人が生まれてから死ぬまでの結婚、離婚、養子縁組などの動きや家族関係が登録され、公的な証明になる。市区町村が事務処理を担当し、国は助言や指導をする。氏名や生年月日、父や母の氏名と続き柄などが記され、「筆頭者」を最初に記載した家族単位で作成。戸籍の所在地である本籍地は、国内なら自由に変更できる。読み仮名に関する規定はないが、「よみかた」の記入欄がある出生届などに基づき、自治体は事実上読み仮名を把握している。
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「色葉字類抄」では「コセキ」のほかに「コジャク」とも読まれているが、近代以降はコセキで定着。
現行戸籍法(1947公布,48施行)による戸籍は,日本国民各個人の親族的身分関係(夫婦・親子の関係など)を公に証明するための公文書である。それはまた,国家が統治のために国民を把握するためのもっとも基本的な手段でもある。1871年(明治4)戸籍法から現行法に至る日本の近代的戸籍制度の歴史の中で,はじめは後者に重点があり,しだいに前者が強化されていったものの,この両者は,戸籍制度に期待された重要な機能であった。さらに,戸籍制度の制度的特質もまた,一貫して維持されている。すなわち,戸籍は,一定の人(戦前は戸主,現在は戸籍筆頭者)を中心とする一定範囲の親族を単位として編製され,各個人の親族的身分関係の発生,変更,消滅の記載は,原則として届出によってなされる。これらの点において戸籍制度は,欧米の身分登録(証書)制度が,原則として各個人について,それぞれ出生証書,婚姻証書,死亡証書などを作成し,かつ婚姻証書の作成については当事者自身の意思の申述を必要としているのと異なる。両者の原理の相違は,制度の背景をなす社会における個人のあり方の相違に基づく。しかし,一方では身分登録制度においても家族関係の表示が重視され,他方では戸籍制度においても個人の比重が高まっていることが示すように,両者の歩みよりが認められる。
→身分登録制度
(1)1871年の戸籍法 近代日本の戸籍制度の先駆は,1868年10月から11月にかけて,当時首都であった京都府において公布された戸籍法である。それは1825年(文政8)の長州藩の戸籍制度の流れをくむもので,市中戸籍仕法,郡中戸籍仕法,士籍法,卒籍法,社寺籍法の諸法から成る(1871年に華族籍法を追加)。民部官は,69年6月,この京都府の戸籍法を当時明治政府の直轄領であった府県全体に施行することを命じた。これに対して,府藩県全体を通じて,全国的に統一的な戸籍制度を確立したのが,71年4月4日の戸籍法(太政官布告)である。これは民部省(のち大蔵省をへて内務省)の管轄下にあり,前文,本文全33則,および各種書式(戸籍表式,職分表式,寄留人届書,戸籍書式)から成る。その特質は,中央集権的な戸籍事務機構をもって,全国民を〈戸〉において一元的に把握した点にある。すなわち,全国各地方を区に分け,区におかれた戸長・副戸長が戸籍事務を処理し,戸籍統計は中央政府に差し出すものとされた。戸籍簿は,京都府の戸籍法における族籍別の編製を排し,華士族平民の別なく屋敷に番号をつけ,番号順に編製した。各戸籍は,戸籍書式に基づき,戸主を中心として一定の規格をもって編製された。
この戸籍法は,原則として72年2月1日に施行された。その準備はただちに着手すべきものとされたが,実際の編製は,廃藩置県後の府県の作業による。このとき編製された戸籍を,この年の干支をとって〈壬申戸籍〉と呼んでいる。なお戸籍制度の確立により,1871年10月3日に従来の宗門人別改帳の制度が廃止された。1871年の戸籍法は,華士族平民の称を残しながらも,一応全国民の形式的平等を確立するという重要な政治的意義をもつとともに,全国民の把握による治安の維持,徴兵,徴税,教育,衛生など各種施策や統計作成の基礎資料の提供という行政上の意義を有し,新しい政権の基礎の確立に重要な役割を果たした。これに対して,フランス民法の身分証書制度を導入しようとしたのが73年6月の民法仮法則である。これは,江藤新平の指導下に進められた民法編纂事業の一つの成果であるが,ついに太政官のいれるところとならず,ここに戸籍制度の優位が確立した。しかし1871年の戸籍法は,規定および書式が不備であったため,〈戸〉の把握自体が不正確であり,またその後の人口移動にも対応できなかった。さらに当初予定された6年に1度の戸籍改製の廃止(1873年7月),いわゆる三新法(1878年7月)下における戸長に対する中央政府の統制力の弱化などが戸籍の不備を増大させた。これを強く批判したのは,戸籍に依拠して徴兵制度を運用していた陸軍であった。太政官はこれを受けて戸籍制度の実情を調査し,地方官の意見を参照して戸籍規則案を作成,82年7月,元老院に付議した。元老院はこれを戸籍法と改めて可決したが,これもついに実施されなかった。当時は紙幣整理期であり,財政上の理由によるものと推測されている。
戸籍制度の改革法が実現したのは86年であり,9月に出された二つの内務省令〈出生死去出入寄留者届方〉〈戸籍取扱手続〉と10月の内務省訓令〈戸籍登記書式〉から成り,12月から実施された。この改革法は,戸籍簿の記載様式の整備,登記目録の新設など記載手続の整備,除籍簿,戸籍簿副本の制度の新設,寄留制度の整備,府県庁による戸籍事務に関する監督の強化などを図るものであり,戸籍の記載の混乱,錯雑を防止し,その正確性を飛躍的に増大させ,親族的身分関係の公証制度としても十分なものとなった。この改革は,1886年の登記法が,近代的な不動産登記制度を実現したことと並ぶ重要な意義を有する。しかし,これらの改革法は,あくまでも1871年の戸籍法の補充にすぎない。そこで内務省は,90年10月に公布された民法(人事編,財産取得編後半)の補助法とするため,同年12月,第1回帝国議会に戸籍法案を提出した。これは,実質的には1886年の改革法による戸籍を,民法が予定する身分関係に関する帳簿にあてようとするものであった。しかしこれは,貴族院では91年2月に修正可決されたが,衆議院では否決された。ここには法典論争の影響が考えられる。結局1871年の戸籍法自体は,形骸化しながらも98年まで存続した。
(2)1898年の戸籍法 法典論争により,1890年民法(いわゆる旧民法)は施行が延期され,93年に設置された法典調査会が新たに民法を編纂した。その結果98年に公布・施行された民法(いわゆる明治民法)の親族編,相続編は,〈家〉制度を中心として構成されていた。〈家〉制度は,戸主権と家督相続を要素とするが,それは1871年の戸籍法の運用過程において,戸籍上の手続として積み重ねられてきた親族的身分関係の諸規制を,民法上の制度として再編成したものにほかならない。また,そのことによって戸籍法は,民法を支える親族的身分関係の公証制度としての性格をいっそう純化した。98年の戸籍法は明治民法とともに施行された。
