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「万福寺」の意味・読み・例文・類語
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まんぷく‐じ【万福寺】
- [ 一 ] 京都府宇治市にある黄檗(おうばく)宗の大本山。山号は黄檗山。寛文元年(一六六一)創建。開山は隠元隆琦。建築様式は明の黄檗山万福寺に模し、法式・風習すべて明制を取り入れている。
- [ 二 ] 島根県益田市にある時宗の寺。山号は清龍山。もとは安福寺という天台宗の巨刹だったが、正和二年(一三一三)に呑海が改宗。応安七年(一三七四)七尾城主益田氏の菩提寺となって改称された。庭は雪舟作と伝えられ、国史跡・名勝に指定されている。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]勝沼町等々力
日川の右岸、等々力集落の北西にある。等力山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。推古天皇一二年三月、聖徳太子の命を受けた調子麿が益浦を伴って甲斐へ入国し、国司秦川勝の援助を得て建立したとされ、聖徳太子の旧跡を伝える。当寺に伝わる馬蹄石も太子が甲斐の黒駒に乗り富士山に登った伝説から生れたものという(勝沼町誌)。建久八年(一一九七)三月一五日源頼朝から等々力三ヵ郷が寄進されたと伝える(「源頼朝判物写」寺記)。往古は法相・天台・真言の三宗兼学の道場であったが(寺記)、安貞二年(一二二八)に親鸞が甲斐に遊化したおり、当寺の源誓坊覚信が弟子となり、寛元二年(一二四四)浄土真宗に改宗したという(「甲斐国志」など)。三世源誓坊光寂は元亨元年(一三二一)に一二坊を造立した(同書)。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]内浦町松波
松波川右岸にある。積宝山と号し、曹洞宗。本尊は如意輪観音。鳳至郡瑞穂の洞雲寺(現能都町)末であった。満福寺と称したが、明治二五年(一八九二)現本堂が完成した際に有栖川宮熾仁親王より万福寺の扁額を受け、万福寺に改めた。貞享二年寺社由緒書上によると、応安元年(一三六八)仏周の草創で、はじめ六貫山、つづいて駒渡にあったという。永和元年(一三七五)一二月二日の日野資教御教書(万福寺文書)に「満福寺号根本阿弥陀堂」とあり、先に日野家が寄進した若山庄内木郎郷松波に所在する水谷荒地一所と「三□権守田地」を安堵している。次いで一二月七日の日野資教御教書(同文書)によって資教は祖父資名・父時光・母の三者の菩提を弔うため、木郎郷足羽名内の田地を満福寺に寄進した。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]益田市東町
西流する益田川右岸にあり、清滝山と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。応安七年(一三七四)益田兼見が中須にあった安福寺を現在地に移し、自らの菩提寺として建立したといわれる。その時の造営棟札が残り、兼見は浄阿弥陀仏と名乗って造営大檀那となっている。また兼見は同年一一月二六日「道場万福寺」に益田郷内の田畠を寄進してその基礎を固め(万福寺文書)、一方、永徳三年(一三八三)八月一〇日の益田祥兼置文条々(益田家文書)では、「御道場之事、(中略)云本願云信仰、至于末代不可有退転、子孫等可守此趣」と定めている。鎌倉期の手法を残した南北朝期の建物として知られる本堂(附棟札七枚、国指定重要文化財)は、天正一四年(一五八六)八月一五日に益田元祥が大檀那、その父全鼎(藤兼)が後見の本願となって修復を行っている。この時期万福寺には一之寮と宝珠庵・西向軒の三つの塔頭があり、また東山道郷朝倉には末寺庄厳院があった(天正二〇年一月一三日「万福寺領覚書」万福寺文書、同日「万福寺一寮領坪付」・同年一月一五日「万福寺宝珠庵領坪付」妙義寺文書、慶長八年一〇月二八日「庄厳寺領付立」万福寺文書など)。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]赤穂市加里屋
