海峡問題(読み)かいきょうもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「海峡問題」の意味・わかりやすい解説

海峡問題
かいきょうもんだい

海峡とは、両岸対峙(たいじ)した狭い水域で、公海と公海を結ぶ水路をいう。両岸が同一の国家に囲まれ、その入口が領海の幅の2倍を超えない海峡は、原則として沿岸国の領海とされる。しかし、その海峡が、国際交通のために重要な通路をなす場合、条約または慣習法上、国際海峡として各国の船舶の自由な通航が保障される。海峡問題が国際的に確立するのは、第一次世界大戦後、1923年にトルコと連合国との平和条約(ローザンヌ条約)が結ばれ、地中海と黒海とを結ぶボスポラス海峡およびダーダネルス海峡の自由航行が問題とされてからである。

[經塚作太郎]

国際海峡制度の歴史

ボスポラス、ダーダネルス海峡は、両岸がトルコ領で、海峡の幅が、広い所でも3.8海里(約7キロメートル)の狭い水路である。1453年、トルコが黒海全域を自国の領海であると主張して以来、ヨーロッパ諸国によるこの海峡の通過の自由が問題とされてきた。古くは、1805年9月のロシア・トルコ間同盟条約、06年7月のプロイセン代理大使あてのトルコ外相の書簡、09年1月のトルコ・イギリス間講和条約、33年7月のロシア・トルコ間条約(ウンキアル・スケレッシ条約)で、この海峡の通過の問題が議論された。ロシア・トルコ間条約は、有効期間を8年とする防御同盟条約で、ロシアはトルコの要求がある場合、援軍を出すことを約束するかわりに、トルコはロシアのためにダーダネルス海峡を閉鎖し、ロシア以外の軍艦の通過を禁止することを秘密に約束した。1840年7月オーストリア、ロシア、イギリス、フランス、プロイセンおよびトルコの間で「トルコ領土保全に関するロンドン条約」が結ばれ、平時でも、トルコ以外の軍艦に対するボスポラス、ダーダネルス海峡の閉鎖を規定した。1841年7月に、同一国家の間で「海峡制度に関するロンドン条約」が結ばれ、トルコ以外の国の軍艦の海峡通過禁止が再確認された。しかし慣例上トルコ皇帝が許可する外国の大公使館役務軽軍艦の航行は例外とされた。クリミア戦争後の56年のパリ条約で、前記の「海峡制度に関するロンドン条約」を再確認し、さらに、パリ条約の付属書として「海峡制度に関する議定書」をも採択した。

[經塚作太郎]

国際海峡制度の確立

ボスポラス、ダーダネルス海峡の自由航行を確立させた1923年のローザンヌ条約では、ボスポラス、ダーダネルス海峡に対するトルコの主権を制限し、海峡の中立化と国際管理、ならびに海峡における諸外国の船舶の通過と航行の自由を認めた。ここに長年の懸案であったボスポラス、ダーダネルス海峡の自由航行制度(国際海峡)が確立した。その後トルコは、自国の安全保障の立場から、ボスポラス、ダーダネルス海峡の無制限的な開放に反対した。36年7月にスイスのモントルーで新しく「海峡制度ニ関スル条約」(モントルー条約)が結ばれ、トルコの安全ならびに黒海沿岸国の安全が害されない限り、ボスポラス、ダーダネルス海峡の諸外国の船舶による通過および航行の自由が認められることになった。すなわち、商船については、平時においてその国旗および積み荷のいかんを問わず、海峡の通過および航行の自由が認められる。また、トルコが戦争に参加して交戦国となったときでも、トルコと戦争状態にない非交戦国の商船は、敵国を援助しないことを条件として、海峡の通過と航行の自由が認められる。軍艦の通過について、平時においては、主力艦を除く小艦艇は、トン数および隻数制限のもとで、事前のトルコに対する通告により海峡の通過を認められる。非沿岸国の主力艦および潜水艦の通過は、原則として認められない。トルコが交戦国となったとき、またはトルコが急迫した戦争の脅威に遭遇するときは、外国の軍艦の通過についてトルコの裁量に任されるものとされた。第二次世界大戦後、モントルー条約の改正問題がおこり、とくに、ソ連が、ボスポラス、ダーダネルス海峡の管理を、もっぱら黒海沿岸国のみで定めようと提案したが、他の諸国の同意を得られず、現在もモントルー条約は有効な条約である。

