天保の改革(読み)テンポウノカイカク

デジタル大辞泉 「天保の改革」の意味・読み・例文・類語

てんぽう‐の‐かいかく【天保の改革】

天保12~14年(1841~43)老中水野忠邦が行った幕府の政治・経済改革。倹約・風俗粛正を断行し、農村復興のための人返しの令、株仲間の解散、物価引き下げなどの諸改革を行った。また、江戸・大坂10里四方を天領としようとしたが、激しい反対にあい、忠邦は失脚した。

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精選版 日本国語大辞典 「天保の改革」の意味・読み・例文・類語

てんぽう【天保】 の 改革(かいかく)

  1. 天保年間(一八三〇‐四四)に行なわれた幕府、諸藩の政治改革。幕府の改革は、天保一二年(一八四一)老中水野忠邦によって着手。倹約、風俗粛正を断行して庶民生活を統制し、農民を農村にとどめるための人返しや株仲間の解散、物価値下げなどを行ない、江戸・大坂一〇里四方の上知令を発するなど幕府再建に努めたが、上知令はその対象となる大名・旗本の反対にあい、これを契機として忠邦は失脚して改革は中止された。諸藩の改革では長州・薩摩・土佐などが成功をおさめ、幕末政局に進出する経済的基盤を固めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天保の改革」の意味・わかりやすい解説

天保の改革
てんぽうのかいかく

江戸時代後期の天保年間(1830~44)に、幕府・諸藩によって行われた諸方面にわたる改革の総称。幕政の改革としては、享保(きょうほう)の改革、寛政(かんせい)の改革とともに三大改革の一つとされる。

津田秀夫

幕政の改革

19世紀初頭以来、全国各地の農村における商品生産の急速度の発展は、従来からの農民層の分解にいっそう拍車をかけ、関東農村の荒廃ももたらしていた。天保の大飢饉(だいききん)は、この構造のなかで空前の規模となった政災であり、続く大塩平八郎の乱、生田万(いくたよろず)の乱など都市下層民や農民の生存をかけた闘争とも相まって、封建社会の基礎を大きく揺るがし、幕府財政の窮迫をいよいよ深刻なものとした。一方、ヨーロッパ資本主義列強も「鎖国日本」の扉をますます激しくたたくに至り、「内憂」「外患」はここに極まった。

 1841年(天保12)閏(うるう)正月、大御所徳川家斉(いえなり)が没してようやく幕政を親裁することができた12代将軍家慶(いえよし)は、かねて信任していた老中首座水野忠邦(ただくに)に改革政治を推し進めさせた。改革が断行された直接的な期間は通常、同年5月から43年閏9月の水野退陣に至る2年半とされるが、いくつかの改革政治はその後も継承されている。この改革は家慶によって「享保・寛政の御政事向(ごせいじむき)に復する」ことが標榜(ひょうぼう)されてはいるものの、歴史上の意義のうえで、単なる封建反動とみなすことはできず、絶対主義的傾斜を含んだ改革というべきであろう。とくに、この改革を契機として、明治維新政権樹立運動に登場する諸勢力が社会的にも経済的にも出そろうことを見逃してはならない。また農民層分解、農村荒廃、百姓一揆(ひゃくしょういっき)の高揚などの内的矛盾を、列強進出による外的矛盾に対置しつつ、経済改革と軍事改革を一体化させた「富国強兵」のコースが打ち出された点も特徴的である。

 改革令のおもな内容を例示すると、(1)風俗矯正と倹約令、(2)低物価政策、(3)江戸における「人返し」令、(4)対外政策、(5)江戸、新潟湊(みなと)、大坂の最寄地(もよりち)を対象とした上知(あげち)令、などである。このうち、天保の改革を特徴づけているのは(2)(4)(5)である。まず(2)の低物価政策として、問屋・組合・株仲間の解散を命じた、いわゆる株仲間解散令(1841年12月令と翌年3月令)は、幕府の指定する市場において、広範な地域からの商品流通が円滑に行われることを目的として、従来からの特権的流通機構を解体したものである。また、これに伴って価格調査が行われ、価格表示、引下げなどの一連の処置が強制的に執行された。これらの施策は、農民的商品経済の進展と諸藩権力の雄藩化に対する幕府としての独自の改革的対応であった。また、水野退陣による改革の頓挫(とんざ)ののち、1851年(嘉永4)になって幕府が出した問屋・組合再興令も、むしろこの解散令の延長線上のものと解すべきであろう。すなわち、問屋再興令は、冥加金(みょうがきん)を賦課せず、再興にあたって株札を渡さず、人数も原則として定めないなど、天保の改革以前にあった株仲間――特権的流通機構――を復活させるようなものではなかったのであり、そのことによって、都市のみならず、農村地域でも商工業の組織化を図るという、改革以来の絶対主義的産業規制であると考えられる。したがって、こうした点からみれば、天保の改革全体を、単純に失敗に終わったとみることは正確でない。