その実質は,1886年の戸籍制度をよりいっそう整備したものであるが,原理的に重要な改革点は次の3点である。第1に,身分登記簿と戸籍簿が併用された。身分登記は,実質的には1886年の戸籍制度における登記目録であるが,個人の親族的身分関係そのものを公証する公文書である。戸籍は〈家〉を表示するものであり,身分登記に表示された身分関係の変化が,〈家〉の変化に結びつく場合には,身分登記に基づいて戸籍の記載の変更が行われる。戸籍における戸主と家族の記載順序は,1871年戸籍法と同じであるが,附籍の名称は廃され,〈戸主ノ親族ニ非サル者〉とされた。第2に,身分登記および戸籍の親族身分関係の公証機能に対応して,それを掌るものとして戸籍吏および戸籍役場がおかれ,その監督には,従来のように内務省ではなく司法省があたることとなった。しかしこれによって,身分登記と戸籍が,統治のために国民を把握するもっとも基本的な手段であることをやめたわけではない。戸籍吏と戸籍役場を兼ねた市町村長および市町村役場は,行政手段としてのこれらの運用にあたり,内務省の監督に服したのである。したがって,以上の2点の改革は,近代的な私法制度の確立の要求にこたえるという面が強い。第3に,従来行われていた戸籍の屋敷番号ないし戸番号による編製から地番編製主義への転化が行われた。戸籍の所在地である本籍と現実の居住の場所である住所とは,ここで判然と分離した。これは,現実の家屋および家族関係から戸籍を解放するものであり,一方では〈家〉の抽象的普遍性を保障し,〈家〉観念培養の基礎となるとともに,他方では戸籍の身分公証制度としての性格を強化するものであった。
(3)1914年の戸籍法と寄留法 近代的な私法制度確立の要求からする前述の二つの制度は,実務上は不便であった。14年に全面改正された戸籍法は,主としてこの不便を取り除くものであった。それはまず戸籍法上,戸籍吏,戸籍役場を廃止して,市町村長,市役所・町村役場が当然に戸籍事務を取り扱うものとした。また身分登記簿を廃止し,その内容をすべて戸籍簿に直接記載するものとした。それは,個人自身の同一性よりも,〈家〉との関係における出自,あるいは〈家〉における身分的地位を明らかにすることが,当時の日本社会では重要であったことからすれば当然である。さらに従来戸籍法の付則の中にあった届書に代署を許す規定が届出通則の中に規定されたことにも注目すべきである。この規定のしかたは,出生・死亡など事実を届け出る報告的届出ばかりでなく,婚姻・協議離婚などの新しい身分関係を作り出す創設的届出を含む,すべての届出に代署を許す可能性をもつ。届出制度は,元来当事者の意思の確認制度としては不十分であるが,代署の一般的許容は,その機能をますます低下させることになる。
この問題は,戦時体制の下で顕在化した。39年10月,司法省は創設的届出にも代署を認める通牒を発した。さらに40年3月には〈委託又ハ郵便ニ依ル戸籍届出ニ関スル法律〉が制定され,届出人の生存中に郵送した届書の死後における受理を認めるとともに,戦時,事変に際して戦闘その他の公務に従事した者が他人に届出を委託することを認めた。以上は,直接には,出征した軍人の内縁関係に法律上の婚姻する手段を与えるための戦時非常措置という意義をもつが,元来当事者の意思と直接的結びつきの弱い届出制度に内在する矛盾の現れでもある。もっとも届出の委託制度は戦後廃止された。
ところで,1914年の戸籍法とともに寄留法が制定された。戸籍の所在地である本籍以外の地に長期に居住する者を把握するための寄留の制度は,人口の移動が激しくなって寄留人口が増大すると,制度上の整備を要求される。1871年の戸籍法以来,戸籍制度の一部をなした寄留制度は,ここに独立の法律をもって規定されるに至った。しかし寄留制度もまた戦時体制の要求,とくに物資配給制度などのための住民の把握の要求にこたえることができなかったため,1940年ごろから多くの市区町村は世帯台帳を作成した。これが51年の住民登録法(1967年の住民基本台帳法により全面改正)の先駆となった。
敗戦後日本国憲法(1946年11月3日公布,47年5月3日施行)に基づく家族制度改革により,民法(親族編,相続編)が全面的に改正され,〈家〉制度は廃止された。これに対応して,現行の戸籍法が制定された(新民法,新戸籍法ともに1947年12月22日公布,48年1月1日施行)。
(1)戸籍法の内容 戸籍は,夫婦(あるいは父または母)およびこれと氏を同じくする未婚の子を単位として編製される(同一戸籍同一氏の原則)。戸籍には,本籍のほか,戸籍内の各人について,氏名,生年月日,戸籍に入った(入籍)原因と年月日,実父母の氏名と実父母との続柄,養子であるときは養父母の氏名と養父母との続柄,夫婦については夫または妻であること,他の戸籍から入った者についてはその戸籍の表示などが記載される。戸籍内の各人は,戸籍筆頭者(夫婦が夫の氏を称するときは夫,妻の氏を称するときは妻),配偶者,子(出生の順序)の順に配列される。戸籍の記載は,原則として届出によってなされる。届出は口頭でもできるが,実際には書面によることが多い。戸籍の記載が不適法あるいは無効であった場合には,家庭裁判所の許可・判決あるいは職権をもって訂正がなされる。子が婚姻すると,夫婦について新戸籍が編製されるし,子がこれと氏を同じくする実子または養子をもつに至ったときは,これらの者について新戸籍が編製される。また,子が成年に達すれば分籍することができる。さらに,戸籍筆頭者およびその配偶者は,届出によりその本籍を変更することができる(転籍)。以上のような戸籍法のしくみにより,戸籍は3世代にわたることはなく,ほぼ近代的な小家族を反映するものとなっている。しかしそれは,現実の家族関係と必ずしも一致するものではなく,また同一の戸籍に記載されているか否かは,扶養や相続など親族相続法上の法律効果に影響を及ぼさない。その意味では,旧法の戸籍より縮小したものの,戸籍筆頭者を中心とする氏共同体という内容をもつ親族的身分関係の公証制度となっている。
ところで,戸籍は本籍の表示する地番号もしくは街区符号の番号(住居番号)順,および戸籍筆頭者の氏の,あいうえお順につづられて戸籍簿とされ,正本は市(区)役所,町村役場に備えられ,副本は法務局で保存される。一戸籍内の全員が除かれた戸籍は戸籍簿から除かれて除籍簿につづられる。1976年の戸籍法改正は,プライバシー保護のために従来の戸籍公開の原則を改め,閲覧制度を廃止するとともに,戸籍あるいは除籍の謄本・抄本,戸籍あるいは除籍の記載事項に関する証明書の交付請求についても,本人とその近親,および一定の職にあるもの以外には一定の制限を加えるものとした。戸籍に関する事務は,本来国の行政事務であるが,市区町村長に委任され,法務局または地方法務局の長がこれを監督する。なお,戸籍には住民基本台帳法(住民票)に基づく戸籍の付票が付せられる。これは,戸籍の表示,氏名,住所,住所を定めた年月日を記載し,戸籍と住民票とを連結している。
