精選版 日本国語大辞典 「戸籍」の意味・読み・例文・類語
こ‐せき【戸籍】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
個人の重要な身分関係を明確にする目的でつくられる文書。現在は戸籍法(昭和22年法律第224号)にその制度が定められている。明治初年に戸籍制度ができたときは警察的取締りの目的もあったが、その後は人の身分関係を公示することを目的とする制度になった。1898年(明治31)に施行された民法親族編・相続編は、「戸主」に家族構成員を支配統率する権限を認めた、いわゆる「家」の制度を中心に人の身分関係を規律した。同年制定された旧戸籍法は、この「家」の範囲を確定して公示する役割を負わされた。すなわち、一つの戸籍に記載された者が一つの「家」を構成することとされたのである。ところが、各人の職業その他の必要から、同じ戸籍に記載された者がかならずしも共同生活を営むわけではなく、また「本籍」を自由に選定できたので、戸籍とそれによって定まる「家」はきわめて形式化していった。しかも、この形式的な戸籍に入ることが「家」に入ることであり、同じ家にいるかどうかが、親権の有無、子の婚姻に対する親の同意権の有無、扶養義務の有無、相続の順位などに大きな関係をもったので、国民の間に戸籍に対する深い関心が生まれた。また、それと同時に「戸籍に入れる」「戸籍を抜く」など、かなり恣意(しい)的に戸籍を操作する気風を生じた。
第二次世界大戦後、民法改正に伴い、新戸籍法が制定された。民法改正によって「家」の制度は完全に廃止されたので、新戸籍法による戸籍はもはや「家」とはまったく関係なく、夫婦とその未婚の子を中心として、各人の身分関係を明らかにするものにすぎなくなった。便宜的に「氏(うじ)」の同じ者を同じ戸籍に記載しているだけであって、旧法のように同じ戸籍にいるかどうかによって、親族法・相続法上異なった取扱いを受けることはまったくなくなった。戸籍が別であっても(したがって氏が別であっても)、親子その他の親族関係が、戸籍が同じ場合と異なるわけではない。しかし、民法旧規定以来の戸籍に対する観念がまだ残っており、それが、同じ氏を称する者が同じ戸籍に記載されるという方法がとられていることと相まって、現在でもなお戸籍に対する国民の関心をかなりひきつけている。また、婚姻に際して、夫婦がそれぞれ従来の氏をもち続けるいわゆる夫婦別姓制度を選択的に認めるかどうか、現在(2020年)論議されている(夫婦別姓問題)が、この問題は、技術的・心理的に戸籍のあり方と密接に関連している。
ヨーロッパ諸国では、最初はキリスト教会に備え付けられた帳簿に、出生・婚姻・死亡などの事項別に登録することによって人の身分関係を公示していた。フランスは革命によって、国家がこの権限を教会から奪って、これを整備したが、その方法は教会のとってきたものと同じく、事項別の身分登録であった。ほかのヨーロッパ諸国も、だいたいこのフランスの身分登録制に倣って制度を設けた。しかし、この制度によると、出生・婚姻・死亡などをその生じた土地で別々に登録するので、人の一生を通じての身分変動を統一的に把握するのがきわめて困難であった。そこで各国ともその後、婚姻・死亡その他の登録があれば、その旨をその人の出生証書に付記するなどの方法によってこれを可能にするよう努力してきた。しかしそれだけでは、まだ兄弟関係や姻族関係などがわからないので、夫婦とその間の子とを一冊にまとめて、これにそれらの者の身分関係を記載した「家族手帳」というものが創設されるようになった。ヨーロッパでは、このように個人の事項別の身分登録から出発して、結局日本の戸籍に類似した制度に到達したわけである。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
