フランスの作曲家。フィレンツェに生まれたが,1646年以来フランスに住み,61年フランスに帰化。1653年ころルイ14世の宮廷に入り,まず踊り手として頭角を現す。次いで宮廷バレエの作曲家として認められ,61年国王の室内音楽隊総監督に任命され,宮廷の世俗音楽の支配権を握った。彼はおもに劇作品を作曲したが,とくに72年に王立音楽アカデミー,すなわちオペラ座の開設権を得てからは,詩人のP.キノーと組んでほぼ毎年1作,計16曲のオペラ(音楽悲劇ないしパストラル)を作曲,それによって事実上フランス・オペラの創始者,確立者となった。彼のオペラは,宮廷バレエを母体に,フランス古典悲劇やイタリア・オペラの諸要素を混合したものと解されるが,音楽的には,すでに当時から〈フランス趣味〉あるいは〈よき趣味〉の例として各種文献に引かれており,端正な古典主義的たたずまいを示しているとされる。オペラでは,《カドミュスとエルミオーヌ》(1673),《アルセスト》(1674),《アルミード》(1686)が,とくに著名である。彼の作品には,オペラのほかに,モリエールと組んだコメディ・バレエ《プルソニャック氏》(1669),《町人貴族》(1670),あるいはバンスラードIsaac de Benserade(1613ころ-91)と組んだ宮廷バレエ《ミューズの神々》(1666),《フロール》(1669)があるほか,国王の礼拝堂音楽隊のために作曲した大モテット《ミゼレレ》(1664?),《テ・デウム》(1677)などがある。
執筆者:内野 允子
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フランスの作曲家。フィレンツェに生まれ、1646年パリに移る。20歳ごろからルイ14世の宮廷に仕え、踊り手、器楽作曲家を経て、宮廷バレエの作曲家として活躍。国王の寵愛(ちょうあい)を受け、61年に王室の楽団総監督、同作曲家に就任、同年フランスに帰化した。64年以後モリエールと協力し、コメディ・バレエ(幕間などに多くのバレエを挿入した喜劇)を発表した。この分野の代表作は『町人貴族』(1670)である。リュリはオペラ劇場開設を企画、国王は彼に独占的上演権を与えた。リュリはフランス古典劇の抑揚を研究、フランス語に即したレチタティーボとアリアの区別のない声楽スタイルを用い、神話をおもな題材とした。プロローグと五幕からなるオペラを、73年以後86年まで作曲、上演した。これはフランス・バロック・オペラの基本スタイルとなった。また二群の合唱、管弦楽による壮麗な宗教音楽を王室礼拝堂のために作曲した。パリに没。
[美山良夫]
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…客席の天井画は,文化相マルローの発案で1964年シャガールが新しく描いたもの。1672年に勅許を独占するJ.B.リュリが,イタリア起源のオペラとフランスの宮廷で好まれたバレエを統合してフランス・オペラを確立して以来,代々のオペラ座は,グランド・オペラとバレエの二つの舞台表現においてフランスの公式の劇場であり続けたが,近年では1970年代に総支配人となったロルフ・リーベルマンの改革により,この劇場の黄金時代が出現した。【渡辺 守章】。…
…その後,オペラの発展とともに入念な構成と様式をもつようになった。17世紀後半,J.B.リュリは,緩―急―緩の3部分からなり,とくに緩の部分には符点音符を特徴とする荘重な書法を確立した。彼のバレエ曲《アルシディアーヌ》(1658)に初めて用いられたこの様式は,〈フランス風序曲〉とも呼ばれ,バロック時代を通して,序曲の一つの典型ともなった。…
…1683年ベルサイユ宮殿の宮廷作曲家ダニカン・フィリドールAndré Danican Philidor(1647ころ‐1730)は軍楽隊のために2組のティンパニだけの曲を書いている。オーケストラにティンパニを導入したのはリュリであった。ベートーベンはそれまでの主音,属音だけの使用を発展させ,減4度,短6度,オクターブ,2個のティンパニを同時に打たせる方法等を考え出した。…
…他方,近世に入ってからは,国家的慶事や戦勝祝賀のために,大規模かつ壮麗なスタイルで作曲されることが多い。このジャンルに属する作品には,ベルサイユの宮廷音楽総監督リュリがルイ14世の病気平癒を祝って作った曲(1677),ヘンデルがイギリス国王の戦勝を祝って作曲した《デッティンゲンのテ・デウム》(1743),ベルリオーズがパリ万国博覧会に際して発表した曲(1855初演),ブリテンが第2次世界大戦の終結を神に感謝して作った《フェスティバル・テ・デウム》(初演1945)などがある。なお特定の機会に結びつくものではないが,広く知られた曲に,ブルックナー(1884),ドボルジャーク(1892),ベルディ(1896)の作品がある。…
…およそ16世紀末から18世紀前半にかけての音楽をいう。この時代に活躍した音楽家の中では,J.S.バッハ,ヘンデル,ビバルディらの名が広く知られているが,彼らは後期バロックの巨匠であり,初期を代表するモンテベルディやフレスコバルディ,中期のリュリやコレリらも見落とすことができない。同時代の美術の場合と同じく,バロック音楽を社会的に支えたのは,ベルサイユの宮廷に典型を見る絶対主義の王制と,しだいに興隆する都市の市民層であった。…
…しかしこれらの構造体は,絶対王政をそこに同化しつつ,行政・経済・文化において支えていた町民階級の力が,自立を欲するまでに強大になれば,当然にその機能も同じではなくなるのであった。 1672年,J.B.リュリが〈王立音楽アカデミー〉の独占権の勅許を得,劇場における音楽とバレエが制度的に〈言葉の演劇〉から切り離され,80年にはブルゴーニュ座とモリエール亡き後のその劇団が勅命により合体されて〈コメディ・フランセーズ〉となり,三大作家を中心とする〈古典〉の上演を使命とするようになると,〈演劇(テアートル)〉という言葉が〈言葉の演劇〉を指す傾向は顕著になる。リュリのオペラ(P.キノー台本)などによるバレエ入りフランス・オペラの隆盛は,18世紀にはJ.P.ラモーへと引き継がれ,それに対する批判がルソーを理論家とする〈道化論争querelle des Bouffons〉となるが,これはすでに,のち1759年にサン・ジェルマンの市(いち)において初演される,モンシニーPierre Alexandre Monsigny(1729‐1817)の最初の〈オペラ・コミック〉(《軽はずみな告白》)を予告している。…
…宮廷バレエはアンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスの催した〈王妃のバレエ・コミック〉(1581)に端を発するとされ,王自身をも演舞者とするならわしがあった。ルイ14世のときリュリ,ボーシャンPierre Beauchamp(1636‐1705)らによって確立され,オペラ・バレエを経てやがてバレエの歴史をリードするフランス・バレエの光輝ある伝統を築くことになる。 一方,こうした宮廷芸術への反発が,たとえば枢機卿マザランにイタリア歌劇の招待上演を企てさせたが,フランスは同歌劇に隷属しない独自の悲歌劇を創りあげた唯一の国である。…
※「リュリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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