(2)現行法の問題点 戸籍制度が個人単位でなく,かつ届出制度を採用していることが,種々の問題点を生じている。例えば,届出が当事者の意思の確認制度として不十分なことは,当事者の一方の意思に基づかない届出がなされる危険性を生み,とくに協議離婚届において著しい弊害を生じた。しかし,1952年の法務省の民事局長通達は,協議離婚届の受理のときに,当事者の一方に離婚の意思がない場合には,市区町村長は離婚届の不受理処分ができるものとした。その後,この取扱いはしだいに整備され,76年の民事局長通達〈離婚届等不受理申出の取扱いについて(先例変更)〉により,すべての創設的届出につき,当事者の一方があらかじめ届出の意思のないことを本籍地市区町村長に申し出れば,他方が提出した届出は受理されないこととなった。
また戸籍法が,国籍・戸籍一致の原則と同一戸籍同一氏の原則をとっていることから,いわゆる国際結婚をした人については,戸籍法が本来予定する,夫婦(あるいは父または母)およびこれと氏を同じくする未婚の子を単位として戸籍を編製するという原則が貫徹されていない。1984年5月公布(1985年1月施行)の〈国籍法及び戸籍法の一部を改正する法律〉により,父系優先主義から父母両系主義へ転換した国籍法とともに改正された戸籍法は,外国人と婚姻した人についても新戸籍を編製するものとし,かつ婚姻後6ヵ月以内はその氏を外国人配偶者の称する氏に変更する届出をすることを認めた。しかし,これも国籍・戸籍一致の原則と同一戸籍同一氏の原則をくつがえすものではない。
(3)戸籍のコンピューター化 法務省は1985年から戸籍事務のコンピューター化の本格的な研究を開始し,93年10月,法務大臣の諮問機関である民事行政審議会にその是非を諮問した。同審議会は94年1月,行政サービスの向上や戸籍事務処理の適正・迅速化に有効であり,データ保護やプライバシー保護にも十分配慮がなされているとして,これに賛成した。戸籍法および住民登録法の一部を改正する法律案は,第129回通常国会を通過し,94年12月1日から施行された。改正戸籍法は,〈第5章の2 電子情報処理組織による戸籍事務の取扱いに関する特例〉を加え,法務大臣の指定する市町村長は,法務省令の定めるところにより戸籍事務の全部または一部を電子情報処理組織によって取り扱うことができることとなった。もっとも,戸籍のコンピューター化は,戸籍の編製基準を変えるものではなく,基本的には現行戸籍をそのままコンピューター化するものとされている。したがってコンピューター化に伴い,戸籍情報は記録事項証明書(磁気ディスクをもって調製された戸籍または除かれた戸籍に記録されている事項の全部または一部を証明した書面)によって示されるが,現行戸籍制度の骨格は維持されている。しかし,記録事項証明書のうち,一部事項証明書は個人証書の性格を持つので,このような技術の発展が今後戸籍制度の根幹を変えていく可能性は否定できない。
→家族制度
執筆者:利谷 信義
古代律令制国家においては,人民を戸を単位として戸籍,計帳に登録し,口分田を班給して一定度の再生産を保証するとともに,移動の自由を制限し,京職や国,郡,里の行政機構を通じて田租や課役(調,庸,雑徭)などの徴収が行われた。戸籍はこの律令国家の人民支配を支える根本台帳であり,班田収授や貢租徴税の基礎帳簿であるとともに,氏姓の台帳としての意味をも持つものであった。
日本における戸籍の起源は少なくとも6世紀にまでさかのぼることができる。《日本書紀》の欽明紀には,百済系の渡来人である王辰爾の甥の胆津に吉備の白猪屯倉(しらいのみやけ)の田部の丁籍を検定させたことが見え,また秦人,漢人(あやひと)等の渡来人集団を国郡に安置し,戸籍に編貫したとも見えている。さらに〈飛鳥戸〉〈橘戸〉など,某戸の形をもつ姓が帰化系の人々に限られ,その本貫が8世紀以後においても河内の安宿,高安などの郡に集中している事実から,日本における編戸造籍制がこの地域に集住せしめられた朝鮮系渡来人集団に始まる可能性も指摘されている。おそらく日本における戸籍制度は,6世紀の前半ごろ,百済からの今来(いまき)の漢人たちによってもたらされ,新たな統治技術として,王権のもとに組織された渡来人集団や屯倉の民の支配に採用されたものであろう。戸籍は〈ヘノフムタ〉と訓(よ)まれるが,フムタ(札)はフミイタのつづまった形であり,当初の籍が木簡に書かれたものであったことを推定させる。しかし当時の編戸造籍は,渡来人や屯倉の田部など,族制的・地域的に限定された集団を対象とするものにすぎず,それが全国・全階層にわたって作成されるには律令国家の成立をまたねばならなかった。《日本書紀》によれば,蘇我本宗家の滅亡後,645年(大化1)8月に東国および倭の6県(あがた)に遣わされた使者に戸籍の作成が命ぜられ,翌年正月のいわゆる〈大化改新の詔〉にも〈初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造る〉とみえるが,652年(白雉3)の造籍の記事とともにその史料性には疑問があり,ただちにこれらをもって後の律令制的な戸籍制度の成立とみることはできない。その意味で最初の確実な造籍は670年(天智9)の庚午年籍(こうごねんじやく)であり,この戸籍はおそらく近江令の規定に基づき,全国的・全階層的規模で作成されたものである。続いて690年(持統4),飛鳥浄御原令に基づき庚寅年籍(こういんねんじやく)が作成されたが,この戸籍は良賤身分の確定,里制の実施などのうえで重要な意義をもったらしい。
大宝・養老令の規定によれば,戸籍は6年に1度作成され,造籍年の11月上旬より始めて翌年の5月末日までに作り終えることとなっていた。この点,唐の戸籍が3年1造であったのをちょうど倍の期間に延長しており,班田収授もまたこれに基づき6年ごとに行われた。戸籍は1里50戸ごとに1巻にまとめられ,同じものが3通作成されて1通は京職や国にとめられ,2通が太政官に申送された。そのうち1通は民部省に付されて行政の用にあてられ,今1通は天皇の閲覧に備える意味で中務省に保管されたのである。その保存期間は5比(30年)と定められ,つねに5回分の戸籍が保存されていたが,期限がくるごとに順次古いほうから廃棄された。ただし庚午年籍だけは氏姓の根本台帳として永世保存される定めであった。また一般公民の戸籍とは別に神戸,雑戸,陵戸などは特別籍が作成され,それらは先述の3通以外にさらに1通を写し,それぞれ所管の官司に送られることになっていた。戸籍ではないが,皇親や僧尼の名籍もまた別に作成された。