江戸時代の城下町人町の南西部、侍屋敷地との境目に立地し、北西は浄土宗大蓮寺と接する。真宗大谷派、大島山と号し、播磨六坊の一。享保二年(一七一七)の寺院開基(田淵家文書)によると本尊阿弥陀如来木像は聖徳太子作と伝える。
万福寺由緒并系譜略記・万福寺明細帳(ともに寺蔵文書)によれば、暦応二年(一三三九)天台僧清範が本願寺三代覚如に帰依し浄土真宗僧(門徒)浄専となった。文安二年(一四四五)蓮如に帰依した数代のちの誓元が、命により下向して播州飾西郡阿賀村(現姫路市)で建立、略記の系図は中興開基とする。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]東洋町甲浦
西股の中ほど、町並裏手へ数十メートル石段を登った所にある。常賢山鍾馗院と号し、日蓮宗で本尊は十界大曼陀羅。天正一七年(一五八九)の甲浦地検帳によれば、当時は西股の西端船越の地にあり、最御崎寺(現室戸市)末の真言宗寺院であった。「南路志」によれば、その後退転していたのを、甲浦商人新屋平右衛門が日蓮宗として延宝七年(一六七九)に再興、近世後期に現在地に移転した。なお再建の勧進のため江戸に出て説法していた日琢は、仙台藩主伊達綱村の内室懐妊の由を聞き、男子安産の祈祷を行った。その甲斐あって扇千代を出生。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]砺波市苗加
宮川の北岸、苗加地区のほぼ中央にある。猪原山と号する単立寺院で、江戸時代には浄土真宗東方に属した。本尊は阿弥陀如来。貞享二年寺社由緒書上には明応三年(一四九四)に僧乗爾が開いたとある。寺院明細帳によれば、嘉応二年(一一七〇)三月白山麓の猪原(現岐阜県郡上郡白鳥町)に創建され、延文五年(一三六〇)三月に越中礪波郷苗鹿(現在の苗加)に移転したという。火災により記録等を焼失したため寺史は不詳。江戸時代には寺内に法縁寺・法性寺があった。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]美保関町森山 伊屋谷
伊屋谷川下流西岸にある。建抄山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。横田山城主秋上伊織介が尼子・毛利両氏の合戦の戦死者を慰霊するため、天正三年(一五七五)島根郡邑生村(現松江市)の清安寺三世盛山源興に頼み、激戦地権現山の北側寺床に開山したといわれる(郡村誌)。寛永三年(一六二六)諸堂ならびに古書などが残らず焼失し(「寺院明細帳」県立図書館蔵)、その後現在地に移されたと推測される。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]小野田市大字小野田
竜王山の東麓にある。曹洞宗。竜王山と号し、本尊は釈迦如来。
「注進案」によれば開基は高林院殿寂空清雲大禅定門といい、中世厚東郡(厚狭郡内)の有力者であった厚東武晴とされている。もと黒石(現宇部市)に創建されたが、当寺に帰依した厚東氏・大内氏の没落によって寺も衰退、無住の時期もあった。その後万治元年(一六五八)没の樹岳省忠を開山とし再興された。元禄七年(一六九四)中興二世大円日峰の時、現在地へ移転したという。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]三原市西町