各人の戸籍は、その本籍地の市区町村役場で作成され(戸籍法6条)、本籍の町名番地順につづられ「戸籍簿」として保管される(同法7条)。各戸籍は、一つの夫婦およびこれと氏を同じくする子ごとに一つの戸籍がつくられ、それ以外の者が同籍することはない(同氏同籍の原則)。同籍者の記載順序は、夫の氏を称する夫婦は夫を、妻の氏を称する夫婦は妻を筆頭に記載し、その次にその配偶者、さらに生年月日順に子が記載される(同法14条)。そしてそれぞれの戸籍では、本籍および筆頭者の氏名のほか、各人の氏名・生年月日、実父母の氏名およびそれとの続柄(つづきがら)、養父母の氏名およびその続柄などがそれぞれ所定欄に記入され(同法13条)、さらに出生、死亡、養子縁組、離縁、婚姻、離婚、その他の身分関係の変動に関する事項が記載される。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
現在の戸籍は夫婦とその未婚の子をもって編製されている。子が婚姻すると、その夫婦はいずれも従来の戸籍からは除かれ、新たに夫婦中心の戸籍が編製される(戸籍法16条)。また、婚姻していなくても、子をもった場合には、その親子のために新しい戸籍が編製される(同法17条)。したがって、3世代が同一の戸籍に記載されることはない。
父母の氏を称する子は父母の戸籍に、父または母の氏を称する子はそれぞれ父または母の戸籍に入る(同法18条)。子が父母のどちらかと氏を異にする場合には、子は家庭裁判所の許可を得て、氏を父または母と同じものに変えることができるが、そのようにして氏が変われば、同じ氏となった父または母の戸籍に入る。また、養子は養親の戸籍に入る。離婚の場合には、婚姻の際、氏を改めた夫または妻が、復籍すべき従前の戸籍があるときは、とくに新戸籍編製の申出をしない限り、それに復籍する(同法19条)。さらに成年者は自由に分籍して新戸籍を編製してもらうことができる。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
戸籍簿は、だれでも所定の手数料を納めれば、戸籍謄本・戸籍抄本の交付を請求することができる。ただし、本人またはその配偶者、直系尊属(父母、祖父母など)、直系卑属(子、孫など)が請求する場合、もしくは公務員、弁護士など、一定の職にある者が職務上請求する場合を除いては、請求の事由を明らかにしなければならない(戸籍法10条の2)。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
前記のような戸籍の作成やそれへの記載は各人からの届出に基づいてするのが原則である。そのため、戸籍法は各種の届出につき、届出人、届出地、届書の記載事項、届書の通数、添付書類などをそれぞれ定めている。なお出生届や死亡届のように届出期間を定めているものがあり、この種の届出は届出期間を過ぎてしまうと過料に処せられる。
各種の届出のうち出生届や死亡届は、すでに法律的な効果を生じている事実を報告するだけのものであるが、婚姻届や離婚届(養子縁組届・養子離縁届・認知届も同様である)は、届け出ることによって初めて法律的な効果を生ずるものである。だから、挙式して同棲(どうせい)しても婚姻届を出さなければ法律上の夫婦とはならず、単に内縁関係にとどまり、また事実上別れていても離婚届を出さなければ法律上は依然夫婦である。ただし、離婚・離縁・認知などが裁判で決まった場合には、その裁判の確定によってその効果が生じ、届出は報告的なものとなる。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
真実にあわない届出がなされて戸籍に記載されていても、法的効果は真実の関係によって定まる。しかし戸籍の記載はいちおうの推定力をもつから、真実に反すると主張する者はそのことを証明しなければならない。戸籍を訂正したいと思う場合には、関係者は家庭裁判所の許可を得たうえで戸籍訂正申請をし、その記載を訂正してもらうことができる(戸籍法113条以下)。ただし、往々みられるように、自分の子を他人の子として届け出た場合のように主要な身分関係の記載を訂正するには、単に許可を得るだけでなく、親子(しんし)関係不存在確認などの裁判を受けて戸籍訂正申請をすることが必要である。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
