける技術革新に伴う産業上の諸変革,特に手工業生産から工場制生産への変革と,それによる経済・社会構造の大変革を産業革命と呼ぶ。広義にはこのイギリスにおける産業革命が 19世紀から 20世紀初頭にかけて他の欧米諸国や日本に波及したので,特にイギリスに限らず資本主義確立期にみられる生産技術,社会構造上の大変革一般の意味として用いられる。

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デジタル大辞泉の解説

さんぎょう‐かくめい〔サンゲフ‐〕【産業革命】

industrial revolution》18世紀後半に英国に始まった、技術革新による産業・経済・社会の大変革。19世紀前半にはヨーロッパ各国に広がった。機械設備をもつ大工場が成立し、大量生産が可能となり、社会構造が根本的に変化して、近代資本主義経済が確立したが、その過程で人口の都市への集中、小生産者・職人層の没落を伴った。

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百科事典マイペディアの解説

産業革命【さんぎょうかくめい】

1770年代から1830年代にかけて英国で典型的にみられ,19世紀末までに今日の全主要工業国が経験した,生産技術上の急激で連続的な発展,およびこれに伴う社会・経済上の大変革。
→関連項目アシュトンイギリスクラッパム工業工場産業考古学社会主義人口爆発水力紡績機世界の工場繊維工業紡績ホブズボーム綿織物ヨーロッパロストー

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世界大百科事典 第2版の解説

さんぎょうかくめい【産業革命 industrial revolution】


【産業革命論の変遷】
 〈産業革命〉という言葉そのものは,K.マルクスフランスのA.deトックビルらによっても用いられたが,厳密な学術用語としては,1880年代になってイギリスの社会改良家A.トインビーによって確立させられた。トインビーは,ケンブリッジで教鞭をとるかたわら,ロンドンイーストエンドなどのスラム改良に活躍した人物で,今もトインビー・ホールにその名をとどめている。彼にとって〈産業革命〉とは,18世紀後半,つまりジョージ3世登位以降,19世紀前半までのイギリスが,生産活動の機械化・動力化,工場制の普及,その結果としての工業都市の成立,産業資本家層と工場労働者の階層の勃興など,農村社会から資本主義的工業社会へ〈急激に〉大転換を遂げたことを意味した。

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大辞林 第三版の解説

さんぎょうかくめい【産業革命】

動力機械の発明と応用が生産技術に画期的な変革をもたらし、工場を手工業的形態から機械制大工場へ発展させ、その結果社会・経済のあらゆる面に生じた変革と発展の総過程。一八世紀半ば頃、イギリスに最も早く起こり、欧米諸国へ波及した。日本では、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、日清・日露戦争の間に遂行された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