大畑山の南に延びる丘陵六本山の南麓にあり、医王山薬師院と号し、真言宗泉涌寺派。本尊薬師如来。「三原志稿」によると、もと西野村の祈祷所で、西宮八幡宮(現三原八幡宮)の別当寺。かつては現在の宗光寺の地にあったが、小早川隆景が新高山城(跡地は現豊田郡本郷町)から宗光寺を移したとき寺地を譲って現在地に移転。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]玉造町羽生
天台宗、雷電山慈心院と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝では平重盛の家臣筑後守貞能が亡君の遺骨と守本尊の阿弥陀仏をもって下野国に住んだが、後に常陸国小松寺(現東茨城郡常北町)に移って仏門に入り、その後、平氏一族の行方二郎を頼り若海に来て草庵を営んだのが始まりで、寛正五年(一四六四)忠伝が堂宇を修築し、阿弥陀仏を安置して万福寺と号した。永正二年(一五〇五)芹沢に移ったが、元禄一〇年(一六九七)に徳川光圀の命で現在地に移ったという。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]三和町尾崎 下尾崎
飯沼新田東岸の台地上に所在。杉・檜の森に囲まれ、山門が東向きに建つ。生光山蓮花院と号し真言宗豊山派。本尊不動明王。享保期(一七一六―三六)の飯沼干拓との関係であろうか、寺内に享保年号の墓碑が多い。御用留(田辺家文書)に「寛政六歳甲寅ノ九月十七日ヨリ下尾崎万福寺ニて心学御講談同十八日迄、昼夜有之候。御名前広瀬玄養と云御人也。外御弟子御壱人、侍壱人。奉履番江田永蔵と云也。但其節組合村々、尾崎村四組、三菅谷村、粕礼新田、水海道新田、新宿新田、矢畑村新田、今宿新田、兵庫新田都合八ケ村ニて奉御請候。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]尾道市尾崎町
浄土寺山頂付近にあり、「満福寺」とも書き、通称嶺の薬師といい、浄土寺奥院。毛利氏八箇国御配置絵図(山口県文書館蔵)の文禄検地による記入に、嶺薬師六斗五升九合とある。正徳六年(一七一六)薬師堂建立記(「新修尾道市史」所収浄土寺文書)に、藩主浅野吉長により再建された由緒が記され、棟札の記録に、享保元年(一七一六)浅野吉長が本願大檀那となり再建したとある。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]知立市上重原町 本郷
本郷の西、碧海台地の端に位置する。林桂山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、弘仁六年(八一五)の創建と伝えられ、もと天台宗、末寺二〇〇余、地中七ヵ寺を有し、知立明神を守護神とした。貞永元年(一二三二)常政坊了誓が親鸞に帰依し、属寺二八支院とともに真宗に転じた。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]豊橋市嵩山町
寺の裏山に月ヶ谷城跡がある。月ヶ谷山と号し、臨済宗。本尊地蔵菩薩。正宗寺の末寺であった。貞和三年(一三四七)の創立という。天文二四年(一五五五)の戸田伝十郎宛今川義元宛行状(古簡雑載)に「参州吉田領月谷郷之事」として「右都合米銭共七拾貫文并陣僧相勤小庵弐ケ寺之事」とあるなかの寺院。
万福寺
まんぷくじ
[現在地名]出雲市東林木町
国道四三一号の北にあり、西に都我利神社がある。五穀山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。通称大寺薬師。推古天皇二年智春が創建し、天平一三年(七四一)行基が滞留し、薬師如来をはじめ多くの仏像を刻み、金堂(七間に一二間)・阿弥陀堂・釈迦堂・七重大塔・一切経蔵などを建て、諸仏を安置し護国の道場としたと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
万福寺 (まんぷくじ)
