ドイツの作曲家。音楽におけるロマン主義の代表的存在とされる。ザクセンの中小都市ツウィッカウに書籍商を父として生まれ,ライプチヒ大学,ハイデルベルク大学で初め法律を学んだ。のちに文筆活動によりイェーナ大学から博士号も得ているシューマンは,近代の知的教養人としての作曲家のタイプを代表する存在ともいえる。その創作活動は3期に分けて考えることができる。初期は20歳代で,音楽で身を立てる決心をしたシューマンは,法律の勉強を打ち切り,ライプチヒでピアノ教師ウィークFriedrich Wieckの弟子になり,作曲や評論にも取り組む。20歳代の後半は師の娘クララClara(1819-96)との愛を成就するための闘いの日々でもあった。クララは当時少女ピアニストとして全ヨーロッパ的名声を博しており,父ウィークはその将来のため結婚に反対したのだった。しかし二人は裁判の末,1840年に結婚。この期の作品は幻想の華麗な展開,内面の切実な吐露,夢と憧憬の抒情的世界への沈潜を特徴としており,ピアノ曲と歌曲に独自の境地を開いていった。ピアノ曲では《パピヨン》(1831),《謝肉祭》(1835),《幻想小曲集》(1837),《子どもの情景》(1838),《クライスレリアーナ》(1838),《幻想曲》(1838)など詩的な作品群のほか,ソナタや変奏曲など伝統的な形式にも新しい内容が盛られた。歌曲ではハイネ《詩人の恋》(1840),アイヒェンドルフ《リーダークライス》(1840),シャミッソー《女の愛と生涯》(1840)などロマン派詩人の作品に音楽をつけ,詩と音楽の高度の統一,ピアノ部分の充実など,シューベルトの遺産を受け継いで独自のロマン的様式を実現する。
中期は30歳代で,《交響曲第1番春》(1841),《第2番》(1846),《第3番ライン》(1850),1842年に続けて書き上げられた弦楽四重奏曲3曲とピアノ五重奏曲,ピアノ四重奏曲,47年の2曲のピアノ三重奏曲などの室内楽から,オラトリオ《楽園とペリ》(1843),オペラ《ゲノフェーファ》(1849)へと創作の幅を広げ,普遍的作曲家としての名声を確立する。歌曲でもドイツ的に深化された朗唱の様式が実現する。1844年妻クララの演奏旅行に従ってロシアまでの4ヵ月の旅をしたのち,極度の精神疲労に陥ったシューマンは,この年の末,医師の勧めに従ってドレスデンに移り,病は一度は克服された。
50年に市の音楽監督としてシューマンはデュッセルドルフに招かれた。以後が後期で,この期の作品は一般に普及度も低く,精神病進行に伴う創作力の低下をいわれることが多かった。しかし10年を費やした大作《ゲーテのファウストからの情景》(1853)をはじめとして,その意義は最近評価されつつある。《ピアノ三重奏曲第3番》(1851)やバイオリン作品(とくに1853年の協奏曲)の示す燃焼度は,ミサ曲(1853)やレクイエム(1852)等とともに,その個人様式の一貫した発展においてみるところ,世の評価をも超越した孤独の境地に独自の世界を実現している。
文学にも才能をもち,幼い頃から詩と音楽に等しく親しんだシューマンは,作曲家となってからも文学とのつながりが深く,広い意味での〈詩(ポエジー)〉はその音楽の本質的な源となっていた。つまり文芸の一形式としての詩の背後にあって,詩を詩たらしめるものから,シューマンは音楽家として想像力の生命を得ることに成功する。しかしこうして成立した音楽はあくまで音楽として自律自存している。いわゆる標題音楽と違って音楽が詩的なタイトルをもつことはあっても,それは暗示的に想像の一定領域を照らすにとどまる。これは器楽でも特に初期の天才的ピアノ曲などでいえることで,〈詩をはらんだ〉音楽作品としてピアノ音楽史上独自の境地を開拓している。