産業革命
さんぎょうかくめい
industrial revolution

定義

過去において、人類の文明史を画期した大きな事件は二つあった。一つは、人類が紀元前8000年ごろにメソポタミア地方で農業を始めた「農業革命」、もう一つは18世紀イギリスで開始された「産業革命」である。現在、産業革命がつくりだした物質文明は、過去における二つの大変革に匹敵するような大きな変革に直面している。アルビン・トフラーはこれを人類史における「第三の波」とよんでいるが、人によっては「第二の産業革命」とよぶこともある。
 18世紀イギリスに起こった産業革命は、農業文明社会から工業文明社会への移行を意味するから、普通これを「工業化」とよんでいる。工業化はその後ヨーロッパ諸国、アメリカ、日本、ロシアなどに拡大し、さらに20世紀後半には、中国、韓国、東南アジア、中近東、ラテンアメリカ、アフリカ諸国に広がりつつある。工業化を簡単に定義することは困難であるが、物質的財貨の生産に無生物的資源を広範に利用する組織的経済過程であるといってよい。すなわち農業社会では、そのエネルギーを人間や動物の筋力か、風力、水力といった自然の力に頼っていた。また生活に必要な炊事や暖房、生産のための熱エネルギーは、主として薪炭に依存していた。これに対して工業化は、こうしたエネルギーの生物的資源への依存から、石炭やガス、石油といった一度消費してしまえば再生不可能な化石燃料への依存に移ることで、その際、新しいエネルギー体系への移行とその経済過程への適用を支えたものは、科学技術の進歩であった。
 こうしてイギリス産業革命は、かつて経済学者のアーノルド・トインビー(1852―83)が主張したような激変的でドラスティックな現象としてではなく、少なくとも16世紀中ごろから工業化が始まったとする見解が今日では支配的である。
 各国の工業化初期段階において、生産的投資が短期間に急速に上昇する現象がみられる。この現象に注目したのがアメリカの経済史家ロストウで、彼はこれをテイク・オフ(離陸)と名づけ、「生産的投資率が国民所得の5%ないしそれ以下から10%以上に上昇すること」という数量的規定を与え、低開発国の工業化に一つの歴史的規準を提供した。彼によれば、テイク・オフ期は各国ともだいたい20年間である。イギリスは1783~1802年、ドイツは1850~1873年、日本は1878~1900年(明治11~33)と押さえたが、この期間については異論がないわけではない。
 ところで産業革命は、生産における技術革新と急速な経済成長をもたらしたのみならず、従来の農業社会の構造を根底から崩壊に導いた。生産と消費が一体であった農業社会にかわって、いまや生産職場と家庭は分離し、人々の生活は、労働を売って得られる賃金収入に依存せざるをえなくなった。現代の都市サラリーマン型生活が生まれたのもこのときである。農村共同体の崩壊に伴って、教育、福利厚生、娯楽などの社会的諸機能が共同体から分離、独立するなど、社会組織の大変革が起こった。
 こうした産業革命を最初に経験したのはイギリスであるから、次に主としてイギリス産業革命について述べる。なお、日本の産業革命については「日本産業革命」の項を参照されたい。[角山 榮]