 次に(4)の対外政策とは、1825年(文政8)に発した異国船打払令の撤回(1842.7)、緩和と、他方での江戸湾防備を中心とする海防政策――軍事的改革である。これはヨーロッパ資本主義列強のアジア侵略の一環としてのアヘン戦争が清(しん)国の敗北に終わったという情報や、イギリスが日本に対しても進攻計画をもっているとの情報が伝わったことなどによるものであるが、幕府としては、これらの外圧が国内の体制的矛盾と結び付くことをなによりも恐れて対処したものである。

 最後に、(5)の上知令(1843.6)は、豊饒(ほうじょう)な土地の幕領編入による貢租確保(とくに大坂周辺)、幕領・私領の複雑な入り組みの解消による人民統制、支配の強化(とくに江戸周辺)、港湾部の直轄支配による国土防衛策と運上徴収(とくに新潟湊)、などを直接的な目的としたものであり、全体として、政治的・経済的・軍事的課題の統一的追求により、幕府権力の富国強兵的強化を図ったものである。しかし、この改革は、年貢先納や調達銀借り上げなど負担が直接かかってきた農民や町人の激しい抵抗を受け(とくに大坂)、それを背景として有力諸藩が反対に回るに及んで、上知令は撤回された(1843・閏9)。この撤回は、三方(さんぽう)領地替の撤回(1841.7)に続くものであり、江戸・大坂の直轄都市周辺でさえ、封土の転換令が出せなかったことは、天保期の幕府権力が著しく凋落(ちょうらく)したことを表している。なお、この撤回令は水野が病気中に将軍家慶の名で出されたもので、その直後に水野は退陣を余儀なくされた。しかし、新潟の上知は実施され、発令によって新設された新潟奉行所(ぶぎょうしょ)を拠点に、直轄支配が幕末まで貫徹する。したがって、上知令全体が破綻(はたん)したととらえることも、水野の退陣をただちに上知令の撤回(江戸、大坂)のみと結び付けるのも正確ではない。水野の退陣の背後には、風俗矯正令や倹約令の徹底が民情を無視して厳しく行われたことに対する、町人・民衆反感が大きく働いていることを重視すべきであろう。そのため、退陣により改革の一部は頓挫するものの、改革政治の基本路線は後継幕閣によって継承されていくし、国際事情通であった水野自身が、外交問題を処理するため、1844年6月、再登場するのである。

[津田秀夫]

諸藩の改革

幕府の天保の改革と前後して、諸藩でも藩政改革が行われた。なかでも長州・薩摩(さつま)・土佐・肥前の各藩は天保の改革においていちおうの成功を収め、「西南雄藩」として幕末維新期の政局に主導的役割を果たすようになる。長州藩では、村田清風(せいふう)が銀8万貫を超える藩債を緊縮財政や積極的な塩田開発の事業収益などによって整理する一方、文政(ぶんせい)年間(1818~30)に徹底して行った専売制が領民の激しい抵抗を招いたためにそれを緩和する方向に政策を転換させ、越荷(こしに)方の改正などを行って藩政改革を成功させた。薩摩藩でも、500万両以上の藩債を抱えていたが、調所広郷(ずしょひろさと)は三都の債権者に対し250年賦償還という実質的踏み倒しで切り抜け、領内では三島産砂糖の惣(そう)買入れを押し付けて収奪を図り多くの利益をあげた。水戸藩でも、藩主徳川斉昭(なりあき)が土地問題(限田制)を提起して藩政改革を推進し、その成功を背景に幕末の政局に尊攘(そんじょう)藩として活躍した。なお、斉昭は、水野忠邦の幕政改革を支持し、水戸藩での経験を基に十数か条の改革意見書を忠邦に送っている。