〔1〕戸籍のコンピュータ化
戸籍事務の適正化と迅速化を図る目的で、1994年(平成6)の戸籍法改正以来、戸籍のコンピュータ化が進められた。これは、戸籍を磁気ディスクまたはこれに類するものに記録し、それを蓄積したものをもって戸籍簿とするものである。戸籍謄本または戸籍抄本の請求があった場合には、磁気ディスクに収められた戸籍に記載された事項の全部または一部を証明した書面をもって戸籍の謄本または抄本にかわるものとする。この改正は、時代の流れに即応して記録の媒体を変更しようとするものであって、戸籍の編製の基本方針に変更はない。
〔2〕後見登記の発足
1999年(平成11)民法改正によって、従来の禁治産・準禁治産の制度は廃止され、成年後見制度がこれにかわった。それと同時に、公示方法としての戸籍への記載は廃止され、後見登記の制度が新設された(後見登記等に関する法律、平成11年法律第152号)。禁治産・準禁治産の戸籍への記載を「戸籍が汚れる」といって嫌う国民感情に配慮したものである。後見登記に関する「登記事項証明書」は、本人とその周辺の人たち(後見人、配偶者、4親等内の親族など)しか請求できない(後見登記法10条)。身分に関する事項のプライバシー保護の例であると同時に、事項別の身分登録の一例とみることもできる。
〔3〕戸籍副本データ管理システムの活用による新システムの構築
2013年(平成25)に東日本大震災での被災を契機に、戸籍副本データ管理システムが導入され、法務省において戸籍の副本を管理することとなった。これに対して、戸籍の原本は、各市区町村がそれぞれ管理しているものの、個人情報を含むため、まだ自治体間や年金事務所などとの間で戸籍情報の共有ができていない。そこで、2019年(令和1)5月24日成立の戸籍法の一部を改正する法律によって、法務省の戸籍副本データ管理システムをネットワーク化することとした(2024年運用開始予定)。具体的には、以下の3点が改正される。
(1)行政手続における戸籍謄抄本の添付省略(マイナンバー制度への参加)
改正前は、社会保障手続等において、身分関係の確認のために戸籍謄抄本の添付が必要であった。これに対して、改正後は、法務大臣が戸籍の副本に記録されている情報を利用して、親子関係その他の身分関係の存否を識別する情報等を戸籍関係情報として作成し、新システムに蓄積する(戸籍法121条の3)。そして、従来の戸籍謄抄本による戸籍の情報の証明手段に加え、マイナンバー制度のためにつくられた情報提供ネットワークシステムを通じて戸籍関係情報を確認する手段も提供可能にする。
(2)戸籍の届出における戸籍謄抄本の添付省略
改正前は、本籍地以外の各市区町村で戸籍の届出をする際に、身分関係の確認のために戸籍謄抄本の添付が必要とされていた。これに対して、改正後は、本籍地以外の市区町村において、新システムを利用して本籍地以外の市区町村のデータを参照できるようにし、戸籍の届出における戸籍謄抄本の添付を不要とする(同法118条、120条の4~8)。
(3)本籍地以外での戸籍謄抄本の発行
改正前は、戸籍謄抄本の請求は、本籍地市区町村に限られた。改正後は、自らや父母等の戸籍について、本籍地の市区町村以外の市区町村の窓口でも、戸籍謄抄本の請求を可能とする(同法120条の2)。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
