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井原西鶴 いはら さいかく

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美術人名辞典の解説

井原西鶴

江戸中期の俳人・浮世草子作家。本名は平山藤五、別号に鶴永・西鵬・松寿軒・二万翁。大坂生。俳諧は西山宗因が唱えた談林派に加わり、前衛的な詩風で活躍する。天和2年浮世草子『好色一代男』を発表、作家としても地位を得た。作風は好色物・武家物・町人物と変わるが、これらの作品は俳諧的な文をとり入れた雅俗折衷の文体とともに西鶴の名を近世文壇史上に大きく印した。代表作に『世間胸算用』等がある。元禄6年(1693)歿、52才。

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デジタル大辞泉の解説

いはら‐さいかく〔ゐはら‐〕【井原西鶴】

[1642~1693]江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。本名、平山藤五。西山宗因に俳諧を学び、矢数(やかず)俳諧を得意とした。浮世草子では、武士や町人の生活の実態を客観的に描き、日本最初の現実主義的な市民文学を確立。近代の作家に影響を与えた。著「好色一代男」「本朝二十不孝」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」「西鶴置土産」、俳諧の「西鶴大矢数」など。
武田麟太郎の小説。昭和10年(1935)から昭和12年(1937)にかけて、「人民文庫」誌に断続的に連載。

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百科事典マイペディアの解説

井原西鶴【いはらさいかく】

西鶴

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

井原西鶴 いはら-さいかく

1642-1693 江戸時代前期の俳人,浮世草子作者。
寛永19年生まれ。大坂の富商の出。西山宗因の談林俳諧(はいかい)をまなび,延宝年間に天下一の速吟で知られた。天和(てんな)2年「好色一代男」を刊行,これが浮世草子のさきがけとなった。つづいて好色物「好色一代女」,武家物「武道伝来記」,町人物「日本永代蔵(えいたいぐら)」「世間胸算用(むねさんよう)」などを雅俗折衷文で発表,文学史上に一時期を画した。元禄(げんろく)6年8月10日死去。52歳。別姓に平山。通称は藤五。別号に鶴永,西鵬,松風軒,松寿軒など。
【格言など】浮世の月見過しにけり末二年(辞世)

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とっさの日本語便利帳の解説

井原西鶴

人間は、欲に、手足の付[つい]たる、物そかし。\井原西鶴
浮世草子作家(一六四二~九三)。『好色二代男』より。

出典|(株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」
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大辞林 第三版の解説

いはらさいかく【井原西鶴】

1642~1693) 江戸前期の浮世草子・浄瑠璃作者・俳人。大坂の人。本名は平山藤五。別号、鶴永・二万翁など。談林俳諧で、自由奔放な句を詠みオランダ西鶴といわれ、また、一昼夜独吟二万三千句を詠み、矢数俳諧に終止符を打った。西山宗因没後、もっぱら浮世草子作者として雅俗折衷の文体で性欲・物欲・義理・人情などをテーマに好色物・武家物・町人物などに多くの傑作を残した。著「西鶴大矢数」「好色一代男」「好色五人女」「武家義理物語」「日本永代蔵」「世間胸算用」「本朝二十不孝」「西鶴置土産」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

井原西鶴
いはらさいかく

[生]寛永19(1642).大坂
[没]元禄6(1693).8.10. 大坂
江戸時代前期の俳人,浮世草子作者。本名,平山藤五。西鶴は俳号。別号,四千翁,二万翁,松風軒,松寿軒など。大坂の商家に生れ,15歳頃から俳諧を学び,21歳で点者となった。初め貞門に入り,鶴永と号した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

井原西鶴
いはらさいかく
(1642―1693)

江戸前期の俳諧(はいかい)師、浮世草子作者。大坂の富裕な商家に生まれ、本名は平山藤五(ひらやまとうご)と伝える。[浅野 晃]