京都府宇治市にある黄檗(おうばく)宗の大本山。山号は黄檗山。開山は1654年(承応3)来日した明僧隠元隆琦(りゆうき)で61年(寛文1)に開創された。山号・寺名は隠元が来日する以前に住持した中国福建省福州府福清県にある黄檗山万福寺にちなむ。寺域は江戸幕府が後水尾天皇の生母中和門院(近衛前子)の別邸である大和田御殿を収公して与えたものであり,寺領は同じく近衛家領の五ヶ荘を収公し,63年そのうちの太和荘(大和田村)など計400石が下付されている。堂宇建立にあたっては将軍徳川家綱が白金2万両を施入したのをはじめ,酒井忠勝が金1000両,貿易商の長崎屋四郎右衛門が材木を寄進して,西方丈が1661年,法堂はその翌年におのおの竣工している。64年隠元についで第2世となった木庵性瑫(もくあんしようとう)が諸堂宇建立に力を尽くし,大雄宝殿(本堂),天王殿が68年に建立されている。第5世高泉性潡(こうせんしようとん)の時代に伽藍が完備され,チーク材による中国風の建築様式をもつ特色のある禅寺となると同時に,儀礼作法や言動,長髪長爪の様相に至るまでのすべてが中国の風習によった。第13世竺庵浄印までの歴代住持は中国からの渡来僧により継承され,その特色をよく保持した。第22世格宗浄超以後は日本僧が住持となり今日に至っている。第8世悦峰道章のとき,1708年(宝永5)には塔頭(たつちゆう)33宇を数え,45年(延享2)には33塔頭,897末寺を有した。1887年には18塔頭,577末寺となり,現在は18塔頭,462末寺を有し,専門道場(僧堂)を設けている。また塔頭宝蔵院には黄檗版一切経(鉄眼版大蔵経)版木4万8275枚(重要文化財)が所蔵されている。境内には財団法人青少年文化研修道場もある。また〈普茶料理〉と称する精進料理も伝えられ,それら禅や黄檗文化を求めて訪れる人は絶えない。
執筆者:竹貫 元勝
文化財
伽藍は西面して整然とした左右対称形の配置をとり,中軸線上に三門(1678),天王殿(1668),大雄宝殿(1668),法堂(1662)が並び,大雄宝殿の前庭を囲むように,南に鐘楼(1668),伽藍堂(1669),斎堂(1668)が,北に鼓楼(1668),祖師堂(1669),禅堂(1663)が配され(いずれも重要文化財),廊で結ばれる。主要な建物は床に塼(せん)を敷き,柱下に角型の礎盤(そばん)を入れ,窓や高欄には中国風の組子を使い,半円形の蛇腹天井を用い,屋根の棟飾をにぎやかにするなど中国明・清時代の様式を伝えており,黄檗様(おうばくよう)とよばれて江戸時代建築の中で異彩を放っている。また本尊釈迦如来座像をはじめとする寺内の諸仏は,隠元に招かれた仏師范道生(はんどうせい)によって制作されたもので,きわめて中国的色彩が強い。他に隠元,木庵など諸禅僧筆の額や聯(れん),絵画には《隠元和尚像》,池大雅筆《五百羅漢図》などの重要文化財がある。
→黄檗美術
執筆者:谷 直樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
万福寺(京都府)
まんぷくじ
京都府宇治市五ケ庄(ごかしょう)にある黄檗(おうばく)宗の大本山。山号は黄檗山。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1661年(寛文1)妙心寺の竜渓性潜(りゅうけいしょうせん)が、明(みん)より渡来した隠元隆琦(いんげんりゅうき)のため、徳川家綱(いえつな)らの莫大(ばくだい)な援助を得て堂宇を創建し、隠元が住持していた中国福建省福州府福清県の黄檗山万福寺の寺号をとって万福寺と称した。以来、将軍や諸大名の寄進により堂舎はしだいに増建され、黄檗宗の本山として寺門大いに繁栄した。代々中国からの渡来僧が住持となり、第14世竜統元棟(りゅうとうげんとう)、第17世祖源元明の2人を除いて第21世までこの風が続いた。山内の諸堂はすべて明の様式を模し、三門、天王殿、大雄宝殿、法堂(はっとう)が一直線上に並んで中核をなし、左右に諸堂を配する構成で、隠元、木庵性瑫(もくあんしょうとう)、高泉性潡(しょうとん)、即非如一(そくひにょいち)などの筆になる聯額(れんがく)50余が掲げられている。