起源

イギリスでは早くから封建制度が解体し、農村には独立にして自由な農民層が多く現れていた。また農民を母体とした農村毛織物工業が発達し、農民層分解の進展とともに前貸問屋制やマニュファクチュア(工場制手工業)の形態をとった初期資本主義的生産関係が、他のヨーロッパ諸国よりも順調に現れてきたこと、しかも17世紀中ごろの絶対権力を一掃した市民革命、海外市場・植民地の獲得、海外商業競争に対する有効な重商主義的諸政策と相まって、マルクスのいう本源的蓄積が著しく進んでいた。[角山 榮]
エネルギー危機
人類最初の産業革命の引き金となったのは、16世紀中ごろ以降ヨーロッパを襲った森林資源の枯渇・欠乏、薪炭不足に伴う深刻なエネルギー危機であった。ヨーロッパのなかでも、エネルギー危機がもっとも深刻な状態で現れてきたのはイギリスである。これに対してイギリスがとった危機克服の対策は、代替エネルギーとして石炭を家庭用、工業用燃料として組織的に利用することであった。その結果、行き詰まっていたイギリス工業生産は石炭燃料の利用によって活気を取り戻し、1540~1640年の間「初期産業革命」とよばれるような急激な経済成長がみられた。こうしてイギリスの石炭生産量は1540年ごろの年20万トンから、1650年ごろ約150万トン、1700年ごろ約300万トンへと飛躍的な増加をみた。ちなみに17世紀後半のイギリス一国の石炭生産量は、全世界のほぼ85%を占めていたのである。
 石炭に対する需要と生産が増大するにつれ、技術的に解決を迫られた課題がさしあたり三つあった。炭坑の排水問題、石炭の生産地から消費地への輸送問題、鉄鉱石溶解における石炭利用の技術開発がそれである。これらの課題が社会的、技術的に解決されていくなかで産業革命への条件が整備されていく。すなわち炭坑の排水処理の技術的課題は、セーベリーThomas Savery(1650?―1715)が考案した「坑夫の友」(1698)とよばれるポンプ、ついでニューコメンの「気圧機関」(1712)など初期の蒸気機関の発明を促し、ついにワットの複動式蒸気機関=動力機の発明(1781)に導いた。
 他方、石炭輸送に絡んで登場してきたのが動力エネルギー危機であった。16世紀以降ヨーロッパは増大する動力エネルギー需要を、主として畜力とくに馬力の供給に依存したが、家畜の増加は飼料の増産の必要を高めた。とくに石炭輸送など陸上輸送が急速な成長を遂げたイギリスでは、穀物と飼料の増産を可能にした新しい土地利用形態、たとえば根菜類、クローバーなど飼料作物を導入したノーフォーク式四種輪作法のような技術革新が現れた。それにもかかわらず、家畜と人間が食糧と土地をめぐって競合するという事態が生まれた。家畜の増加が人間の生存を脅かし始めたのである。18世紀イギリスは、まさにそうした畜力増加の社会的限界が危機的状況となって現れた時代であった。人間の食糧と生存のために、いかに畜力を節約するかという問題と同時に、畜力にかわるいっそう効率的な動力をいかにつくりだすかという問題が、18世紀イギリスの最大の社会問題となった。
 畜力の節約のために、車輪の改良、道路の改修、運河の建設といった社会的間接資本への投資が促進されはしたが、動力エネルギー危機は最終的には畜力にかわる新しい動力の出現を不可避のものとした。それを解決したのがワットの動力機である。それは水力、風力、畜力、人力など農業社会の基本的動力を凌駕(りょうが)して動力革命をもたらし、産業革命がまさに「第二の波」の名に値する画期的な技術的基礎を確立したのである。[角山 榮]
生活革命
産業革命は綿工業から起こってくる。どうして産業革命がヨーロッパの伝統的産業である毛織物工業からではなく、ヨーロッパにまったくなじみのなかった綿工業から起こってくるのか。その歴史的背景として、17世紀後半におけるイギリスのアジアとの接触、それがもたらした生活革命に注目する必要がある。
 当時のアジアは豊かで、優れた文化が栄えていた。茶、陶磁器、絹、綿布などはヨーロッパ人のあこがれの的となったが、なかでもイギリス東インド会社がもたらした美しく染色したインド・キャラコは、イギリスをはじめヨーロッパ人の間に新奇なファッションとして人気を集め、一種の衣料革命を引き起こした。綿布はドレスのほか、ベッドのシーツ、カーテンにも利用できるため、綿製品に対する需要が庶民の間に急速に広がった。その需要にこたえて、インド綿布に太刀打ちできる綿製品の製造が、18世紀初めのイギリスの国民的課題となった。原料の綿花は西インド諸島においてアフリカ奴隷を労働力とするプランテーションで栽培されたが、綿工業それ自身は、イギリス本国と西アフリカと西インド諸島を結ぶ三角貿易で栄えていたリバプールへ原綿が輸入された事情もあって、リバプールの後背地マンチェスター周辺で始まった。綿工業を推進したのは、旧来の支配階級であった地主や伝統的織物業者ではなく、主として商人およびヨーマンとよばれる農民であり、その多くは宗教的には非国教徒で、国家の援助もなく、自助の精神で企業家になった人たちであった。[角山 榮]