人民と土地を戸籍によって掌握し、租税賦課の対象とすることによって国家の基礎を固めるという政治理念は、『論語』や『周礼(しゅらい)』の関係記事によって、古く紀元前の周代にその源流があると考えられていたが、1970年代後半の甲骨文や金文の研究によって、その推測どおり周代以降に戸籍制度が整備されていったことが明らかにされた。3~4世紀の晋(しん)代の戸籍=「戸口黄籍(ここうこうせき)」は長さ1尺2寸(30センチメートル強)の札が用いられ、官役の対象となる者の姓名が記されている。紙の発明と利用は漢代にまでさかのぼるが、晋代の書写材料の主流は依然として簡牘布帛(かんどくふはく)(竹札・木札・布・絹)であり、東晋・十六国時代になってやっと紙が一般に用いられるようになった。現存最古の戸籍は、晋が滅ぶ数年前の416年(建初12)の甘粛(かんしゅく/カンスー)省敦煌(とんこう)のもので、オーレル・スタイン探検隊によって発見されたものである。この戸籍は戸ごとに「敦煌郡敦煌県西宕郷高昌里・身分・戸主名・年齢」の表記で書き出し、以下家族を1人1行で列挙し、下方に男、女、丁(てい)(課役をあてられる者)、中別の人数内訳と合計を記すという書式によって作成されている。中国の戸籍制度は唐代にもっとも整備されたが、その基本はすでに隋(ずい)代に定まっていたといってよい。唐の戸籍制度では、戸籍は1郷ごとに1巻として3年ごとに3通ずつつくられ、それぞれ県と州と中央の尚書省戸部に送られて保管された。今日残っている中国の古代籍帳の大部分はこの唐代のものであるが、これによると、律令制度の変質に伴って戸籍の記載様式や内容も変化していったことが知られる。この時代の戸籍は戸口の籍と田宅の籍からなっており、戸口の籍では戸主と家族の姓名年齢、両者の続柄、男女および年齢による区分、妻・妾(しょう)・寡(か)の別、健康の度合いによる区分、身分、戸口の出生・死亡・逃亡などの異同、戸の等級と課戸・不課戸の別などが注記されている。田宅の籍では戸口に給すべき田地の総額、その已受(いじゅ)と未受の内訳、已受田については永業田(えいぎょうでん)・口分田(くぶんでん)・居住園宅などの別とその面積をあげている。戸籍は唐代以後もつくられたが、敦煌の宋(そう)代の戸籍によると、公課徴収の基準とされていたことがわかる。元(げん)代にも公課=「丁税(ていぜい)」のために戸籍がつくられ、明(みん)・清(しん)時代にも課税のために賦役黄冊(ふえきこうさつ)という戸籍に似た帳簿がつくられたり、人民を民・軍・匠(しょう)に区分した戸籍がつくられた。
[平田耿二]
日本における編戸・造籍の実施は、わが国に渡来した秦人(はたひと)を欽明(きんめい)天皇元年(540)8月に戸籍に編貫して7053戸を全国に安置したとする『日本書紀』の記事がもっとも早い例で、6世紀前半ごろのことと考えられる。欽明天皇30年(569)には王辰爾(おうじんに)の甥(おい)である胆津(いつ)が大和(やまと)朝廷の命によって吉備(きび)の白猪屯倉(しらいのみやけ)の田部の丁籍をつくっているから、造籍による人民支配の方式は、その後、渡来人の協力のもとに朝廷の直轄領において実施されたことが知られる。この編戸・造籍の制は、7世紀なかばの大化改新の際に全人民の地域的編成(行政村落の設置)と政治的編成(定姓)の手段として制定され、まもなく実行可能な地域から施行が開始された。そして、670年(天智天皇9)についに全国的な規模での造籍が完成し、この戸籍は全人民の掌握と定姓が実現した記念塔として、作製年の干支年をとって「庚午年籍(こうごねんじゃく)」と名づけられ、その後、氏姓を正すための根本台帳として永久保存される定めとなった。天武(てんむ)・持統(じとう)朝になって中国律令の継受による民政制度の整備が推進されたために、戸籍は定姓の機能と同時に課税の原簿の機能も果たす必要が生じ、690年(持統天皇4)に浄御原令(きよみはらりょう)に基づいた全国的な造籍が実施された。この戸籍は以後の戸籍にその内容を忠実に伝えていくものであったから、庚午年籍のように永久保存する必要はなかったが、律令による人民支配体制成立の記念塔であったため、令制下ではその干支年をとって「庚寅(こういん)年籍」と称して高く評価され、人々に記憶された。
