シャクシャイン

朝日日本歴史人物事典 「シャクシャイン」の解説

シャクシャイン

没年:寛文9.10.23(1669.11.16)
生年:生年不詳
江戸前期の蝦夷地の5大勢力のひとつメナシクル(東の衆)の首長和人史料では沙武者,しゃくしゃ,シャグセンなどと記す。シブチャリ(静内)を本拠とするメナシクルの「惣大将」(惣乙名)カモクタインの「家老」であったが,承応2(1653)年シュムクル(西の衆)の「惣大将」オニビシによってカモクタインが殺されたため「惣大将」となる。蝦夷地では寛永年間(1624~44)から商場知行制(松前藩家臣に知行として特定地域のアイヌ民族との独占的交易権を与える制度)を推進したため,アイヌ民族の間では漁猟をめぐる対立が頻発した。シャクシャインの属するメナシクルとシュムクルとでも対立が強まり,慶安1(1648)年メナシクルの「惣大将」センタイン死去を契機にシブチャリ川を軸として戦いが開始された。カモクタイン戦死直後松前藩が調停に入り,明暦1(1655)年松前城下で双方は和睦。このとき,オニビシ方は松前藩との結びつきを強めた。しかし松前藩が,寛文5(1665)年ごろより交易価格を大幅につりあげたため,6年以後本格的な対立となり,7年オニビシ方は首長を討たれ大敗した。 こののち,オニビシ方の後継者は松前藩に軍事的援助を求めたが一蹴され,帰途「疱瘡」で急死した。アイヌ民族にはこれが松前藩による毒殺と伝わった。シャクシャインは松前藩との戦いを決意し,アイヌ民族全体に参加を呼びかけた。松前藩による様々なしめつけが民族全体におよびはじめたからである。国縫をおとし松前へ攻め入る計画で,9年6月一斉に蜂起した。商船19隻を破壊,乗り合わせていた者273人(355人説もあり)を討ち取った。これに対抗し,松前藩では1000人余の兵力でシャクシャイン方に備える一方,事態を幕府に通報した。シャクシャイン自身は同年謀殺されるが,この戦いは,本州との直接交易再開を目的とするアイヌ民族と,対アイヌ民族交易体制確立をすすめる松前藩の戦いでもあった。<参考文献>海保嶺夫『史料と語る北海道歴史』『近世蝦夷地成立史の研究』,『津軽一統志』10(『新北海道史』7巻)

(海保洋子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シャクシャイン」の意味・わかりやすい解説

シャクシャイン

[生]?
[没]寛文9 (1669).10.23. 新冠
シベチャリ(染退。今日の北海道新ひだか町西・北部)のアイヌの首長。シャムクシャインなどとも呼ばれ,沙牟奢尹などと記される。寛文9(1669)年,近世最大のアイヌの蜂起であるシャクシャインの戦いを主導した。慶安1(1648)年,メナシクル(アイヌ語で東の人の意)のシベチャリの副首長であったとき,漁猟場をめぐる争いからシュムクル(西の人の意)のハエ(今日の日高町南部)のアイヌを殺害,これをきっかけに東西アイヌの対立が深まった。承応2(1653)年,シベチャリの首長カモクタインがハエの首長オニビシに殺されたため,シャクシャインが首長となった。明暦1(1655)年,蝦夷地を治めていた松前藩の調停によりオニビシと講和したが,寛文8(1668)年シャクシャインらがオニビシを奇襲して殺害。同 9年,シュムクル側は使者を通じ松前藩に援助を求めたが拒否され,この使者の死が松前藩による毒殺であるという風聞が伝わったことを機に,シャクシャインは松前藩との戦いをシュムクルに呼びかけた。当初はアイヌ内部の抗争であったものが,一挙に対松前藩の戦いへと展開し,同 9年6月,東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起,商船の船頭や鷹匠など和人 273人(355人などとする説もある)を殺害した。しかし鉄砲(→火縄銃)など軍事力でまさる松前藩の反撃によりアイヌの勢力は衰え,賠償とシャクシャインらの助命という条件で和議が設けられたが,シャクシャインは酒宴の席で松前藩側に殺された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「シャクシャイン」の解説

シャクシャイン

?~1669.10.23

シャクシャインの戦の中心人物。シベチャリ(現,北海道新ひだか町静内)の副首長(脇乙名(わきおとな))。1653年(承応2)首長(乙名)のカモクタインがハエ(現,北海道日高町門別)のオニビシに殺されたあと首長になる。68年(寛文8)オニビシを殺害。69年6月,松前藩に援助を求めたオニビシ側のウタフの死(松前藩による毒殺と噂された)を契機にアイヌの一斉蜂起をよびかけ,蝦夷地内の交易船や鷹待(たかまち)などの和人を襲撃。10月松前藩の和議の計略にかかり酒宴の席で殺された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「シャクシャイン」の解説

シャクシャイン

?-1669 17世紀中ごろのアイヌの指導者。
東蝦夷(えぞ)シブチャリ地域(北海道静内)の首長。1669年和人中心の交易政策をすすめる松前藩に抗して蜂起(ほうき),2ヵ月におよぶ全アイヌ民族的な戦い(シャクシャインの戦い)に発展。同年11月16日(寛文9年10月23日)和議成立の祝宴で謀殺された。名はシャムクシャインとも。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のシャクシャインの言及

【アイヌ】より

…交易場としての商場は多く領域としてのイオルに対応する形で設置されたことや,藩政初期には河川での砂金採収に大きな力を注いだこともあって,松前藩成立後,アイヌ民族は重大な民族的危機に遭遇することとなった。そのため早くも1643年(寛永20)西蝦夷地のセタナイでヘナウケの戦があり,69年(寛文9)には近世最大のアイヌ民族の反松前・反和人の戦いであるシャクシャインの戦をみた。シャクシャインの戦が敗北した後,松前藩のアイヌ民族に対する政治的支配が一段と強化された。…

【シャクシャインの戦】より

…1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現,静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現,門別町)地方のアイヌ(シュムクル(西の人の意)の一部)との漁猟圏をめぐる争いが続いていたが,1668年4月,ついにシブチャリ・アイヌの首長シャクシャインがハエ・アイヌの首長オニビシを刺殺するという事件に発展した。そのためオニビシ方のアイヌは藩庁に武器援助を要請したが,藩側に拒否されたうえ,使者のウタフが帰途疱瘡にかかり急死した。…

※「シャクシャイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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