本尊釈迦如来坐像(ざぞう)および脇士阿難(きょうじあなん)・迦葉(かしょう)などの諸像は明人范道生(はんどうせい)によって制作されたもので、隠元画像とともに国重要文化財に指定されている。そのほか『西湖図』『虎渓(こけい)三笑図』(ともに国重要文化財)など池大雅(いけのたいが)の画跡も多い。また木庵の法嗣鉄眼道光(てつげんどうこう)が13年間を費やして完成した一切(いっさい)経(黄檗版)の版木(はんぎ)4万8275枚は、現在は塔頭(たっちゅう)宝蔵院に収蔵されている。当寺の伽藍(がらん)境内は黄檗様(よう)とよばれ、特異なものとして知られる。
[平井俊榮]
『『古寺巡礼 京都9 万福寺』(1977・淡交社)』
万福寺(島根県)
まんぷくじ
島根県益田(ますだ)市東町にある時宗(じしゅう)の寺。清滝山と号する。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。古くは益田市内の中須(なかす)にあった安福寺という天台宗の大寺であったが、大津波のため流失し、その後、1321年(元亨1)ごろ、4代目遊行上人(ゆぎょうしょうにん)春海(しゅんかい)がこの地を訪れて中興し、時宗寺院となった。1374年(文中3・応安7)に七尾(ななお)城主益田兼見(かねはる)が現在地に移して万福寺と改めた。鎌倉時代の様式を残す本堂、鎌倉末期ころ作の絹本着色『二河白道(にがびゃくどう)図』は国指定重要文化財。また雪舟作と伝える池泉回遊式の築山(つきやま)庭園は国指定名勝・史跡である。
[水谷 類]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
万福寺【まんぷくじ】
京都府宇治市にある黄檗(おうばく)宗大本山。明僧隠元を開山として1661年草創,黄檗宗の本拠として栄えた。明の様式をとり入れ,三門,天王殿,仏殿,法堂が中心線に並び,左右に諸堂が並ぶ独特の配置(黄檗様)をもつ。方丈の障壁画をはじめ池大雅の作品が多く,塔頭(たっちゅう)の宝蔵院は鉄眼版大蔵経版木を所蔵。
→関連項目宇治[市]|普茶料理
万福寺【まんぷくじ】
島根県益田(ますだ)市にある時宗の寺。1374年益田兼見(かねみ)が中須(なかす)にあった安福(あんぷく)寺を移して創建,菩提寺としたという。このとき建立された本堂,鎌倉期の絹本着色二河白道図は重要文化財。雪舟(せっしゅう)作という庭園は国指定史跡・名勝。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
万福寺
まんぷくじ
京都府宇治市五ケ庄にある黄檗(おうばく)宗の総本山。黄檗山と号す。中国福建省福州府の黄檗山万福寺を古黄檗とよぶのに対し,新黄檗と称する。将軍徳川家綱を開基,明の僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)を開山として1661年(寛文元)開創された。公武の厚い保護のもとに隆盛した。隠元以降13世まで中国僧を住持としたが,22世以後は日本僧が住持となった。唐音で行う読経や明朝風の日常会話・食事作法・伽藍配置などが現在も残る。大雄宝殿をはじめ主要建築は重文。境内塔頭(たっちゅう)は最盛期には33院を数え,「黄檗版一切経」を刊行した鉄眼道光(てつげんどうこう)の宝蔵院などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
万福寺〔島根県〕
島根県益田市東町にある寺院。時宗。山号は清滝山。本尊は阿弥陀如来。石見国中州浦(現在の益田市中須町付近)にあった天台宗の寺、安福寺が起源。1374年、現在地に移転し寺号を改めた。雪舟作と伝わる庭園は国の史跡・名勝、本堂は国の重要文化財に指定。
万福寺〔宮崎県〕