701年(大宝1)に大宝令(たいほうりょう)が制定されて令制の戸籍制度は完成したが、それによると、造籍は6年に一度行われ、籍年の11月上旬より翌年の5月30日までに各3通をつくり、うち2通をその国の貢調使が期日(近国10月30日・中国11月30日、遠国(おんごく)12月30日)までに太政官(だいじょうかん)に提出し、1通は国にとどめる定めであった。太政官に提出された2通のうちの1通は中務(なかつかさ)省に保管されて天皇に供覧し、1通は民部省に送られて保管され施政の便に供された。なお戸籍は30年間(戸籍の作成周期6年を1比(ひ)とよぶが、戸令(こりょう)では通常の戸籍の保存期間を5比と制定)保存したあと順次廃棄処分され、律令行政文書などの紙背に利用された。現存する古代戸籍は27通で、内訳は8世紀のもの20通、9世紀と推定されるもの2通、10世紀のもの4通、11世紀初頭のもの1通である。
戸籍の記載様式・内容については、各時期それぞれ異なっているが、大きく分けると大宝令施行以前と以後とに分けて大過ないであろう。大宝令以前の浄御原令に基づいた戸籍としては、702年の美濃(みの)国(岐阜県)の諸戸籍があり、その記載様式は、戸ごとに「五保・三等戸・官勲位・戸主名・戸口総数・二行割書きによる戸口の男女奴婢(ぬひ)別と年齢区分(年秩(ねんちつ))による戸口集計」で書き出し、「九等戸・戸主名・二行割書きによる年齢と年秩」に続けて、1行3口の割で家族の姓名・年齢と続柄(つづきがら)を男・女・奴・婢の順に記載している。各戸の首部に後の計帳にみられるような課・不課別の口数を記載しているのは、浄御原令制下の戸籍が計帳の役割を果たしていたためである。大宝令によってつくられた戸籍としては、702年の西海道(さいかいどう)の諸戸籍があり、「戸主・官勲位・姓名・年齢・年秩・課戸(不課戸)」の表記で書き出し、以下1行1口の割で家族を続柄・年齢・年秩を付して列記し、末尾に課口・不課口別の小計とその戸の受田額を載せている。
律令の戸籍法は本貫(ほんがん)(本籍)主義であったため、本貫を固定しておくために里数も、50という戸数も増やすことができず、そのため戸内人口の漸増と血縁関係の複雑化を招いた。こうして戸籍が農民の実態からしだいに遊離してきたため、律令政府は715年(霊亀1)郷里制を施行して戸籍法を一部改定した。これによると、戸内に派生した独立家族を一戸として認定し、これまでの50の戸を郷戸(ごうこ)、郷戸内部で新たに独立を許された戸を房戸(ぼうこ)と名づけて公認し、もし房戸が他の地域に転居していた場合は、新たに制定された土断(どだん)法に基づいて、近隣の郷戸に入籍することとした。これによって里制施行当初と同様に、ふたたび農民の実態掌握と本貫主義の融合が可能となった。
しかし、このころから財政収入の重点が徭役(ようえき)労働からしだいに稲に移り始めたこともあって、740年(天平12)に戸籍によって個々の独立農民を直接掌握することを断念し、郷制を施行して郷里制を廃止し、ふたたび1里(郷)を50戸の郷戸だけで編成することとし、本家である郷戸主を貢租徴税の責任者とすることによって、戸内の2~4の分家(郷里制下の房戸にあたる)を統轄させた。
郷制施行以後、農民の課役忌避の動きはさらに活発となり、戸籍は偽籍化した。平安初期の行政改革によって戸籍制度も一度立ち直るかにみえたが、9世紀の中ごろから班田収授制がしだいに行われなくなると、農民は口分田を確保するために死亡者を除籍しなくなり、また課役忌避のため男子を女子と偽ったり、子供が生まれても口分田を班給される目途がたたないために入籍しなくなるなど、戸籍はほとんど高齢の女子によって占められるようになった。10世紀の初めに班田制が廃絶すると戸籍の意義が失われたため、戸籍は計帳の役割を果たすようになり、記載様式も計帳に近くなった。内容は相変らず偽籍性の強いものであったが、10世紀中ごろ以降は課丁を中心とする戸籍に変わっていき、男子はむしろ農民の実態に近いものとなったが、律令制の衰退により、11世紀に入るとほとんどつくられなくなったようである。なお、平安時代の戸籍としては、10世紀の阿波(あわ)(徳島県)、周防(すおう)(山口県)、讃岐(さぬき)(香川県)などのものが現存している。