 その後、国際海峡は、1982年(1994年発効)の「海洋法に関する国際連合条約」(国連海洋法条約)第37条で「公海または排他的経済水域一部分と公海または排他的経済水域の他の部分との間における国際航行に使用されている海峡」のことをいうと定義された。ここで言及された国際航行(すべての国の船舶の自由通航)を認めたもっとも早いものがモントルー条約で、コンスタンチノープル海峡(ボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡をひとまとめにした通称)の「通過、通航の自由原則」が認められた。今日、国際航行に使用されている海峡とは、国際条約で認められた海峡のほかに地理的基準にたって、国際的な航行の要路とされる海峡(たとえば、マラッカ海峡)および、使用度の国際的頻度が高い海峡(たとえば、ギリシアのケルキア島とアルバニア沿岸の間にあるコルフ海峡)をもさしてよんでいる。

[經塚作太郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「海峡問題」の意味・わかりやすい解説

海峡問題 (かいきょうもんだい)

一般には黒海と地中海を結ぶダーダネルス,ボスポラス両海峡の軍艦の通航権をめぐる国際紛争を指す。今日では重要な海上輸送路にあたるマラッカ,ホルムズ両海峡,さらに,海軍力の通過する他の海峡についても関心がはらわれている。海峡は,歴史的に,異なる文明や地域間の十字路として象徴的な意味が与えられてきた。とくに,頻繁な海上交通路にあたる海峡付近には交易の拠点が,戦略上の重要性が意識される海峡には軍事基地が,設けられてきた。そのため,国際情勢の変化が海峡をめぐる政治や経済に鋭敏に反映し,また,海峡周辺に紛争が生ずるとその影響は国際的な広がりをもつ場合が多い。旅行,物資の輸出,通信が主に海路で行われた地中海世界などでは,海峡の通航権は近代以前から重要な関心事であった。ところがダーダネルス,ボスポラス両海峡の通航権が軍事対立をはらむ〈海峡問題〉として意識されるにいたったのは,18世紀の後半以降である。とくに19世紀には,オスマン帝国の衰退などにより海峡周辺の政治秩序が不安定になり,イギリスとロシアの帝国主義政策の対立が海峡を舞台として展開されたが,それが〈海峡問題〉が外交の争点となった要因である。さらに,造船・海運・軍事技術の発達により,国際貿易の飛躍的な拡大と海軍の軍拡があったことも,海峡問題の背景となった。

 〈海峡問題〉の第1期は1774-1841年である。1774年にオスマン帝国からロシアが黒海と両海峡の商船の自由航行権を獲得した。さらに1833年のウンキャル・スケレッシ条約によりロシアは,黒海に面していない国々の軍艦の海峡の航行を禁止し,不凍港から暖水域に進出する突破口をつくった。それに対し,第2期の1841年~第1次大戦には,イギリスなどがロシア艦隊の地中海進出を封じこめた。まず,1841年のロンドン海峡協定ではオスマン・トルコ以外の軍艦の平時における不航行が決定され,さらに,クリミア戦争(1853-56)で英仏海軍は海峡を通過してロシアを攻撃し,同戦争後のパリ条約(1856)では,ロシアは黒海艦隊の保有を禁止された。ところが,第1次大戦とロシア革命,トルコ革命によって海峡をめぐる政治条件は一変し,第3期になる。まず,1923年のローザンヌ条約で,トルコに対する海峡の主権の承認,すべての海軍の自由航行権の承認,海峡の非武装が規定された。ところが,トルコとソ連の反対にあい,結局,36年のモントルー条約によって,海峡の再武装が承認され,軍艦の艦種・トン数・時期などの制限が付されて,今日まで至っている。

