日本大百科全書(ニッポニカ) 「関税自主権」の意味・わかりやすい解説
関税自主権
かんぜいじしゅけん
tariff autonomy
国家が自らの主権に基づき、自主的に関税制度を定め、運営する権利をいう。関税率は法律によって定められるのが原則で、これが国定関税率である。関税は普通、輸入品に対してある一定の率の税をかけ、自国産業の保護あるいは税収入の増加を図るもので、輸入品はその税率の分だけ価格が引き上げられることになり、市場競争力が損なわれる。このように関税は貿易相手国の利害関係に大きな影響を及ぼすため、今日では一方的あるいは自国本位に関税をかけることはむずかしい。とくに世界貿易機関=WTOなどの場で関税の引下げ、貿易の自由化が進められているため、相手国あるいは多数国間での協定で関税率が決められる場合が多い。これは、自国の主権のもとで協定が行われるのであるから、関税自主権を損なったことにはならない。しかし過去においては、先進資本主義国が植民地や後進国に対して一方的な条約によって低い関税率を強制し、関税自主権を制限、束縛してきた。後進国の対外政策の歴史が、一面では関税自主権の回復運動という形をとってきたのはこのためであり、その典型的な例が19世紀末から20世紀前半にかけての日本と中国とであった。
[秋山憲治]
日本
19世紀後半に開国した後進国日本は、1858年(安政5)の安政(あんせい)五か国条約で、相手国の同意なしには変更できない協定税率を受け入れたため、関税自主権を失った。さらに66年(慶応2)の江戸改税約書で、従価5%の関税率を強制され、日本は産業発展上多くの不利益を被ることとなった。このため明治以降、法権とともに税権の回復が条約改正問題の中心となった。歴代の外務大臣は、国民の願望と期待を背負って列強と交渉を試みた。政府はやがて法権回復に絞って交渉し、94年(明治27)外相陸奥宗光(むつむねみつ)は改正条約を締結、治外法権廃止、内地開放を実現した(99年施行)。残る関税自主権の回復は、日清(にっしん)・日露両戦争の勝利と産業資本の確立を踏まえて、1911年(明治44)外相小村寿太郎(じゅたろう)の努力によって実現した。
[加藤幸三郎]
中国
アヘン戦争後の1842年、南京(ナンキン)条約(基本条約第10条)において、中国は片務的協定関税率を定められ、58年の天津(てんしん)条約では1回の納税をもって諸課税にかえる通過税がつくられるとともに外国人管理の税関行政が始まり、さらに60年の北京(ペキン)条約、日清(にっしん)戦争、義和団の賠償に関税収入が担保とされるに至って、単に輸出入税率を決める自主権を喪失したばかりか、沿岸貿易税や関税行政などの自主権をも喪失するに至った。これに対して、不平等条約廃棄の運動が、義和団の乱、辛亥(しんがい)革命、パリ講和会議を機にして盛り上がってくると、北京政府なども関税自主権の回復を取り上げるようになり、ワシントン海軍軍縮会議で関税条約が結ばれ、1923年新改定率が決まった。しかし、これは実施をみず、四・一二上海(シャンハイ)クーデター(1927)以後の国民政府が各国と個別に条約を締結し、31年から中国の国定税率による輸出入税が採用されるようになったが、海関(税関)の管理には外国人を雇用していたため、完全な関税自主権の回復は49年の中華人民共和国成立以後のことといえる。
[加藤祐三]