現存する戸籍の最古のものは702年(大宝2)の美濃(御野)と筑前,豊前,豊後の西海道諸国の戸籍であるが,これら以外にも721年(養老5)の下総国戸籍,785年(延暦4)以後のものとみられる常陸国戸籍などが東大寺正倉院に遺存している。それらを通じて各戸記載の内容を列挙すれば,戸の等級・課不課の別,戸口の集計,戸主姓名,戸口姓名と戸主もしくは他の戸口との続柄,各人の官職・位階・年齢,年齢による区分呼称,身体障害・疾病についての残疾・廃疾・篤疾の別,戸ごとの受田額などであるが,各戸籍はそれぞれが依拠した造籍式の相違によってその記載様式を異にしており,上記の諸事項がすべてどの戸籍にも記されているわけではない。また下総国戸籍は郷里制施行期間の戸籍であり,そこには郷戸・房戸の区別がみえている。庚寅年籍以後,原則として6年1造の規定は順守されたが,養老5年籍と天平12年籍のみは前籍の7年後に作成されており,それぞれ郷里制の施行と廃止の影響を受けたものと考えられている。上記の諸戸籍以外にも,902年(延喜2),908年,998年(長徳4),1004年(寛弘1)その他の平安時代の戸籍が遺存しているが,それらは女性・子供ばかりが多数記されているなど,奈良時代末以来の律令制の弛緩によってすでに戸籍としての実質を失い形骸化しており,やがて平安時代後期には戸籍の作成はまったく途絶するに至った。
執筆者:鎌田 元一
班田制が行われなくなり,人頭税としての調・庸が地税化するに伴い,その基礎となる台帳だった戸籍,計帳は実体がなくなっていく。しかし形骸化しつつもその作成は10世紀以後も続けられており,〈九条家本延喜式紙背文書〉には998年の某国戸籍,〈九条家冊子本中右記紙背文書〉にも1120年(保安1)と推定される摂津国大計帳が伝来している。〈陽明文庫所蔵兵範記仁安2年夏巻紙背文書〉の1164年(長寛2)6月,主計允惟宗忠行義絶状に〈舎兄行光幷びに彼子息等は,永く戸籍を除き,義絶せしむ〉とあり,また下って〈中臣祐賢記〉(《春日社記録》)建治3年(1277)3月7日条に,〈神人の女たりと雖も,平民に嫁し,別籍せしむるの時〉といわれているように,戸籍の観念はその後もまったくなくなったわけではない。しかし,11世紀後半以降に形成され,13世紀前半に確立する中世の土地制度と負担体系は,人頭税を欠如していたので,戸籍を本質的に必要としなかったから,どのように遅くみても13世紀には戸籍は消滅したとみられる。
これに代わるものとして,田畠とともに検注された在家の公式帳簿として,〈福智院文書〉の建長7年(1255)11月,春日社神人申状に,〈代々国前〉に明鏡な〈在家帳(ざいけちよう)〉といわれたように,平民百姓の在家を郷・保の単位ごとに記載,その数を集計したとみられる在家帳が国衙に備えられた。また,在家役をはじめとする課役を免除された供御人,神人などについては,別に供御人交名(くごにんきようみよう),神人(じにん)交名が作成され,国衙や寺社が保管した。さきの1277年の平民と神人との〈別籍〉は,あるいは,こうした帳簿を念頭に置いていたのかもしれない。鎌倉後期以降,家ごとの勧進に代わって賦課された棟別銭(むなべちせん)の台帳も,おそらく在家帳であったろう。このように中世においては,平民百姓や供御人・神人の在家は掌握されたが,その家族構成について支配者は無関心だったので,関連する帳簿はまったく作成されなかった。
執筆者:網野 善彦 近世については〈家数(いえかず)人馬改帳〉〈宗門人別改帳〉の項目を参照されたい。
領域内の全人民を戸籍に登録し,その生死増減を正確に知ることは,中央集権的な旧中国諸王朝の国家支配の根底をなし,そのうえに徴税や役務差発あるいは徴兵等の実施が可能となった。国制としての戸籍制度は戦国時代に王権の伸張に伴って明確な形をとるに至り,秦の献公10年(前375)に〈戸籍を為(つく)り相伍せしむ〉(《史記》秦本紀末付載〈秦記〉)とある記事に初見し,なお《周官》の諸官や《管子》等にも整備された戸籍制に言及する記事が多い。近年出土した湖北省の睡虎地秦墓竹簡の〈封診式〉には当代の戸籍のひな型が含まれ,秦・漢統一帝国は全国的に郡県郷里を通じてその編製を励行した。当時戸籍は竹木簡が用いられ,版,戸,名,籍等と呼ばれ,毎年8月に算人と称する全住民の会集実査まで行われ,それによって人頭税の徴収も可能となった。戦乱や災害により王朝権力が弱まると亡命(流亡)や脱籍が増加し,戸籍も形骸化を免れなかった。
〈晋令〉に郡,国の戸口黄籍は皆一尺二寸の札を用うと規定されるので,当代まで木簡の使用が知られるが,敦煌で発見された五胡時代の西涼建初12年(416)籍は紙巻に記され,紙の継ぎ目の裏に郡県郷里や年次を注記する書式であった。六朝時代には身分秩序が重視され,免役の特権をもつ士族の籍と庶民の籍の区別が強調されたが,新興階層は先祖にかかわる戸籍の注記を偽るなどして士族にまぎれこもうとし,それをチェックしようとする官憲との間にやかましい紛争を生じたほどであった。他方,華北から南遷した北人は僑郡県を設けて仮の籍(白籍)につけられたが,漸次土断政策を通じ土着者の黄籍に吸収された。5世紀末北魏で均田均賦制が発布され,人丁把握と給田・税役徴収の有機的連係が強まると,戸籍に公課や給田も併せ登載されるようになり,唐の均田・租庸調制の崩壊期にまで及んだ。隋・唐王朝で戸籍制度は最も整備され,毎年末,戸主の提出する手実をもとに里正らがそれをとりまとめ手実計帳を作り,3年ごとに州衙で戸籍を3通編造し,州と県に各1通保存するほか,1通を都の戸部へ送呈した。唐代の戸籍は敦煌とトゥルファン(吐魯番)から残巻が発見され,その実態を詳しく検討しうる。盛唐期の籍は紙質・文字といった外形はきわめて整っているが,記載の正確さや現実適応性は,敦煌の西魏計帳様文書に比して著しく劣り,女口の比率が過大な点のごとく,日本の平安朝初期の戸籍の様相と相似た特徴が注目される。
宋代には五等丁産簿の類が重視され,主戸と客戸の別が明記され続けたが,元代には戸の種類が多様化し類別された戸計が作られた。明代には10年ごとに110戸の里甲を通じて賦役黄冊が作られ,全国から都に申報された黄冊が南京の後湖の倉に百数十万冊積貯されるに至った。清初になると5年ごとに黄冊を作ったが,地丁併徴により必要性を減じ乾隆年間(1736-95)に廃止して,保甲による戸口簿を編するにとどまった。
執筆者:池田 温
朝鮮の戸籍は高麗時代から存在が確認される。高麗時代,庶民の戸籍は地方官が毎年作成し,税役・軍役を課すための基準とした。これに対し貴族の戸籍は3年に1度作成し,1通を官納,1通を家蔵としたが,とくに世系,族派,奴婢を詳しく記載し,血縁的身分的特権や奴婢所有権の証明書とした。戸籍のこれらの性格は李朝にも引き継がれた。李朝時代の戸籍作成実務は,王都内は漢城府尹の指揮監督下に五部の管領が,地方は守令(地方官)の指揮監督下に籍吏・面任,都監などが行い,調査補助のために五家統法(隣保制)が施行された。住民は身分に関係なく家並み順に居住地で入籍し,3年ごとの式年に戸口単子(戸別調査表)により申告した。郡県はこれをまとめて戸籍台帳とし,戸曹,漢城府,監営,郡県に保管した。戸口単子は調査ののち官印を押して証明し,住民に返還して戸籍謄本,身分証明書として所持させた。戸籍事務主管ははじめ戸曹,のち漢城府に移った。
李朝末期には1年ごとの新式戸籍が編製され(1896),日本の植民地時代には朝鮮民事令や朝鮮戸籍令(1922)によって戸主制を基軸とした戸籍が編製された。皇民化政策によって朝鮮民事令は数度の改変を経て〈家制度〉の強化が図られたが(創氏改名),夫婦別姓などの慣習は永く残り,解放後の韓国の戸籍では,夫婦別姓,本貫(祖先の出身地)の記載などがみられる。
