山地元治(読み)やまぢ・もとはる

朝日日本歴史人物事典 「山地元治」の解説

山地元治

没年:明治30.10.3(1897)
生年天保13.7.25(1842.8.30)
明治期の陸軍軍人土佐(高知)藩士山地元恒の長男。通称忠七。13歳のとき転倒して右目に竹頭が刺さり,多量の出血のあげく失明したが少しも動ぜず,その豪胆さに周囲の人々は度肝を抜かれたという。長じて山内容堂の側扈従に抜擢され,藩兵を率いて鳥羽伏見の戦や戊辰戦争に参戦,勇名をとどろかせた。西南戦争(1877)では別働第3旅団長として八代口に奮戦,股に貫通銃創を負いながらも西郷軍を撃破した。明治19(1886)年中将へ昇進,男爵。日清戦争(1894~95)では第1師団を率いて金州,旅順,大連を次々に攻略,子爵に進んだ。<参考文献>佐藤正『故陸軍中将山地元治君』,寺石正路『土佐偉人伝』

(山崎有恒)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山地元治」の解説

山地元治 やまじ-もとはる

1841-1897 幕末-明治時代武士,軍人。
天保(てんぽう)12年7月25日生まれ。土佐高知藩士。山内豊信(とよしげ)につかえ,戊辰(ぼしん)戦争に参加。陸軍にはいり,熊本・大阪鎮台司令官などを歴任。明治19年中将。日清(にっしん)戦争では第一師団長として金州,旅順を攻略した。明治30年10月3日死去。57歳。

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