俳諧師西鶴の登場

西鶴が俳諧師として独立したのは1662年(寛文2)21歳のことである。西山宗因(そういん)門下の談林俳諧の俊秀としての西鶴の特徴は、処女撰集(せんしゅう)『生玉万句(いくだままんく)』(1673)の序に記すように、「狂句、かる口」の句作であった。その後、「阿蘭陀(おらんだ)流」と称された自由奔放な俳諧的世界を拡大化して、延宝(えんぽう)年間(1673~81)、矢数(やかず)俳諧(弓術の大矢数をまねて、1日の間につくった句数の多さを競う俳諧興行)を創始して世間の注目を集める。77年(延宝5)5月に、1600句を独吟し、ついで80年5月には4000句を独吟、翌年『西鶴大矢数』と題して刊行した。その序に「自由にもとづく誹諧の姿を我仕はじめし已来也(このかたなり)」と宣言している。この間、75年4月、34歳のとき妻を失い、3人の幼児を抱える家庭的な不幸を経験する。速吟と風俗詩を武器とする西鶴の激しい自己主張は、新しい俳諧愛好者集団の統率者としての立場を生む。80年6月20日付けの下里勘州(しもざとかんしゅう)あての書簡に「今度西山宗因先師より、日本第一前代之俳諧の性と世上に申わたし、さてさてめいぼく此度(このたび)也」と書き、自らの立場を宣伝している。この集団は、歌舞伎(かぶき)、浄瑠璃(じょうるり)の演劇の世界、また遊里社会とも密接な関係をもち、しだいに巨大な勢力に成長する。これが浮世草子作家西鶴の誕生を促すのである。[浅野 晃]

『好色一代男』の出現

1682年(天和2)10月、大坂・思案橋荒砥屋(しあんばしあらとや)孫兵衛可心というまったく無名の人物を版元として世に出た『好色一代男』8冊は、その斬新(ざんしん)な構想と表現とによって、文学史上浮世草子時代の開幕を告げる記念碑的作品となった。ときに西鶴41歳。この作品は、上方(かみがた)版3種、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の挿絵入りの江戸版3種の刊行、また師宣の絵本としても流布し、上下都鄙(とひ)にわたって多くの読者を獲得した。[浅野 晃]

小説家西鶴の誕生

『一代男』の盛況は西鶴に自信と勇気を与え、第二作『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)(好色二代男)』8冊を、1684年(貞享1)大坂の商業書肆(しょし)池田屋から刊行し、自ら出版ジャーナリズムの渦中に入り、職業的な商業作家としての道を歩むことになる。このころ、談林俳諧の総帥西山宗因すでに亡く(1682年3月没)、俳諧に対する不信と絶望は西鶴の胸中にしだいに激しくなる。大坂・住吉神社の境内で、「神力誠を以(もって)息の根留(とむ)る大矢数」を発句とする、一日一夜2万3500句独吟興行という破天荒の事件を起こしたのは、84年6月5日のことであった。翌年には、小説の題材を遊里社会から一転して広く市井巷間(こうかん)に求め、諸国の珍譚(たん)奇譚集『西鶴諸国ばなし』5巻を池田屋から刊行し、続いて、当時評判の歌舞伎劇に刺激されて、実在の有名な人物をモデルとした『椀久一世(わんきゅういっせい)の物語』を発表する。これらの作品において、西鶴は生得の話芸的方法を駆使しつつ、ようやく小説的な主題として、傾斜する運命に翻弄(ほんろう)されながらもひたむきに生きる人間たちの哀れさやけなげさを発見してくるのである。この時期、西鶴は歌舞伎や浄瑠璃の演劇界へも深入りをみせる。83年(天和3)正月、役者評判記『難波(なにわ)(かお)は伊勢(いせ)の白粉(おしろい)』を刊行し、85年(貞享2)には、かねて贔屓(ひいき)の宇治加賀掾(かがのじょう)のために浄瑠璃『暦(こよみ)』『凱陣八嶋(がいじんやしま)』を新作する。この二つの作品は、近松門左衛門が新進の竹本義太夫(ぎだゆう)のために書いた『賢女(けんじょ)の手習并(ならびに)新暦』『出世景清』と競演になり、浄瑠璃史上画期的な事件を引き起こしたことで有名である。[浅野 晃]