執筆者:吉田 光男+鶴園 裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
個人の重要な身分関係を明確にする目的でつくられる文書。現在は戸籍法(昭和22年法律第224号)にその制度が定められている。明治初年に戸籍制度ができたときは警察的取締りの目的もあったが、その後は人の身分関係を公示することを目的とする制度になった。1898年(明治31)に施行された民法親族編・相続編は、「戸主」に家族構成員を支配統率する権限を認めた、いわゆる「家」の制度を中心に人の身分関係を規律した。同年制定された旧戸籍法は、この「家」の範囲を確定して公示する役割を負わされた。すなわち、一つの戸籍に記載された者が一つの「家」を構成することとされたのである。ところが、各人の職業その他の必要から、同じ戸籍に記載された者がかならずしも共同生活を営むわけではなく、また「本籍」を自由に選定できたので、戸籍とそれによって定まる「家」はきわめて形式化していった。しかも、この形式的な戸籍に入ることが「家」に入ることであり、同じ家にいるかどうかが、親権の有無、子の婚姻に対する親の同意権の有無、扶養義務の有無、相続の順位などに大きな関係をもったので、国民の間に戸籍に対する深い関心が生まれた。また、それと同時に「戸籍に入れる」「戸籍を抜く」など、かなり恣意(しい)的に戸籍を操作する気風を生じた。
第二次世界大戦後、民法改正に伴い、新戸籍法が制定された。民法改正によって「家」の制度は完全に廃止されたので、新戸籍法による戸籍はもはや「家」とはまったく関係なく、夫婦とその未婚の子を中心として、各人の身分関係を明らかにするものにすぎなくなった。便宜的に「氏(うじ)」の同じ者を同じ戸籍に記載しているだけであって、旧法のように同じ戸籍にいるかどうかによって、親族法・相続法上異なった取扱いを受けることはまったくなくなった。戸籍が別であっても(したがって氏が別であっても)、親子その他の親族関係が、戸籍が同じ場合と異なるわけではない。しかし、民法旧規定以来の戸籍に対する観念がまだ残っており、それが、同じ氏を称する者が同じ戸籍に記載されるという方法がとられていることと相まって、現在でもなお戸籍に対する国民の関心をかなりひきつけている。また、婚姻に際して、夫婦がそれぞれ従来の氏をもち続けるいわゆる夫婦別姓制度を選択的に認めるかどうか、現在(2020年)論議されている(夫婦別姓問題)が、この問題は、技術的・心理的に戸籍のあり方と密接に関連している。
ヨーロッパ諸国では、最初はキリスト教会に備え付けられた帳簿に、出生・婚姻・死亡などの事項別に登録することによって人の身分関係を公示していた。フランスは革命によって、国家がこの権限を教会から奪って、これを整備したが、その方法は教会のとってきたものと同じく、事項別の身分登録であった。ほかのヨーロッパ諸国も、だいたいこのフランスの身分登録制に倣って制度を設けた。しかし、この制度によると、出生・婚姻・死亡などをその生じた土地で別々に登録するので、人の一生を通じての身分変動を統一的に把握するのがきわめて困難であった。そこで各国ともその後、婚姻・死亡その他の登録があれば、その旨をその人の出生証書に付記するなどの方法によってこれを可能にするよう努力してきた。しかしそれだけでは、まだ兄弟関係や姻族関係などがわからないので、夫婦とその間の子とを一冊にまとめて、これにそれらの者の身分関係を記載した「家族手帳」というものが創設されるようになった。ヨーロッパでは、このように個人の事項別の身分登録から出発して、結局日本の戸籍に類似した制度に到達したわけである。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
各人の戸籍は、その本籍地の市区町村役場で作成され(戸籍法6条)、本籍の町名番地順につづられ「戸籍簿」として保管される(同法7条)。各戸籍は、一つの夫婦およびこれと氏を同じくする子ごとに一つの戸籍がつくられ、それ以外の者が同籍することはない(同氏同籍の原則)。同籍者の記載順序は、夫の氏を称する夫婦は夫を、妻の氏を称する夫婦は妻を筆頭に記載し、その次にその配偶者、さらに生年月日順に子が記載される(同法14条)。そしてそれぞれの戸籍では、本籍および筆頭者の氏名のほか、各人の氏名・生年月日、実父母の氏名およびそれとの続柄(つづきがら)、養父母の氏名およびその続柄などがそれぞれ所定欄に記入され(同法13条)、さらに出生、死亡、養子縁組、離縁、婚姻、離婚、その他の身分関係の変動に関する事項が記載される。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
現在の戸籍は夫婦とその未婚の子をもって編製されている。子が婚姻すると、その夫婦はいずれも従来の戸籍からは除かれ、新たに夫婦中心の戸籍が編製される(戸籍法16条)。また、婚姻していなくても、子をもった場合には、その親子のために新しい戸籍が編製される(同法17条)。したがって、3世代が同一の戸籍に記載されることはない。
父母の氏を称する子は父母の戸籍に、父または母の氏を称する子はそれぞれ父または母の戸籍に入る(同法18条)。子が父母のどちらかと氏を異にする場合には、子は家庭裁判所の許可を得て、氏を父または母と同じものに変えることができるが、そのようにして氏が変われば、同じ氏となった父または母の戸籍に入る。また、養子は養親の戸籍に入る。離婚の場合には、婚姻の際、氏を改めた夫または妻が、復籍すべき従前の戸籍があるときは、とくに新戸籍編製の申出をしない限り、それに復籍する(同法19条)。さらに成年者は自由に分籍して新戸籍を編製してもらうことができる。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
戸籍簿は、だれでも所定の手数料を納めれば、戸籍謄本・戸籍抄本の交付を請求することができる。ただし、本人またはその配偶者、直系尊属(父母、祖父母など)、直系卑属(子、孫など)が請求する場合、もしくは公務員、弁護士など、一定の職にある者が職務上請求する場合を除いては、請求の事由を明らかにしなければならない(戸籍法10条の2)。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
前記のような戸籍の作成やそれへの記載は各人からの届出に基づいてするのが原則である。そのため、戸籍法は各種の届出につき、届出人、届出地、届書の記載事項、届書の通数、添付書類などをそれぞれ定めている。なお出生届や死亡届のように届出期間を定めているものがあり、この種の届出は届出期間を過ぎてしまうと過料に処せられる。