経過


綿工業が主導
こうして産業革命は綿工業から始まった。綿工業における機械の発明は、ジョン・ケイの飛杼(とびひ)の発明(1733)から始まり、紡績部門ではハーグリーブスのジェニー紡績機(1764~1767)、アークライトの水力紡績機(1769)、クロンプトンのミュール(1779)、ロバーツの自動ミュール、織布部門ではカートライトの力織機(1785~1787)の発明によって、蒸気力を動力とする機械制工場生産が確立した。その中心はマンチェスターおよびグラスゴー周辺であった。綿工業の発展は、鉄工業、石炭業、機械工業といった関連諸産業の発展を促し、石炭と鉄の時代を現出した。
 鉄工業における技術革新で注目すべきは、銑鉄生産過程におけるアブラハム・ダービー1世によるコークス炉製鉄法(1709ころ)と、鍛鉄生産過程におけるヘンリー・コートのパドル法(1783)である。とくにパドル法の発明によって鉄生産は飛躍的に増大した。その中心は南ウェールズ、バーミンガム周辺の中部地方およびスコットランドである。また機械工業においては、従来の時計工業、水車・馬車製造業における伝統的技術を受け継ぎながら、ヘンリー・モーズリーおよびその3人の弟子リチャード・ロバーツ、ジェームズ・ナスミス、ヨゼフ・ホイットワースらによって、精度が高く自動化された旋盤や工作機械がつくられるようになり、1830年以降には機械による機械の大量生産体制が確立した。[角山 榮]
鉄道の出現
産業革命の技術的、生産力的成果の総仕上げは鉄道の出現である。鉄道の初期の歴史は石炭輸送をもって始まったが、スティーブンソンの発明した蒸気機関車は、その速度と能率において画期的な成功を収め、鉄道時代を迎えるに至った。まず1825年には石炭を炭坑から水路まで運ぶストックトン―ダーリントン鉄道が開通し、ついで1830年にはマンチェスター―リバプール鉄道が開通して商業的成功を収めた。その成功に刺激されて鉄道網は急速にイギリス全土に拡大し、産業資本循環の大動脈を形づくるとともに、国内市場が一挙に広がった。
 イギリスに始まった鉄道建設は、すぐそれに続いて西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国において急速に進められるとともに、19世紀中ごろ以降になるとインド、ラテンアメリカ諸国など後進地域へも鉄道が広がり、鉄道はまさに産業文明のシンボルとなった。こうして世界の鉄道総延長は、1847年には2万5100キロメートルであったのが、1857年には8万2800キロメートル、1867年には15万5700キロメートルへと飛躍的な発展を遂げた。
 鉄道建設のためには、莫大(ばくだい)な資金、建設資材、技師、労働者を必要とするが、これらすべてを自給できたのはイギリスだけで、大陸諸国、アメリカ合衆国、未開発諸国においては、初期の鉄道建設にあたって、資金、レール、機関車、建設技師など、なんらかの形でイギリスに依存したのである。しかし先進資本主義国においては、鉄道建設ブームは、ロストウのいうテイク・オフのための主導部門を形成し、鉄道主導型の産業革命を引き起こすことで自立的国民経済の形成に著しい役割を果たした。一方、後進的農業諸国における鉄道の導入は、かならずしもテイク・オフへの契機にならなかったばかりか、かえってイギリス資本への従属を強める結果をもたらした。[角山 榮]

政治の変化と世界経済の支配


自由主義経済体制へ
産業革命は単に経済構造の革命的変化をもたらしただけではなく、同時に政治的社会構造をも大きく変えた。政治的変化として注目すべきは、産業ブルジョアジーの勃興(ぼっこう)の結果、従来の貴族・地主支配の政治体制に動揺が始まったことである。すなわち、新興産業ブルジョアジーは1832年の選挙法改正をかちとることによって被選挙権を与えられ、一方労働者階級も一般男子普通選挙権を要求してチャーティスト運動(1838~1848)に結集した。こうした政治闘争は、資本主義体制が内部にはらんだ資本家と賃労働者との矛盾対立と絡み合って、イギリス社会を大きく揺さぶった。
 また自由主義を標榜(ひょうぼう)する産業ブルジョアジーは、旧来の重商主義的諸規制や統制が彼らの自由な経済活動を妨げるとの立場から、それらの撤廃のための強力なキャンペーンを展開した。その推進力となったイデオロギーは、アダム・スミスからマルサス、リカードへと発展した古典派経済学の自由放任主義である。こうして19世紀前半、地主的、重商主義的諸規制は逐次廃止されていった。そのおもなものは、エリザベス「徒弟法」の廃止(1813~1814)、東インド会社の貿易特権の廃止(1833)、救貧法の改正(1834)、穀物法の廃止(1846)、航海条例の廃止(1849)などである。他方、自由貿易の実現は輸入関税引下げの形をとって進められた。それは1824~1825年のハスキソンの改革によって徐々に進められ、1840年代のピールの改革では、原料に対する最高関税限度を5%、半加工製品は12%、加工製品は20%を限度としたが、1845年に原綿の輸入関税は廃止された。ついで1850年代のグラッドストーンの関税引下げを経て、1860年には保護関税ないし差別関税はほぼ全面的に撤廃された。こうしてイギリスは自由貿易国となったが、イギリスの自由化に対応して1860年代には、英仏通商条約(1860)をはじめヨーロッパ諸国も自由化政策を採用し、自由主義経済体制が国際的にも完成をみるに至った。[角山 榮]
世界資本主義の形成
19世紀を通じて工業化はイギリスからフランス、ドイツ、アメリカ、さらにロシア、日本へと拡大したが、工業化を民間の自生的な努力で達成したのはイギリスだけで、後発諸国の工業化は、イギリスの機械制製品の洪水的流入を防ぎ、国内資本の保護育成を図るため保護関税政策の採用など、国家の積極的な工業化政策に負うところが大きい。一方、工業化に成功しなかった農業諸国は、自由主義経済のもと、先進工業諸国に食糧や原料を供給し、工業国からは工業製品を輸入するという、世界的な分業構造のなかに強制的に包摂された。こうして世界経済は、イギリスを軸とする先進工業諸国と、これに従属的な植民地的、半植民地的農業諸国とに分かれ、これらが支配=被収奪の有機的な関係で結ばれた世界資本主義として再編成された。ここに現代における「第三世界」「南北問題」の原型が形成されたのである。[角山 榮]