流行作家西鶴

翌1686年(貞享3)に入ると、2月には大坂・森田庄太郎より『好色五人女』、6月には池田屋から『好色一代女』を刊行し、西鶴浮世草子は本格的な展開の時期を迎える。前者では、巷間で著名な悲恋物語を演劇的な緊張した場面のなかでみごとに形象化することに成功し、後者では、仮名草子以来の「懺悔物(さんげもの)」の構想を利用して1人の女性の流転の生涯を描き上げ、人生の深淵をのぞかせる人生観照の深さを示している。これ以後、多彩な作品群が続々と出現する。『本朝二十不孝』(1686.11)、『男色大鑑(なんしょくおおかがみ)』(1687.1)、『懐硯(ふところすずり)』(1687.3)、『武道伝来記』(1687.4)、『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(1688.1)、『武家義理物語』(1688.2)、『嵐無常物語(あらしはむじょうのものがたり)』(1688.3)、『色里三所世帯(いろざとみところしょたい)』(1688.6)、『新可笑記』(1688.11)、『好色盛衰記』(1688年中)、『一目玉鉾(ひとめたまぼこ)』(1689.1)、『本朝桜陰比事(おういんひじ)』(1689.1)の諸作である。こうした題材の拡散による多作現象は、西鶴が流行作家として商業出版界の焦点となり、書肆の求めに応じて趣向を凝らして執筆した結果である。作家西鶴の周囲には、全国各地の情報提供者の存在、さらには創作活動に立ち入った助力者の介在も推定できる。西鶴工房において、編集者西鶴の新しい才能が発揮されているのである。多彩な作品群において、転変きわまりない人間の運命と、善悪二途に揺れ動く世の人心に向けられた小説的主題はいっそうの深化を示してくる。[浅野 晃]

町人物の世界

1688年(元禄1)正月、町人物の第一作『日本永代蔵』6巻が、大坂・森田庄太郎、京都・金屋長兵衛、江戸・西村梅風軒と三都書林連名で出版される。元禄(げんろく)町人が直面した経済社会の光と影、そこに生きる町人大衆の転変たる運命を描いたこの作品は、ベストセラーとして全国的に広範な読者層を獲得することになる。続いて『甚忍記(じんにんき)』全8冊を刊行する予定であったが、これは未定稿として残され、遺稿集『西鶴織留(おりどめ)』(1694)にその大部分が吸収されたものと推定される。門人北条団水(だんすい)によって整理された遺稿集『西鶴俗つれづれ』(1695)、『万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)』(1696)、『西鶴名残(なごり)の友』(1699)の諸編もまたこの前後に執筆されたものと思われる。89年春以降、浮世草子の制作は急に衰えをみせ、一度は捨て去った俳諧へ復帰する動きが目だち、その俳風も淡々とした落ち着きさえ感じられる。このころ、眼病その他健康上の障害に悩んだようだが、92年正月、生前刊行された最後の町人物『世間胸算用(せけんむねさんよう)』5巻が、大坂・伊丹屋太郎右衛門(いたみやたろうえもん)、京都・上村(うえむら)平左衛門、江戸・万屋(よろずや)清兵衛から刊行される。大晦日(おおみそか)の24時間に焦点をあわせて、町人生活の悲喜こもごもの姿を描いた20編を収めているが、そこには立身出世を説く教訓や談理の傾向は影を潜め、赤裸々な町人生活の現実が巧みな話芸的方法にのって語り出されている。近代のリアリズム小説を思わせる作品を含み、絶望的な現実生活を「哀れにも又おかし」(巻5「平太郎殿(へいたろうどの)」)と見つめる強靭(きょうじん)な作家精神を指摘することができる。そこに作家西鶴が到達した人間観照の深さがあり、他の追随を許さない独自の世界が出現している。[浅野 晃]

西鶴の最期

1693年(元禄6)8月10日、辞世の句「人間五十年の究(きはま)り、それさへ我にはあまりたるにましてや 浮世の月見過しにけり末二年」を残して、大阪市中央区谷町3丁目にほど近い錫屋(すずや)町の草庵(そうあん)で、52歳の生涯を終える。絶筆となった草稿を北条団水が編集し、『西鶴置土産(おきみやげ)』と題してこの年の冬追善出版するが、遊女遊びの果てに零落した男たちを描いた15章は、『好色一代男』で出発した西鶴の最期を飾るにふさわしいものとなった。「人には棒振虫同前に思はれ」(巻2)の主人公のように、どん底に落ち込んだ人間たちが、ぎりぎりのところで示すせつないまでの心情の美を描いた作品がみられ、人間的な感動を表現している。転変きわまりない人世の諸相に限りない愛着を示し続けた西鶴は、人生の真実をはっきりと見据えたのであり、ここに後世の批評に堪えうる真価がある。「仙皓(せんこう)西鶴」の4字を刻んだ墓は、大阪市中央区上本町4丁目の菩提寺(ぼだいじ)誓願寺に、遺弟北条団水と下山鶴平の両名によって建立されている。[浅野 晃]