各種の届出のうち出生届や死亡届は、すでに法律的な効果を生じている事実を報告するだけのものであるが、婚姻届や離婚届(養子縁組届・養子離縁届・認知届も同様である)は、届け出ることによって初めて法律的な効果を生ずるものである。だから、挙式して同棲(どうせい)しても婚姻届を出さなければ法律上の夫婦とはならず、単に内縁関係にとどまり、また事実上別れていても離婚届を出さなければ法律上は依然夫婦である。ただし、離婚・離縁・認知などが裁判で決まった場合には、その裁判の確定によってその効果が生じ、届出は報告的なものとなる。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
真実にあわない届出がなされて戸籍に記載されていても、法的効果は真実の関係によって定まる。しかし戸籍の記載はいちおうの推定力をもつから、真実に反すると主張する者はそのことを証明しなければならない。戸籍を訂正したいと思う場合には、関係者は家庭裁判所の許可を得たうえで戸籍訂正申請をし、その記載を訂正してもらうことができる(戸籍法113条以下)。ただし、往々みられるように、自分の子を他人の子として届け出た場合のように主要な身分関係の記載を訂正するには、単に許可を得るだけでなく、親子(しんし)関係不存在確認などの裁判を受けて戸籍訂正申請をすることが必要である。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
〔1〕戸籍のコンピュータ化
戸籍事務の適正化と迅速化を図る目的で、1994年(平成6)の戸籍法改正以来、戸籍のコンピュータ化が進められた。これは、戸籍を磁気ディスクまたはこれに類するものに記録し、それを蓄積したものをもって戸籍簿とするものである。戸籍謄本または戸籍抄本の請求があった場合には、磁気ディスクに収められた戸籍に記載された事項の全部または一部を証明した書面をもって戸籍の謄本または抄本にかわるものとする。この改正は、時代の流れに即応して記録の媒体を変更しようとするものであって、戸籍の編製の基本方針に変更はない。
〔2〕後見登記の発足
1999年(平成11)民法改正によって、従来の禁治産・準禁治産の制度は廃止され、成年後見制度がこれにかわった。それと同時に、公示方法としての戸籍への記載は廃止され、後見登記の制度が新設された(後見登記等に関する法律、平成11年法律第152号)。禁治産・準禁治産の戸籍への記載を「戸籍が汚れる」といって嫌う国民感情に配慮したものである。後見登記に関する「登記事項証明書」は、本人とその周辺の人たち(後見人、配偶者、4親等内の親族など)しか請求できない(後見登記法10条)。身分に関する事項のプライバシー保護の例であると同時に、事項別の身分登録の一例とみることもできる。
〔3〕戸籍副本データ管理システムの活用による新システムの構築
2013年(平成25)に東日本大震災での被災を契機に、戸籍副本データ管理システムが導入され、法務省において戸籍の副本を管理することとなった。これに対して、戸籍の原本は、各市区町村がそれぞれ管理しているものの、個人情報を含むため、まだ自治体間や年金事務所などとの間で戸籍情報の共有ができていない。そこで、2019年(令和1)5月24日成立の戸籍法の一部を改正する法律によって、法務省の戸籍副本データ管理システムをネットワーク化することとした(2024年運用開始予定)。具体的には、以下の3点が改正される。
(1)行政手続における戸籍謄抄本の添付省略(マイナンバー制度への参加)
改正前は、社会保障手続等において、身分関係の確認のために戸籍謄抄本の添付が必要であった。これに対して、改正後は、法務大臣が戸籍の副本に記録されている情報を利用して、親子関係その他の身分関係の存否を識別する情報等を戸籍関係情報として作成し、新システムに蓄積する(戸籍法121条の3)。そして、従来の戸籍謄抄本による戸籍の情報の証明手段に加え、マイナンバー制度のためにつくられた情報提供ネットワークシステムを通じて戸籍関係情報を確認する手段も提供可能にする。
(2)戸籍の届出における戸籍謄抄本の添付省略
改正前は、本籍地以外の各市区町村で戸籍の届出をする際に、身分関係の確認のために戸籍謄抄本の添付が必要とされていた。これに対して、改正後は、本籍地以外の市区町村において、新システムを利用して本籍地以外の市区町村のデータを参照できるようにし、戸籍の届出における戸籍謄抄本の添付を不要とする(同法118条、120条の4~8)。
(3)本籍地以外での戸籍謄抄本の発行
改正前は、戸籍謄抄本の請求は、本籍地市区町村に限られた。改正後は、自らや父母等の戸籍について、本籍地の市区町村以外の市区町村の窓口でも、戸籍謄抄本の請求を可能とする(同法120条の2)。
[高橋康之・野澤正充 2021年5月21日]
人民と土地を戸籍によって掌握し、租税賦課の対象とすることによって国家の基礎を固めるという政治理念は、『論語』や『周礼(しゅらい)』の関係記事によって、古く紀元前の周代にその源流があると考えられていたが、1970年代後半の甲骨文や金文の研究によって、その推測どおり周代以降に戸籍制度が整備されていったことが明らかにされた。3~4世紀の晋(しん)代の戸籍=「戸口黄籍(ここうこうせき)」は長さ1尺2寸(30センチメートル強)の札が用いられ、官役の対象となる者の姓名が記されている。紙の発明と利用は漢代にまでさかのぼるが、晋代の書写材料の主流は依然として簡牘布帛(かんどくふはく)(竹札・木札・布・絹)であり、東晋・十六国時代になってやっと紙が一般に用いられるようになった。現存最古の戸籍は、晋が滅ぶ数年前の416年(建初12)の甘粛(かんしゅく/カンスー)省敦煌(とんこう)のもので、オーレル・スタイン探検隊によって発見されたものである。この戸籍は戸ごとに「敦煌郡敦煌県西宕郷高昌里・身分・戸主名・年齢」の表記で書き出し、以下家族を1人1行で列挙し、下方に男、女、丁(てい)(課役をあてられる者)、中別の人数内訳と合計を記すという書式によって作成されている。中国の戸籍制度は唐代にもっとも整備されたが、その基本はすでに隋(ずい)代に定まっていたといってよい。唐の戸籍制度では、戸籍は1郷ごとに1巻として3年ごとに3通ずつつくられ、それぞれ県と州と中央の尚書省戸部に送られて保管された。今日残っている中国の古代籍帳の大部分はこの唐代のものであるが、これによると、律令制度の変質に伴って戸籍の記載様式や内容も変化していったことが知られる。この時代の戸籍は戸口の籍と田宅の籍からなっており、戸口の籍では戸主と家族の姓名年齢、両者の続柄、男女および年齢による区分、妻・妾(しょう)・寡(か)の別、健康の度合いによる区分、身分、戸口の出生・死亡・逃亡などの異同、戸の等級と課戸・不課戸の別などが注記されている。田宅の籍では戸口に給すべき田地の総額、その已受(いじゅ)と未受の内訳、已受田については永業田(えいぎょうでん)・口分田(くぶんでん)・居住園宅などの別とその面積をあげている。戸籍は唐代以後もつくられたが、敦煌の宋(そう)代の戸籍によると、公課徴収の基準とされていたことがわかる。元(げん)代にも公課=「丁税(ていぜい)」のために戸籍がつくられ、明(みん)・清(しん)時代にも課税のために賦役黄冊(ふえきこうさつ)という戸籍に似た帳簿がつくられたり、人民を民・軍・匠(しょう)に区分した戸籍がつくられた。