都市の生活環境


人口増加と工業都市の成立
普通、産業革命が始まったとされる1760年ごろのイングランドとウェールズの推定人口は660万、その後1800年には916万、1851年には1800万へと著しい人口増加をみた。従来停滞的であった人口がどうして急激な上昇に転化したのか。18世紀の人口増加の理由として、徒弟制が弛緩(しかん)して青年の自立が早まり早婚になった結果、出生数が増えたとする意見もあれば、ペストの減少や生活環境の改善で死亡率が低下したとする意見もあってはっきりしない。
 しかし増加した人口の大部分は都市へ流れ、工業都市の群生をもたらした。1750年ごろには、ロンドンの70万を例外として、人口10万を超える都市は一つもなかったが、1830年にはマンチェスター、リバプール、バーミンガムなど、人口10万を超える都市が七つも出現、いずれも工業都市であった。近代工業都市の特徴は、中世都市が宗教と芸術の香りに満ちた美しい都市であったのに対し、石炭の煙で汚れ、不衛生で、悪臭たちこめる、労働者がひしめき合う不潔な都市であった。[角山 榮]
劣悪な生活環境
生活の場が農村にあった時代は、生産したものは自らそれを消費することができた。しかし産業革命は、従来農村共同体のなかで一体であった生産と消費の分離をもたらした。労働者は家庭を離れて工場へ働きに出かけねばならない。ところがいまや生産の場となった工場内では、労働者は騒音と不衛生な環境のなかで、時計の示す時刻と監督者の厳格な規律と服従のもと、1日14、15時間に及ぶ長時間労働を強いられた。一方、労働者にとって消費や憩いの場である住宅といえば、たいていは工場の周りに建てられたにわかづくりの粗末なバラック長屋であった。それは普通広さ6畳ほどの部屋が二つ、しかも一つのベッドに3、4人が交代で寝起きし、便所は十数世帯の共同で、浴場の設備はなかった。
 飲料水は、生活の場が農村にあったときは自由に得られたが、工業都市ではいまや水道会社から代金を払って買わねばならない商品であった。したがって貧しい労働者には、水もたやすく手に入らなかった。たとえばマンチェスターでは、1809年に給水会社が創設され給水を始めたが、ブルジョアの住む地域には1年6シリングで豊富に給水したのに対し、町の大部分は雨水をためた貯水槽から給水されていたにすぎない。またロンドンのクラーケンウェルのスラム街では、1863年になっても1日にわずか20分しか給水されない1本の水道栓に、十数世帯が頼っていた状態であった。このように「水はビールのように貴重なもの」であったから、労働者の家庭では飲料や料理に使うのが精いっぱいで、それを洗濯や入浴に使う余裕はほとんどなかった。こうした生活環境はきわめて不衛生なもので、しばしば伝染病の温床となった。とくに不潔な衣類がチフスの原因とされ、公衆衛生の立場から公衆洗濯場や公衆浴場を設けることが地方自治体に課せられるようになるのは、1848年の「公衆衛生法」以後のことである。[角山 榮]
食事、伝染病、高い死亡率
この時代の労働者はいったいどんな食事をとっていたか。多くの労働者にとって、パンとジャガイモが食事のほとんどすべてであり、それにバター、チーズ、ベーコン、紅茶がすこしつく程度で、新鮮な肉はまだぜいたく品であった。パンは初めは自家製であったが、主婦が働きに出るようになると、パン屋のパンに依存するようになった。パンが褐色のパンからしだいに白いパンに移ったのはこのころである。白いパンをつくるのに漂白剤としてみょうばんを使うことが多く、ときには白亜、石粉、石膏(せっこう)、驚くべきことには人骨をさえ混合した。こうしたいんちき食品はこの時代の紅茶やコーヒーにもみられた。にせものの紅茶には出がらしの茶葉を再製、着色したものや、ときにはサンザシの葉を紅茶に仕立てあげたものさえあった。