交響曲でも《第1番春》《第3番ライン》の例が示すように,〈標題音楽の方向に挨拶をおくる〉(アインシュタイン)傾向はあるが(しかし作曲者はこういうタイトルはつけなかった),《第2番》,《第4番》(1851)が顕著に示すように,ベートーベン以来の正統的な道を離れず,その構造を清新な詩で満たすことに成功している。評論の筆をとっては,現在まで継続する雑誌《音楽新報Neue Zeitschrift für Musik》を1834年に創刊,清新で精力的な活動で〈新しき詩的な時代〉のために指導的な役割を果たす。シューマンはまた大作曲家の中で幼少年のための音楽に心を注ぐ存在として目だっている。《トロイメライ》を含むピアノ曲集《子どもの情景》をはじめ,《少年ピアノ曲集》(《楽しき農夫》ほか。1848),《少年歌曲集》(1849)など,数々の子どものための作品が書かれた。これはチャイコフスキーからグリーク,ドビュッシー,バルトークにまで影響を与えている。シューマンの音楽は生の一隅を幸せに満たす穏やかな性格のものでもあった。そしてその満たされた一隅に夢と憧れの小宇宙をひらき出すものでもあった。これはシューマン芸術を独特の温和さで内側から裏づける,本質的な特性ともなっている。
執筆者:前田 昭雄
フランスの政治家。第2次世界大戦後のヨーロッパ統合政策の推進者として知られる。大戦前よりキリスト教民主主義系の議員として,とくに財政問題にたずさわり,大戦後の1946年ビドー内閣の蔵相,47年と48年に首相となる。48年より53年まで外相をつとめ,ヨーロッパ統合を推進する。1950年ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の創設を提唱(シューマン・プラン),イギリスの反対にあうも,51年ヨーロッパ6ヵ国による同共同体条約を成立させる。またこの間,ヨーロッパ防衛共同体形成につとめ,52年,同条約は署名されたが,フランス国内で議会の反対にあい,批准はされなかった。53年1月外相辞任。しかし以後もヨーロッパ統合の運動で活動,58年ヨーロッパ議員総会議長(1960まで)となる。62年政界引退。著書に《ヨーロッパにむけて》がある。
→人民共和派
執筆者:加藤 晴康
アメリカの国際政治学者。シカゴに生まれる。シカゴ大学を卒業し,1927年母校の政治学講師(1932助教授),36年ウィリアムズ・カレッジ政治学教授となる。シューマンはナチズムの台頭を背景に,ベルサイユ体制崩壊の兆しを立法的処置によって現状維持しようとする国際政治に対して,権力的要因を重視する政治を説いた(《国際政治》1933,《大戦前夜のヨーロッパ》1939)。また,従来の欧米世界中心の国際政治に対し,ソビエトの政治実情を認識し,対ソ関係を友好的に維持することの重要性を主張した(《アメリカの対ソ政策史》1928,学位論文《ソビエトの政治》1946)。
執筆者:星野 昭吉
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フランスの政治家。第二次世界大戦後のヨーロッパ統合の立役者。独仏国境の小国ルクセンブルクに生まれる。ボン、ミュンヘン、ベルリン、ストラスブール各大学で法学を学んだ。第一次世界大戦終了までドイツ国民であった彼は、ロレーヌ地方のフランス帰属により1919年から1940年までフランスの下院議員を務め、第二次世界大戦では当初ドイツ軍に捕らえられたが脱走しフランスに逃れた。戦後は人民共和派(MRP)幹部として、1946年ビドー内閣の蔵相、1947~1948年首相を務めた。彼の最大の業績は、1948~1953年の5年間、数次の内閣の外相を歴任してヨーロッパ統合の口火を切った点にあり、1950年5月シューマン・プランとして知られるヨーロッパ石炭鉄鋼共同体創設を提唱し、1952年西欧6か国の間で発足させた。1952年には西ドイツ再軍備を認めたヨーロッパ防衛共同体条約を成立させるが、フランス議会が批准を拒否したため流産に終わった。1958年にはストラスブールのヨーロッパ議会の議長に選ばれ、ヨーロッパ統合の機構づくりに尽力し、1962年政界を引退した。数奇な前半生が彼を独仏和解の使徒たらしめた。ベルギー、ブリュッセルのヨーロッパ連合(EU)本部前の広場は、彼を記念してシューマン広場と名づけられている。