[平田耿二]
日本における編戸・造籍の実施は、わが国に渡来した秦人(はたひと)を欽明(きんめい)天皇元年(540)8月に戸籍に編貫して7053戸を全国に安置したとする『日本書紀』の記事がもっとも早い例で、6世紀前半ごろのことと考えられる。欽明天皇30年(569)には王辰爾(おうじんに)の甥(おい)である胆津(いつ)が大和(やまと)朝廷の命によって吉備(きび)の白猪屯倉(しらいのみやけ)の田部の丁籍をつくっているから、造籍による人民支配の方式は、その後、渡来人の協力のもとに朝廷の直轄領において実施されたことが知られる。この編戸・造籍の制は、7世紀なかばの大化改新の際に全人民の地域的編成(行政村落の設置)と政治的編成(定姓)の手段として制定され、まもなく実行可能な地域から施行が開始された。そして、670年(天智天皇9)についに全国的な規模での造籍が完成し、この戸籍は全人民の掌握と定姓が実現した記念塔として、作製年の干支年をとって「庚午年籍(こうごねんじゃく)」と名づけられ、その後、氏姓を正すための根本台帳として永久保存される定めとなった。天武(てんむ)・持統(じとう)朝になって中国律令の継受による民政制度の整備が推進されたために、戸籍は定姓の機能と同時に課税の原簿の機能も果たす必要が生じ、690年(持統天皇4)に浄御原令(きよみはらりょう)に基づいた全国的な造籍が実施された。この戸籍は以後の戸籍にその内容を忠実に伝えていくものであったから、庚午年籍のように永久保存する必要はなかったが、律令による人民支配体制成立の記念塔であったため、令制下ではその干支年をとって「庚寅(こういん)年籍」と称して高く評価され、人々に記憶された。
701年(大宝1)に大宝令(たいほうりょう)が制定されて令制の戸籍制度は完成したが、それによると、造籍は6年に一度行われ、籍年の11月上旬より翌年の5月30日までに各3通をつくり、うち2通をその国の貢調使が期日(近国10月30日・中国11月30日、遠国(おんごく)12月30日)までに太政官(だいじょうかん)に提出し、1通は国にとどめる定めであった。太政官に提出された2通のうちの1通は中務(なかつかさ)省に保管されて天皇に供覧し、1通は民部省に送られて保管され施政の便に供された。なお戸籍は30年間(戸籍の作成周期6年を1比(ひ)とよぶが、戸令(こりょう)では通常の戸籍の保存期間を5比と制定)保存したあと順次廃棄処分され、律令行政文書などの紙背に利用された。現存する古代戸籍は27通で、内訳は8世紀のもの20通、9世紀と推定されるもの2通、10世紀のもの4通、11世紀初頭のもの1通である。
戸籍の記載様式・内容については、各時期それぞれ異なっているが、大きく分けると大宝令施行以前と以後とに分けて大過ないであろう。大宝令以前の浄御原令に基づいた戸籍としては、702年の美濃(みの)国(岐阜県)の諸戸籍があり、その記載様式は、戸ごとに「五保・三等戸・官勲位・戸主名・戸口総数・二行割書きによる戸口の男女奴婢(ぬひ)別と年齢区分(年秩(ねんちつ))による戸口集計」で書き出し、「九等戸・戸主名・二行割書きによる年齢と年秩」に続けて、1行3口の割で家族の姓名・年齢と続柄(つづきがら)を男・女・奴・婢の順に記載している。各戸の首部に後の計帳にみられるような課・不課別の口数を記載しているのは、浄御原令制下の戸籍が計帳の役割を果たしていたためである。大宝令によってつくられた戸籍としては、702年の西海道(さいかいどう)の諸戸籍があり、「戸主・官勲位・姓名・年齢・年秩・課戸(不課戸)」の表記で書き出し、以下1行1口の割で家族を続柄・年齢・年秩を付して列記し、末尾に課口・不課口別の小計とその戸の受田額を載せている。
律令の戸籍法は本貫(ほんがん)(本籍)主義であったため、本貫を固定しておくために里数も、50という戸数も増やすことができず、そのため戸内人口の漸増と血縁関係の複雑化を招いた。こうして戸籍が農民の実態からしだいに遊離してきたため、律令政府は715年(霊亀1)郷里制を施行して戸籍法を一部改定した。これによると、戸内に派生した独立家族を一戸として認定し、これまでの50の戸を郷戸(ごうこ)、郷戸内部で新たに独立を許された戸を房戸(ぼうこ)と名づけて公認し、もし房戸が他の地域に転居していた場合は、新たに制定された土断(どだん)法に基づいて、近隣の郷戸に入籍することとした。これによって里制施行当初と同様に、ふたたび農民の実態掌握と本貫主義の融合が可能となった。
しかし、このころから財政収入の重点が徭役(ようえき)労働からしだいに稲に移り始めたこともあって、740年(天平12)に戸籍によって個々の独立農民を直接掌握することを断念し、郷制を施行して郷里制を廃止し、ふたたび1里(郷)を50戸の郷戸だけで編成することとし、本家である郷戸主を貢租徴税の責任者とすることによって、戸内の2~4の分家(郷里制下の房戸にあたる)を統轄させた。
郷制施行以後、農民の課役忌避の動きはさらに活発となり、戸籍は偽籍化した。平安初期の行政改革によって戸籍制度も一度立ち直るかにみえたが、9世紀の中ごろから班田収授制がしだいに行われなくなると、農民は口分田を確保するために死亡者を除籍しなくなり、また課役忌避のため男子を女子と偽ったり、子供が生まれても口分田を班給される目途がたたないために入籍しなくなるなど、戸籍はほとんど高齢の女子によって占められるようになった。10世紀の初めに班田制が廃絶すると戸籍の意義が失われたため、戸籍は計帳の役割を果たすようになり、記載様式も計帳に近くなった。内容は相変らず偽籍性の強いものであったが、10世紀中ごろ以降は課丁を中心とする戸籍に変わっていき、男子はむしろ農民の実態に近いものとなったが、律令制の衰退により、11世紀に入るとほとんどつくられなくなったようである。なお、平安時代の戸籍としては、10世紀の阿波(あわ)(徳島県)、周防(すおう)(山口県)、讃岐(さぬき)(香川県)などのものが現存している。
鎌倉・室町時代は無戸籍の時代といわれているが、戦国大名のなかには富国強兵策の一つとして人別改(にんべつあらため)を行ったものもある。人別改は江戸時代になって各藩で実施され、人別帳(人畜改帳、家数人馬書上帳)がつくられるようになったが、1638年(寛永15)の島原の乱後、キリシタン禁圧のために設けられた宗門改制度がしだいに整備されてくると、これとあわせて宗門人別帳がつくられるようになった。宗門人別帳には、労働力の把握と宗門改のために戸主・家族・奉公人の名と年齢および所属寺院などが書かれたが、同時に村方から町方への人口移動を防止する目的をもち、封建時代の戸籍の役割を果たした。