[津田秀夫]

『津田秀夫著『封建社会解体過程研究序説』(1970・塙書房)』『津田秀夫著『天保の改革』(『日本の歴史22』1975・小学館)』『北島正元著『水野忠邦』(1969・吉川弘文館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天保の改革」の意味・わかりやすい解説

天保の改革
てんぽうのかいかく

江戸時代後期,天保年間 (1830~44) に行われた幕府,諸藩の政治改革。幕藩体制はこの時期に深刻な動揺をみせ,綱紀紊乱,財政の窮乏,武士の困窮,農村・都市生活の退廃など,多方面の政策転換を迫られていた。幕府は老中水野忠邦を首班として天保 12 (41) 年5月から改革に着手。享保,寛政の改革を目標とし,風俗矯正,質素倹約をはじめ生活全般にわたる統制を行い,農村人口を維持するため「人返し」政策をとった。また忠邦は株仲間を解散して物価の引下げをはかり,印旛沼 (いんばぬま) 開発 (→印旛沼干拓 ) などにも着手したが,大名や旗本の抵抗を受けた上知令 (→上知 ) によって失脚した。一方,西南雄藩の藩政改革は財政的な面で多くが成功し,明治維新の原動力となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「天保の改革」の解説

天保の改革
てんぽうのかいかく

江戸後期,天保年間に行われた幕政・藩政の改革。天保飢饉を直接の契機として,領主財政の逼迫(ひっぱく),農村の荒廃,百姓一揆の激発のほか,外国船の来航など領主支配の根底をゆるがす内憂外患にせまられ,為政者は体制維持のために政策転換を余儀なくされた。萩・鹿児島・高知藩などの西南雄藩では,領内の産業統制,財政再建,人材登用などの改革に成功し,幕末の政争に活躍できる体制を整えた。幕府では,大御所徳川家斉(いえなり)が死去した1841年(天保12)から,老中水野忠邦の主導により財政・経済の建直しと幕府の権威回復をめざして始められた。物価値下げを目的とした問屋・株仲間解散令,大坂町人への御用金の賦課,幕領農村の刷新を図った御料所改革,年貢増収と流通水路の確保をねらった印旛沼の干拓などをあいついで実施した。43年,江戸・大坂周辺の私領地を幕領に編入する上知令を発したが,関係大名の反対によって失敗し,水野は失脚,改革は中途で頓挫した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「天保の改革」の解説

天保の改革
てんぽうのかいかく

江戸末期,12代将軍徳川家慶の初世,老中水野忠邦 (ただくに) が行った幕政改革(1841〜43)
天保の飢饉が深刻化し,1837年には大塩平八郎の乱が発生するなど危機感の高まる中で,'41年改革を実施。物価騰貴で幕府財政は破綻し,農村分解で村内に世直し一揆などが発生,非常の対策が要求された。享保・寛政の両改革にならい,奢侈禁止,風俗粛正,出版物取締りを励行し,物価引下げ令,人返しの法を公布した。株仲間解散令で都市の特権商人を抑圧して商品生産の成果を掌握しようとし,上知令で天領を集中させようとするなど,絶対主義への動きを示したが効果なく,特に上知令は没収の対象となった大名・旗本の猛反対にあい実施できず忠邦失脚の原因となった。'43年忠邦は失脚し,幕府最後の大改革は失敗に終わった。この時期,藩政改革に成功をみた薩摩・長州・肥前藩などの西南雄藩が以後実力を伸ばした。

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防府市歴史用語集 「天保の改革」の解説

天保の改革

天保一揆[てんぽういっき]の後、村田清風[むらたせいふう]を指導者としてすすめられた藩政の改革です。

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世界大百科事典(旧版)内の天保の改革の言及

【天保改革】より

…江戸時代後期の天保年間(1830‐44)に行われた幕政改革,藩政改革の総称。領主財政の窮乏・破綻,天保の飢饉を契機とした物価騰貴,一揆の激発などの社会的動揺,外国船来航による対外的危機などを克服し,幕藩体制の維持存続を目ざして行われた。天保の幕政改革は,享保・寛政のそれとともに江戸の三大改革とも称される。
[幕政改革の開始と諸政策]
 天保初年の凶作飢饉は米価の高騰を招き,農村と都市の下層民を貧窮に陥れた。…

※「天保の改革」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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