朝日日本歴史人物事典 「山内忠豊」の解説
山内忠豊
生年:慶長14.10.29(1609.11.25)
江戸前期の土佐国高知藩(高知市)藩主。土佐国生まれ。通称は幼名国松,のち伊右衛門。侍従に任ぜられる。父は忠義,母は徳川家康の養女名阿姫。明暦2(1656)年遺領20万2600石を継ぐ。先代忠義から引き続き野中兼山を登用し,その政策を続行した。しかし,強硬な施策であったため農民の不満を呼ぶ。これを利用した山内一門などの反兼山派の弾劾を受け,ついに「寛文の改替」と呼ばれる政変により,寛文3(1663)年兼山は失脚した。その後は忠豊親政のもとで,合議制による藩政を推進し,特に民力の休養を計った。忠豊は親孝行で,仁に篤い人であったという。
(小柴良介)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報