 また19世紀前半、都市労働者の手に入った魚といえば、塩漬けのニシンしかなかったが、1860、1870年代になると、冷凍装備のトロール船によって捕獲された新鮮な魚が、安い値段で庶民の台所に届くようになった。こうして新鮮な魚とくにタラがイギリスに入ってくるようになって登場したのがフィッシュ・アンド・チップスで、それが労働者の食べ物として定着したのは1864~1874年のころである。
 ところで労働者は、職場における長時間労働と劣悪な生活条件のなかで、肉体の磨滅と生命の短縮を強いられた。1830年代末、マンチェスター、リバプールなど工業都市における労働者階級の平均寿命は、15~19歳という信じられないほどの低さであった。他方、農村に住む地主階級の平均寿命は50~52歳で、都市労働者階級とは大きな開きがあった。労働者階級の高い死亡率の原因は、主として赤痢、チフス、結核、コレラ、しょうこう熱など非衛生的環境に由来する伝染病のほか、とくに乳幼児の高い死亡率が平均寿命を引き下げたからである。[角山 榮]
社会改良の動き
工場内における劣悪な労働条件および貧困な生活環境から、多くの社会問題が発生した。社会問題に対する対応には二つの動きがあった。一つは、資本に対する労働側の抵抗としての労働運動の展開であり、いま一つは、博愛主義者による社会改良の動きである。
 労働運動はまず1811~1812年、1816年に起こったラダイト運動、すなわち機械打ち壊し運動から始まった。1824年に「団結禁止法」が撤廃されてからは、ストライキが各地で頻発し、労働組合結成が全国的に広がった。こうして労働者は組織の力によって高い賃金を獲得しようと努めたほか、労働組合や相互扶助方式を利用して、現存社会を改良し新しい社会を打ち立てようとした。そのなかで注目すべき動きとしては、ロバート・オーエンの指導で結成された「全国労働組合大連合」(1834)、協同組合(1844)、チャーティスト運動などがある。
 一方、工場内の非人道的労働条件の改善は、博愛主義者の動きとも絡んで、「工場法」の制定を促した。1802年の最初の工場法で、教区徒弟に対して12時間以上の労働および深夜業を禁止したのに続き、1819年、1833年、1844年の工場法でしだいに青少年の労働時間が短縮された。1847年には、原則として1日の労働時間を10時間とする十時間労働法が議会を通過した。また、博愛主義者チャドウィックEdwin Chadwick(1800―1890)らの努力によって、1840年代から非衛生的な都市の生活環境の改善が進んだ。なお、この時代の労働者の生活水準の低下を主張する「悲観派」に対して、むしろ生活水準は上昇したとする「楽観派」の主張が古くから対立し、俗に「生活水準論争」とよばれる論争がいまなお続いているが、1850年代末以降は実質賃金が上昇に転じたことは明らかであり、産業革命の生産力的成果と世界経済支配のうえにイギリスはビクトリア朝の黄金時代を迎えるのである。[角山 榮]
『T・S・アシュトン著、中川敬一郎訳『産業革命』(岩波文庫) ▽P・マントウ著、徳増栄太郎他訳『産業革命』(1964・東洋経済新報社) ▽小松芳喬著『英国産業革命史』再訂新版(1971・一条書店) ▽P・マサイアス著、小松芳喬監訳『最初の工業国家』(1972・日本評論社) ▽角山榮著『産業革命の群像』(1971・清水書院) ▽角山榮著『生活の世界歴史10 産業革命と民衆』(1975・河出書房新社) ▽角山榮編『講座西洋経済史 産業革命の時代』(1979・同文舘出版) ▽荒井政治・内田星美・鳥羽欽一郎編『産業革命の世界』全3巻(1981・有斐閣) ▽角山榮・川北稔編『路地裏の大英帝国』(1982・平凡社) ▽アルビン・トフラー著、徳山二郎監修、鈴木健次・桜井元雄他訳『第三の波』(1980・日本放送出版協会)』