[平瀬徹也]
『R・シューマン著、上原和夫・杉辺利英訳『ヨーロッパ復興』(1964・朝日新聞社)』
ドイツの物理学者。ケムニッツの工業学校に学び、同地の機械工場の技師となった。1872年ごろから趣味で始めた写真に熱中し、当時まだ揺籃(ようらん)期にあった写真技術の研究に進んだ。1893年蛍光真空分光器を考案して初めて遠紫外線をとらえ、さらに特殊乾板「シューマン板」を開発してその研究を行い、分光学、原子物理学の開拓者の一人となった。1894年ハレ大学名誉学士、1910年ザクセン王立科学アカデミー会員となった。
[高橋智子]
ドイツのピアノ奏者、作曲家。著名なピアノ教師フリードリヒ・ウィークの長女で、ローベルト・シューマンの妻。ライプツィヒ生まれ。天才少女としてリストから激賞される腕前の持ち主であったが、1840年父の反対を押し切ってローベルトと結婚し、結婚後は一時活動を控えた。シューマンやショパンの解釈に優れたものをみせ、彼らの作品の普及に貢献したほか、シューマン没(1856)後は、ブラームスの作品紹介に尽力した。とくにシューマン、ブラームスの演奏解釈は、今日まで一つの規範となっている。ピアノ独奏曲など多くの作品があるが、シューマンの『〈愛の春〉からの12の詩』(1841)の第2、第4、第11曲は彼女の手になる。またシューマンの書簡編集(1885)とともに、作品全集の編集にも加わっている。ローベルトとの間に3男4女をもうけたが、いずれも先だたれ、晩年はフランクフルト音楽学校で教鞭(きょうべん)をとり、同地に没した。
[岩井宏之]
『原田光子著『クララ・シューマン――真実なる女性』(1976・ダヴィッド社)』
アメリカの作曲家。コロンビア大学卒業。作曲をR・ハリスに師事。1935~45年サラ・ローレンス・カレッジの音楽教師。45~62年ジュリアード音楽院長。61~69年ニューヨークのリンカーン・センター所長。大規模な管弦楽曲の作曲を得意とし、その作品には師ハリスとジャズのリズムの影響がみられる。主要作品に『アメリカ祝典序曲』(1939)、交響曲第3~第9番(1941~68)などがある。
[寺田由美子]
ドイツ、のちにアメリカのソプラノ歌手。メルゼブルク生まれ。生年には異説が多い。ベルリンなどで学び、1909年ハンブルクでデビュー。19年R・シュトラウスの招きでウィーン国立歌劇場の一員となり、モーツァルトなどのオペラで活躍、各地の歌劇場、音楽祭でも歌った。明澄な声、叙情的な表現とことばの明晰(めいせき)さの調和、優雅さをあわせもち、シューベルト、シューマンなどの歌曲の解釈でも高く評価された。38年渡米し、44年市民権を獲得。第二次世界大戦後はおもに教育活動に力を注いだ。
[美山良夫]
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1886~1963
フランスの政治家でヨーロッパ統合の推進者。1945年,キリスト教民主系の人民共和派に加わり,47~53年に首相と外相を務めた。ジャン・モネの思想に影響を受け,欧州建設のためのシューマン・プランを発表し,51年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の結成をみるが,ヨーロッパ防衛共同体(EDC)では苦杯をなめる。58年にはヨーロッパ議会の議長に選出され,晩年までヨーロッパ統合に尽力した。
1810~56