幕末、萩(はぎ)藩では戸籍の制を設けたが、この制度が1868年(明治1)の山城(やましろ)国戸籍となり明治政府に受け継がれた。1871年の戸籍法は全国的に地域別の戸籍をつくることとし、そのために各地方を区に分かち、それぞれに正副戸長を置いて事務をとらせることにして、翌年2月実施された。この第1回につくられた戸籍(壬申(じんしん)戸籍)は、明治政府が作成した最初の全国的な戸籍として知られている。戸籍とともに戸籍表と職分表とが数か町村ごとにつくられたが、これは一種の国勢調査であった。1871年の制では古例により6年ごとに戸籍を作成することになっていたが、1873年にこの制は廃止された。1886年の内務省令および訓令によって戸籍法の充実が図られたが、1898年(明治31)には、民法とともにその付属法典として親族法上・相続法上の身分関係の記載を主目的とする戸籍法が施行されるに至った。もっとも、この戸籍法では西洋流の個人本位の身分登記簿についても定めたが、日本古来の家本位の戸籍簿と身分登記簿との併存は不必要な重複をもたらしたため、1914年(大正3)の改正で身分登記簿の制は廃止された。
[平田耿二]
『岸俊男著『日本古代籍帳の研究』(1973・塙書房)』▽『池田温著『中国古代籍帳研究』(1979・東京大学東洋文化研究所)』▽『沢田省三著『夫婦別氏論と戸籍問題』(1990・ぎょうせい)』▽『法務省民事局第二課戸籍実務研究会編著『くらしの相談室 戸籍Q&A――100の問に答える』(1990・有斐閣)』▽『榊原富士子著『女性と戸籍――夫婦別姓時代に向けて』(1992・明石書店)』▽『奥田安弘著『市民のための国籍法・戸籍法入門』(1997・明石書店)』▽『田代有嗣監修、高妻新著『体系・戸籍用語事典――法令・親族・戸籍実務・相続・旧法』改訂版(2001・日本加除出版)』▽『戸籍実務研究会編『新戸籍用語事典』(2002・六法出版社)』▽『比較家族史学会監修、利谷信義・鎌田浩・平松絋編『戸籍と身分登録』新装版(2005・早稲田大学出版部)』▽『高橋昌昭著『一目でわかる戸籍の各種届出』新版(2006・日本加除出版)』▽『福岡法務局戸籍実務研究会編『最新 戸籍の知識123問』(2011・日本加除出版)』▽『石原豊昭・國部徹・飯野たから著『戸籍のことならこの1冊』第4版(2017・自由国民社)』▽『法務省民事局・戸籍法の一部を改正する法律の概要 http://www.moj.go.jp/content/001295590.pdf』
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古くは「へのふみた」とも。律令制下,人民の登録のために作成された最も基本的な台帳。「籍」だけで戸籍を示すことも多い。戸籍は6年ごとに作成され,庚午年籍(こうごねんじゃく)は永久保存,その他は5比(30年)の間保存された。戸ごとに戸口の姓名・続柄・年齢などを記し,この記載は身分関係の基本となった。戸籍の主管部局は財政担当の民部省で,全国から戸籍各1通が送られたが,別に一揃いが民衆支配の象徴として,中務省を通じて天皇の御覧に供された。戸籍に関する諸規定は,おおむね戸令に定められている。正倉院文書に部分的に伝わる,702年(大宝2)の御野(美濃)・筑前・豊前各国戸籍,721年(養老5)下総国戸籍をはじめとする8世紀の戸籍が有名である。ほかに紙背文書のかたちで残された平安時代のものもある。明治期には,戸籍法にもとづいて近代的戸籍が作成されるようになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸時代には氏神を産土(うぶすな)神とする考え方が一般化し,氏子が産子(うぶこ)と呼ばれる傾向も出るが,民衆の離村移住を統制するため幕府はこの産子の原理を援用して出生地の神社に氏子身分を固定しようとした(《徳川禁令考》)。 明治維新後,政府は祭政一致の方針のもとに氏子制度を法制化し,これによって寺請(てらうけ)制度に代わるキリシタン禁制と戸籍の整備をはかるとともに国民教化の単位とした。すなわち1871年(明治4),太政官布告の〈郷社定則〉および〈大小神社氏子調規則〉は,同年制定の戸籍法にもとづく戸籍区(1区当り1000戸)ごとに置かれた郷社に区内全住民を氏子として登録せしめるものであった。…
…670年(天智9)庚午の年に作成された戸籍。戸籍は地域の住民を登録して課税するために,朝廷の直轄領では渡来人を使って6世紀から作成されていたといわれ,646年(大化2)の改新詔では全国を直轄領として全国的な戸籍を作成する方針をたてたようである。…
…その氏上の地位は,嫡系継承の適用外たることが継嗣令に規定されており,実際の例についてみても,族長的地位の継承はかなりに広い範囲での傍系継承である。また庶人については,戸籍に嫡子注記があり,次代の戸主には嫡子をあてるというのが当時の法解釈である。しかし,実際には戸主の地位は主として兄弟継承によったことが,戸籍の分析より明らかにされている。…
…戸籍簿および住民票の記載に際して用いられる,一定の者との関係を示す用語。日本の戸籍制度は,欧米の個人別身分証書制度(身分登録制度)と比べて,一定の人間を中心として,その人からの続柄をもって他の人をとらえられるという特徴をもっている。…
…税役と兵制を確保するには,丁男と中男をもれなく把握しなければならない。そのために丁中制とよばれる制度によって,年齢による成年,未成年の別を決めたのであり,その台帳にされたのが計帳と戸籍であった。計帳は,毎年,戸主から提出された手実という申告書に基づいていた。…
…中国,明代の戸籍簿,同時に租税台帳を兼ねた。単に黄冊ということも多い。…
…日本古代律令体制のもとでの本籍地離脱者をさす法律用語。当時の人々は戸籍・計帳に登録され,その本籍地(本貫)に居住せしめられたが,きびしい規制のもとでも,本籍地を離脱して流浪したり他所に居住したりする者があった。両者をあわせて〈浮逃〉とも略称される。…
…一般には〈戸籍の所在地〉と定義され,都道府県,市区町村,地番号または街区符号の番号で表示される(戸籍法6,13条。戸籍法施行規則3条)。…
…人の出生から死亡に至るまでの民事的な身分関係civil status(英語),l’état civil(フランス),Personenstand(ドイツ)を,国家等の公の機関がその管理する帳簿に登録し,一定の者からの請求に応じてそれを公的に証明する制度のこと。日本では,戸籍がこれに当たる。およそ社会あるところその構成員を把握する必要があるといえるが,その把握のしかたは国によって,また,時代によって異なる。…
※「戸籍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一粒の種子をまけば万倍になって実るという意味から,種まき,貸付け,仕入れ,投資などを行えば利益が多いとされる日。正月は丑(うし),午(うま)の日,2月は寅(とら),酉(とり)の日というように月によって...
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