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世界大百科事典内の産業革命の言及

【イギリス】より

…中世の三圃制農業の伝統を受け継ぐ混合農業が主体であるが,酪農や市場園芸などへと多様化しつつある。また西ミッドランド大都市圏は産業革命によって発展した古い工業地域であり,バーミンガムやスタッフォード炭田を含む黒郷(ブラック・カントリー)の鉄鋼業が衰退し,代わってコベントリー,ウルバーハンプトンなどの機械工業が台頭している。(4)東部 丘陵のイースト・アングリアと低平なフェンランドから構成されるが,年降水量が平均625mmと少雨であるため,小麦,大麦,ジャガイモ,テンサイ等の畑作が大規模に行われ,イギリスの穀倉をなしている。…

【学校】より

…これらの構想は,革命政府の下では実現されなかったが,教育を権利としてとらえ,学校教育の世俗性や無償をめざすことは,その後,近代教育の原則として認められるようになった。
[産業革命と学校]
 一方,中世末期以来,手工業の発展とともに,同業組合学校や徒弟学校,さらに実科学校などが設置されるようになっていたが,学校が特定の上層階級の人のものでなく,広く一般民衆にとっても必要不可欠の存在とみられるようになるのは,産業革命に続く19世紀中葉のナショナリズムの高揚をまたなければならなかった。フレーベルは,人間は少年時代になると〈学校の人Schüler〉になるといった(日本では中国渡来の〈学童〉の語を,明治以来小学生にあてた)。…

【休日】より

…休日は働く者の労働のリズムを整え,労働力の再生産に活力を与えるために欠くことのできないものである。
【産業革命以前の休日】
 工場法が施行されるずっと以前から,働く人びとは厳しい労働のあいまに,それぞれの生活に即した休日をもった。古い時代,休日はおおむね祭礼を伴った。…

【クラッパム】より

…ケンブリッジ大学における初代の経済史学講座教授(1928‐38)。1926年出版の《近代イギリス経済史》(全3巻,1926‐38)第1巻において,A.トインビー以来定着していた〈悲観説〉的な産業革命論に対して産業革命の明るい面を描き出し,それがむしろ労働者の生活水準を引き上げたとする〈楽観説〉派の起点となった。その研究方法が記述史料よりも,統計的なデータを重視していたことも大きな特徴である。…

【工業化】より

…人類史的にいえば,18世紀末のイギリスを起点として,現在も進行中の過程ともいえる。もっともふつうには,各国経済における工業部門の比重が決定的に高まることをさしており,歴史的にはそれぞれの国で産業革命とよびならわされている現象とほぼ一致する。この意味での工業化とは,産業資本,ことに固定資本の強度の蓄積,人口の激増,労働力の第2次産業への集中,第2次産業における技術革新の進行,そして何よりも1人当り国民所得の持続的成長の開始などによって特徴づけられる。…