ドイツの初期ロマン主義の作曲家。音楽評論家としても活躍,ピアノ曲(「謝肉祭」「子供の情景」),歌曲(「女の愛と生涯」)に独創的なものが多いが,歌劇や四つの交響曲など広く作曲した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…すなわち,カーは国際政治における権力の問題を直視し,権力と道義,リアリティとユートピアとの対立を意識的にとりあげ,両者の妥協あるいは調和によって,国際問題を解決すべきであるとした。 F.L.シューマンは1920年代のアメリカに高まった国際問題への関心がもっぱら法や機関の設立にあったのに対し,ナチズムの台頭を背景におきながら,権力的要因を重視し,精神分析や社会経済的観点をとり入れながら,西欧型国際社会を人類史・文明史的に分析し,人類社会と主権国家との矛盾を指摘した(《国際政治International Politics》1933)。H.J.モーゲンソーはアメリカ国民の法律主義的・道徳主義的国際政治観に対し,権力政治に立脚した体系的な国際政治学を樹立した。…
…ECSCと略称する。当時のフランス外相R.シューマンが提唱者であったため,〈シューマン・プラン〉の名でも呼ばれる。ECSCのおもな機能は二つある。…
…第7番(従来の番号付では第8番)《未完成》(1822)と第8番(同じく第7番ないし第9番)《ザ・グレート》(1828)では,トロンボーンが定着し,規模も拡大されて,後のブルックナーを思わせるような息の長い呼吸が認められる。 その他,初期ロマン派交響曲では,メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と,1824‐42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか,1841‐51の4曲)が重要である。メンデルスゾーンは第3番《スコットランド》(1842),第4番《イタリア》(1833)をはじめ,標題音楽的な雰囲気と色彩豊かな管弦楽法を特徴とする。…
…シューマンのピアノ曲。作品15,1838年作。…
…謝肉祭には戸外での陽気な仮装行列がつきもので,この仮装行列は19世紀ロマン派の作曲家たちの想像力を刺激し,いくつもの名曲が生まれた。R.シューマンはピアノ曲《謝肉祭,4個の音符上の小さな情景》(1835)と《ウィーンの謝肉祭騒ぎ》(1840)を作曲。とくに有名な前者では,愛人の住む土地の名前と作曲者自身の姓の綴りから抽出したA,S,C,Hの文字を音名に読みかえて音楽のモティーフを作り,このモティーフから《前口上》《オイゼビウス》《フロレスタン》《ショパン》《休息》《ペリシテ人と戦うダビド同盟の行進》など21の小曲を紡ぎ出す。…
…ゲーテの作品からいくつかのエピソードを結び合わせたもので,比類ない管弦楽技法で幻想的情景をみごとに描いている。(b)シューマンの独唱・合唱・管弦楽のための《ゲーテのファウストからの情景》(1853)。10年の歳月をかけた,序曲と3部からなる作品。…
…同年バイオリンの大家J.ヨアヒムを知る。そして同年秋デュッセルドルフにシューマン夫妻を訪ねる。R.シューマンはブラームスの作品とピアノ演奏に深い感銘をうけ,雑誌《音楽新時報》に《新しい道》と題する評論を草して彼を世に紹介し,さらにシューマンの推薦により彼の最初期のピアノ・ソナタ,歌曲集などが出版された。…
…世紀後半には他の諸国の貢献も強まる。おもな大作曲家を挙げれば,ベートーベンとシューベルトを視野におさめながら,C.M.vonウェーバー,メンデルスゾーン,シューマン,ショパン,ベルリオーズ,リスト,R.ワーグナーらが代表的存在である。ベートーベンとシューベルトはロマン的要素を有しながら,全体としては古典派に入れられる。…
※「シューマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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