西鶴と近代文学

西鶴の文学は近代の作家たちにもさまざまな影響を与え続ける。尾崎紅葉の『伽羅枕(きゃらまくら)』(1870)や幸田露伴(ろはん)の『井原西鶴』(1870)など、西鶴の文体や趣向の妙を評価し、その影響が著しい。樋口一葉(ひぐちいちよう)も『大つごもり』(1894)、『たけくらべ』(1895)に西鶴調を生かした。自然主義文学時代には、西欧写実主義理論に導かれた西鶴理解が展開する。田山花袋(かたい)の『インキ壺(つぼ)』(1909)、正宗白鳥(まさむねはくちょう)の『古典について』(1927)などがあるが、なかでも真山青果(まやませいか)の西鶴傾倒は著しく、ついに『西鶴語彙(ごい)考証』(1948)のような本格的な研究を生む。また、武田麟太郎(りんたろう)の『井原西鶴』(1937)、織田作之助(おださくのすけ)の『西鶴新論』(1942)、太宰治(だざいおさむ)の『新釈諸国咄(ばなし)』(1945)などがあり、吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)の意欲的な現代語訳が話題になったこともある。[浅野 晃]
『暉峻康隆著『西鶴――評論と研究』上下(1948、50・中央公論社) ▽野間光辰著『西鶴年譜考証』(1952・中央公論社) ▽浅野晃・谷脇理史編『西鶴物語』(1978・有斐閣) ▽潁原退蔵・暉峻康隆・野間光辰編『定本西鶴全集』全14巻15冊(1949~75・中央公論社) ▽野間光辰他校注『日本古典文学大系 47・48 西鶴集』(1957、60・岩波書店) ▽暉峻康隆他校注・訳『日本古典文学全集 38~40 井原西鶴集』(1971~73・小学館) ▽天理図書館編『西鶴(図録)』(1965・天理図書館)』

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世界大百科事典内の井原西鶴の言及

【西鶴】より

…江戸前期の俳人,浮世草子作者。宗因門。姓は井原。別号は鶴永,雲愛子,四千翁,二万翁,西鵬(さいほう)。軒号は松風軒,松寿軒,松魂軒。出自や家系はすべて明らかでないが,一説によると,俗称を平山藤五という大坂の裕福な町人で,名跡を手代に譲り,気ままに生きることを選んだという(《見聞談叢》)。彼自身,15歳のころ俳諧を始め,21歳のころ点者になったというが,師承系列も明らかでなく,立机(りつき)の時期も,歳旦吟(歳旦帳)の見え始める1672年(寛文12)31歳のころとすべきであろう。…

【いけばな】より

…したがって元禄期の町人たちにとっては,立花を習うことは公家文化の一つを教養として身につけたのしむことであった。元禄期の井原西鶴が,〈立花は宮,御門跡がたの手業なり〉とし,近年は町人たちが立花を習い覚えて,接木の椿の枝をもぎとったり,鉢植えのウメモドキをひき切り,霊地の荷葉を折ったり,神山の杉を取り寄せたりするわがままのふるまいは,〈草木心なきにしもあらず,花のうらみも深かるべし,是只一日のながめ,世のつひえなり〉と,この立花流行を批判するほどのものであった。こうした立花の盛行期には多くの立花師たちが輩出し,大住院以信,高田安立坊周玉,桑原富春軒仙渓など専好の門人たちが活躍した。…

【日本永代蔵】より

西鶴作の浮世草子。正しくは〈にっぽんえいたいぐら〉と読む。1688年(元禄1)刊。6巻30章。西鶴町人物の第1作で,副題に〈大福新長者教〉とあり,1627年(寛永4)刊の仮名草子《長者教》を意識している。そのためこの作のねらいも致富出世のための教訓にあるかにみえるが,必ずしもそうではない。金銭の世界は伝統的な文学観念からするとき,もっとも非文学的な世界であったが,その世界を描いた新しい文学を,西鶴は《長者教》という先行の見馴れた形式を媒介にして読者のまえに送りだしたのである。…

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