鎌倉・室町時代は無戸籍の時代といわれているが、戦国大名のなかには富国強兵策の一つとして人別改(にんべつあらため)を行ったものもある。人別改は江戸時代になって各藩で実施され、人別帳(人畜改帳、家数人馬書上帳)がつくられるようになったが、1638年(寛永15)の島原の乱後、キリシタン禁圧のために設けられた宗門改制度がしだいに整備されてくると、これとあわせて宗門人別帳がつくられるようになった。宗門人別帳には、労働力の把握と宗門改のために戸主・家族・奉公人の名と年齢および所属寺院などが書かれたが、同時に村方から町方への人口移動を防止する目的をもち、封建時代の戸籍の役割を果たした。
幕末、萩(はぎ)藩では戸籍の制を設けたが、この制度が1868年(明治1)の山城(やましろ)国戸籍となり明治政府に受け継がれた。1871年の戸籍法は全国的に地域別の戸籍をつくることとし、そのために各地方を区に分かち、それぞれに正副戸長を置いて事務をとらせることにして、翌年2月実施された。この第1回につくられた戸籍(壬申(じんしん)戸籍)は、明治政府が作成した最初の全国的な戸籍として知られている。戸籍とともに戸籍表と職分表とが数か町村ごとにつくられたが、これは一種の国勢調査であった。1871年の制では古例により6年ごとに戸籍を作成することになっていたが、1873年にこの制は廃止された。1886年の内務省令および訓令によって戸籍法の充実が図られたが、1898年(明治31)には、民法とともにその付属法典として親族法上・相続法上の身分関係の記載を主目的とする戸籍法が施行されるに至った。もっとも、この戸籍法では西洋流の個人本位の身分登記簿についても定めたが、日本古来の家本位の戸籍簿と身分登記簿との併存は不必要な重複をもたらしたため、1914年(大正3)の改正で身分登記簿の制は廃止された。
[平田耿二]
『岸俊男著『日本古代籍帳の研究』(1973・塙書房)』▽『池田温著『中国古代籍帳研究』(1979・東京大学東洋文化研究所)』▽『沢田省三著『夫婦別氏論と戸籍問題』(1990・ぎょうせい)』▽『法務省民事局第二課戸籍実務研究会編著『くらしの相談室 戸籍Q&A――100の問に答える』(1990・有斐閣)』▽『榊原富士子著『女性と戸籍――夫婦別姓時代に向けて』(1992・明石書店)』▽『奥田安弘著『市民のための国籍法・戸籍法入門』(1997・明石書店)』▽『田代有嗣監修、高妻新著『体系・戸籍用語事典――法令・親族・戸籍実務・相続・旧法』改訂版(2001・日本加除出版)』▽『戸籍実務研究会編『新戸籍用語事典』(2002・六法出版社)』▽『比較家族史学会監修、利谷信義・鎌田浩・平松絋編『戸籍と身分登録』新装版(2005・早稲田大学出版部)』▽『高橋昌昭著『一目でわかる戸籍の各種届出』新版(2006・日本加除出版)』▽『福岡法務局戸籍実務研究会編『最新 戸籍の知識123問』(2011・日本加除出版)』▽『石原豊昭・國部徹・飯野たから著『戸籍のことならこの1冊』第4版(2017・自由国民社)』▽『法務省民事局・戸籍法の一部を改正する法律の概要 http://www.moj.go.jp/content/001295590.pdf』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