【交通】より

…この時代の航海はヨーロッパ各国の国策として推進され,海外貿易によって金銀貨幣の増大を図ろうとする重商主義政策を生んだ。
[近世・近代]
 イギリスの産業革命の原動力の一つとなった蒸気機関の発明は,19世紀に入ると,それをレールの上の車を走らせることに応用したトレビシックやG.スティーブンソンによって,鉄道という新しい交通機関の誕生となった。鉄道は建設と輸送の両面から,産業革命をいっそう進展させる役割を果たした。…

【産業】より

…工業は完全に農業から独立し,さらに商業に対しては支配的とさえなっていった。このように,いわゆる産業革命によって社会のしくみもすっかり変化してしまった。 以上のような歴史的発展のなかで,諸生産が社会的分業の一環として自立し,漁業,農業,林業,牧畜業,鉱業,工業等を形成してきた。…

【産業衛生】より

…ほぼ同時代の日本には,佐渡の金山で,坑内の換気のために通気坑を3年がかりで掘ったという記録(1663)や,珪肺(よろけ)の記録(1756)があるが,産業の規模は小さく,産業衛生活動はヨーロッパとは比べられないほど遅れていた。 イギリスに始まった産業革命によって生み出された労働者の健康上の諸問題は,こうした蓄積の上にたつ産業衛生の近代的な展開を促すことになった。新しく誕生した労働者階級の生活と労働の状態の改善の要求も高まり,産業衛生の課題は,過長な労働時間の短縮をはじめとした労働条件の改善,母性保護と年少者の保護,職業病の補償と予防などがとり上げられていった。…

【産業資本】より

…このような資本,労働という基本的生産要素が社会的に形成され,生産設備,原材料を含む生産要素を購入したり,生産物を販売したりする〈市場〉がある程度発達していることが産業資本成立の要件である。これに生産技術上の基礎を与え,近代的産業資本成立の現実的契機となったのが18世紀後半に始まるイギリスの産業革命であった。 商品経済発展のなかから生まれた産業資本は,いかなる生産活動にも適応しうる人間労働をはじめ,あらゆる生産要素を市場で手に入れることによって,人々が必要とするほとんどすべての生産物を市場に供給することができる。…

【資本主義】より

…その初期段階はマニュファクチュア(工場制手工業)のかたちをとり,技術的には手工業の段階にありながら,労働者を工場に集め分業によって生産力をたかめた。 しかし,資本主義による生産が飛躍的に拡大するのは産業革命によってのことである。イギリスでは18世紀の後半に綿工業を中心に多くの機械が発明され,工業技術が革新されて近代的工場制度が成立した。…

【植民地】より

…【中村 研一】
【近代植民地と世界資本主義システム】

[周辺部としての植民地]
 経済学的観点からみた近代植民地とは,15世紀末以降に,形成過程に入った世界資本主義システムcapitalism world‐systemに従属的に包摂された〈周辺部periphery〉であり,その従属的性格は政治的独立後も周辺部の社会経済の構造的特徴として残存している。 いわゆる〈地理上の発見〉から産業革命に至る時期の世界資本主義システムとは,その〈中心部center〉としてのヨーロッパにおいては萌芽的に資本制生産様式の出現をみつつも,世界的に膨張しつつある商業網の周辺部においては,不自由労働のもとでの商品生産形態がみられるという,過渡的かつ不均等的・複合的なシステムであった。この時期のヨーロッパ経済においては,工業活動は比較的未発達で,おおむね商業資本に従属していたので,この端緒期の資本主義は商業資本主義とも呼ばれる。…

【トインビー】より

…オックスフォード大学卒業後,母校で教鞭をとるかたわら,ロンドンのイースト・エンドやブラッドフォードなどの工業都市で社会事業を展開。病弱のため早逝したが,のちに編集・出版されたオックスフォードにおけるその経済史の講義は,〈産業革命〉の概念を最初に確立したものとして,史学史上の記念碑的価値をもつことになった。彼の〈産業革命〉論は,その社会事業家としての問題意識と一体となって,劇的な変化,つまり革命があったこと,その結果民衆の生活水準が著しく低下したことの2点を柱としており,以後,この2点をめぐってさまざまな論争が展開される。…

※「産業革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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