 19世紀の後半以降,電信・電話・陸上交通・航空網の発達により,海上交通は情報伝達手段としての意味を失い,旅客輸送も比重を著しく低下させた。とくに第2次大戦後の通信と交通の高速化とともに,その地理的特徴による海峡の機能は限られたものになった。ところが,1960年代末より再度〈海峡問題〉に関心が高まったが,その文脈は19世紀とは異なっている。第1の変化は,第2次大戦後,海上の物資輸送が飛躍的に増大し,とくに巨大タンカーがマラッカ,ホルムズなどの海峡にひしめくようになった点である。1953年からの25年間で,世界全体の鉄道による貨物輸送は3倍,トラックなど商業車の使用台数は4倍に増加したが,海上の物資輸送量全体は5.5倍,タンカーの輸送量は6倍,タンカーの総トン数は8倍に伸びた。これは,工業国が一次産品を発展途上国の輸出に依存してきた結果であり,タンカーのひしめく海峡は,工業国にとって経済の〈大動脈〉の脆弱(ぜいじやく)な部分として意味づけられることとなる。また,海峡沿岸の発展途上国にとっては,タンカーなどによる海峡の汚染が問題となり,さらに,船舶の通航は海運がもっぱら工業国の手に握られていることの象徴となっている。第2の変化は,1960年代末より,潜水艦が戦略ミサイルの移動発射台としての機能をもち,大陸間弾道ミサイル(ICBM)や長距離爆撃機とならぶ米ソの核戦略の3本の柱の一つとなった点である。そのため,米ソともに常時,相手の核搭載潜水艦を発見して追尾することが重要となった。そこで海軍基地に通じる海峡周辺には音響監視システムが設置され,海峡は潜水艦を発見し捕捉する戦略的な場所となっている。
国際海峡
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「海峡問題」の解説

海峡問題(かいきょうもんだい)

黒海と地中海を結ぶダーダネルス,ボスフォラス両海峡の支配,通航,閉鎖権をめぐる国際紛争。19世紀を通じて,両海峡は東方問題の一環として国際的係争点となった。冬季の軍艦の自由通航を狙うロシアは,1833年ヒュンキャール・イスケレシ条約により,オスマン帝国から両海峡の自由通航権を獲得した。だが,ロシアによる地中海進出の阻止を図るイギリスの圧力などにより,ロシアは40年ロンドン条約で軍艦の両海峡の平時通航を禁止され,さらに56年パリ条約で黒海艦隊の保有を禁じられた。その後,第一次世界大戦をへて,1923年ローザンヌ条約でいったん両海峡の非武装が宣言されたが,36年モントルー条約でトルコによるダーダネルス海峡の武装権が認められた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海峡問題」の意味・わかりやすい解説

海峡問題
かいきょうもんだい
Straits Question

戦略的意味をもつ海峡の通行権の問題一般のことであるが,普通は黒海から地中海にいたる海峡にあるダーダネルス (チャナッカレ) およびボスポラス両海峡の国際的地位の問題をさす。 18世紀後半以降,不凍港を求めて南下政策をとったロシア帝国と,地中海に利害をもつイギリス,フランスなどが対立した。 1833年のウンキャルスケレッシ条約により,ロシアの意図は一時達成されたかにみえたが,クリミア戦争後の 56年のパリ条約で挫折。その後幾多の変遷を経て,ようやく 1923年のローザンヌ会議で,両海峡の国際化および非武装化,ならびに,原則としていかなる国の商船,軍艦にも開放されることを内容とする海峡協定が締結されて一応の決着を見,36年の海峡制度に関するモントルー条約によって再確認された。

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