古くは「へのふみた」とも。律令制下,人民の登録のために作成された最も基本的な台帳。「籍」だけで戸籍を示すことも多い。戸籍は6年ごとに作成され,庚午年籍(こうごねんじゃく)は永久保存,その他は5比(30年)の間保存された。戸ごとに戸口の姓名・続柄・年齢などを記し,この記載は身分関係の基本となった。戸籍の主管部局は財政担当の民部省で,全国から戸籍各1通が送られたが,別に一揃いが民衆支配の象徴として,中務省を通じて天皇の御覧に供された。戸籍に関する諸規定は,おおむね戸令に定められている。正倉院文書に部分的に伝わる,702年(大宝2)の御野(美濃)・筑前・豊前各国戸籍,721年(養老5)下総国戸籍をはじめとする8世紀の戸籍が有名である。ほかに紙背文書のかたちで残された平安時代のものもある。明治期には,戸籍法にもとづいて近代的戸籍が作成されるようになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸時代には氏神を産土(うぶすな)神とする考え方が一般化し,氏子が産子(うぶこ)と呼ばれる傾向も出るが,民衆の離村移住を統制するため幕府はこの産子の原理を援用して出生地の神社に氏子身分を固定しようとした(《徳川禁令考》)。 明治維新後,政府は祭政一致の方針のもとに氏子制度を法制化し,これによって寺請(てらうけ)制度に代わるキリシタン禁制と戸籍の整備をはかるとともに国民教化の単位とした。すなわち1871年(明治4),太政官布告の〈郷社定則〉および〈大小神社氏子調規則〉は,同年制定の戸籍法にもとづく戸籍区(1区当り1000戸)ごとに置かれた郷社に区内全住民を氏子として登録せしめるものであった。…
…670年(天智9)庚午の年に作成された戸籍。戸籍は地域の住民を登録して課税するために,朝廷の直轄領では渡来人を使って6世紀から作成されていたといわれ,646年(大化2)の改新詔では全国を直轄領として全国的な戸籍を作成する方針をたてたようである。…
…その氏上の地位は,嫡系継承の適用外たることが継嗣令に規定されており,実際の例についてみても,族長的地位の継承はかなりに広い範囲での傍系継承である。また庶人については,戸籍に嫡子注記があり,次代の戸主には嫡子をあてるというのが当時の法解釈である。しかし,実際には戸主の地位は主として兄弟継承によったことが,戸籍の分析より明らかにされている。…
…戸籍簿および住民票の記載に際して用いられる,一定の者との関係を示す用語。日本の戸籍制度は,欧米の個人別身分証書制度(身分登録制度)と比べて,一定の人間を中心として,その人からの続柄をもって他の人をとらえられるという特徴をもっている。…
…税役と兵制を確保するには,丁男と中男をもれなく把握しなければならない。そのために丁中制とよばれる制度によって,年齢による成年,未成年の別を決めたのであり,その台帳にされたのが計帳と戸籍であった。計帳は,毎年,戸主から提出された手実という申告書に基づいていた。…
…中国,明代の戸籍簿,同時に租税台帳を兼ねた。単に黄冊ということも多い。…
…日本古代律令体制のもとでの本籍地離脱者をさす法律用語。当時の人々は戸籍・計帳に登録され,その本籍地(本貫)に居住せしめられたが,きびしい規制のもとでも,本籍地を離脱して流浪したり他所に居住したりする者があった。両者をあわせて〈浮逃〉とも略称される。…
…一般には〈戸籍の所在地〉と定義され,都道府県,市区町村,地番号または街区符号の番号で表示される(戸籍法6,13条。戸籍法施行規則3条)。…
…人の出生から死亡に至るまでの民事的な身分関係civil status(英語),l’état civil(フランス),Personenstand(ドイツ)を,国家等の公の機関がその管理する帳簿に登録し,一定の者からの請求に応じてそれを公的に証明する制度のこと。日本では,戸籍がこれに当たる。およそ社会あるところその構成員を把握する必要があるといえるが,その把握のしかたは国によって,また,時代によって異なる。…
※「戸籍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
[1864~1915]ドイツの精神医学者。クレペリンのもとで研究に従事。1906年、記憶障害に始まって認知機能が急速に低下し、発症から約10年で死亡に至った50代女性患者の症例を報告。クレペリンによっ...
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新