宮崎県東諸県郡国富町にある寺院。宗派は天台宗。熊の襲来を知らせて吠えた犬をうるさいと殺してしまった彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)が、その犬と熊を弔った地と伝えられる。山号は犬熊山(けんゆうざん)(「いぬくまやま」とも)。
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万福寺
まんぷくじ
京都府宇治市にある黄檗 (おうばく) 宗の大本山
1659年,明の僧隠元が創建。以後も中国僧が多く住み,日本の仏教界に寄与した。建築は明の禅寺にならったもので,黄檗様という。鉄眼道光の『黄檗版一切経』の版木を蔵す。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の万福寺の言及
【北上[市]】より
…パルプ,機械,電機,鉄工など工業団地の造成によって内陸工業都市の基盤を築きつつある。付近には桜並木の北上展勝地公園や立花の万福寺(毘沙門堂)にある二天王立像および毘沙門天像(ともに重要文化財),黒沢尻柵の国見山遺跡などの名勝,史跡が多い。鬼剣舞(おにけんばい)など県下の郷土芸能が披露される〈みちのく芸能まつり〉は,東北六大祭に指定され,郷土色の濃い夏祭として知られる。…
【黄檗山】より
…(1)中国の福建省福清県にある禅院。寺名を万福寺という。唐代盛期に正幹が開創し,希運が出家したことで知られる。…
【黄檗宗】より
…京都府宇治市に所在する黄檗山[万福寺]を本山とする禅宗の一派。宗祖は1654年(承応3)に来日した明僧の[隠元]隆琦で,万福寺は61年(寛文1)に開創され,ここに禅浄一致の宗風をもつ明朝禅が伝えられて大きく発展した。…
【黄檗美術】より
…崇福寺の第一峰門(1644),大雄宝殿(1646)がその代表的遺構であり,渡来工人による明代の寺院建築の意匠,彩色が強い異国風を感じさせる。黄檗寺院はさらに僧[隠元]が,幕府の庇護のもと,宇治の[万福寺]を創建(1661)したことにより,京都にも伝わった。これはかなり和様化されているが,伽藍配置など隠元の故国の福州万福寺にならってつくられたものであり,総門から山門,天王殿,仏殿,法堂を中心線上に配し,鐘楼,鼓楼,伽藍堂,祖師堂,斎堂,禅堂,東西方丈を左右相対的に配列し回廊で結んでいる。…
【禅宗】より
…臨済禅の伝来は,そうした中国近代文明の持続的な日本への伝来とともにあり,これを集大成するのが,黄檗山の開創である。 [黄檗宗]は,中国の福州黄檗山万福寺の住持,[隠元]隆琦が,江戸幕府の帰依で宇治に万福寺を開いたのに始まる。隠元隆琦は,中国では臨済宗楊岐派に属し,日本でも臨済正宗を名のるが,鎌倉以来すでに日本に来ている臨済禅が,宋・元時代のそれを伝えて完全に日本化しているのに比して,近世中国の風俗習慣を伴う隠元の臨済禅は,日本仏教徒にあらためて中国仏教の現実を見せつけることとなる。…
【普茶料理】より
…そして,それ以上に〈巻煎(ケンチエン)〉〈八宝菜(パポウツアイ)〉などと片言の中国語で料理を呼び,榻(とう)に腰掛け,卓(しよく)の上の大皿から料理をめいめい皿に取り分けて会食することが,彼らのハイカラ趣味を満足させたようである。現在では京都宇治の万福寺その他の黄檗宗寺院のほか,料理店の中にも普茶料理を称する店がある。一般的な菜単(さいたん)(献立)は,澄汁(すめ)(ランの花などを浮かべたすまし汁),麻腐(まふ)(ゴマ豆腐),雲片(うんぺん)(野菜いためのあん掛け),冷杯(ロンペイ)(あえ物,浸し物の類),笋羮(しゆんかん)(野菜,乾物などの炊合せ),油(ゆじ)(野菜などのてんぷら),素汁(そじゆう)(みそ汁),醃菜(イエンツアイ)(香の物),飯子(ハンツー)(飯)といったものである。…
※「万福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」