日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジェームズ」の意味・わかりやすい解説
ジェームズ(Henry James)
じぇーむず
Henry James
(1843―1916)
アメリカの小説家、批評家。4月15日、ニューヨーク生まれ。ジェームズ家は、祖父が18世紀末にアイルランドから移住、ニューヨーク州で商売を営み、州屈指の資産を築いた。父ヘンリーは閑雅な生活のなかで文人エマソンらと交わり、独自の宗教哲学を構築している。息子のヘンリーは4男1女の第2子で、後の心理学者・哲学者ウィリアムの弟である。
ヘンリー・ジェームズの文学を方向づけるものとして三つの要素が指摘できる。一には父の独自な教育観、二には優秀な兄との関係、そして三には従妹(いとこ)ミニー・テンプルの死である。息子たちに独自の感性教育を心がけた父の意向により、生後数か月でヨーロッパ旅行に連れ出される。馬車の窓から眺めたパリの街の風景をもっとも古い記憶として、のちに述懐している。最上の教育を求めてアメリカからヨーロッパの各地を転々とするが、感性教育は13歳のとき、たまたま立ち寄ったルーブル美術館で完成する。彼はアポロン廊を埋める絵画のもつ完璧(かんぺき)な美の迫力に圧倒され、敗北感を味わうとともに、芸術的スタイルの完成がナポレオンの世界征服にも匹敵しうる創造的行為であると悟る。しばしば欧米間を往復するうち、1875年、ヨーロッパ永住を決意し、最初はパリに滞在、フロベール、ゴンクール(兄)、ゾラ、ドーデ、ツルゲーネフらと交わり、小説作法とリアリズム理論を学ぶ。1876年以降はイギリスに定住、欧米間の風習や考え方の相違が生む悲喜劇を主題とする「国際物語」を発表。すなわち『アメリカ人』(1877)、『デイジー・ミラー』(1879)、『ある婦人の肖像』(1881)の諸作で、作家としての地位を確立した。
兄ウィリアムは幼少より才気煥発(かんぱつ)、行動型で、つねに弟に一歩先んじていたことが、ヘンリーを兄とは対照的な観察型の人物に仕上げたといわれる。さらに18歳のとき、火災の消火作業中、背中に負傷、この一件が心理的抑圧の因となり、南北戦争にも行かず、生涯を独身で通し、鋭利な観察を根底に置く独自の「視点」の文学を開拓した。彼は特定の人物を設定し、その者の視点と意識を通して現実をとらえる方法で小説のドラマ性とリアリティを追求する。とくに1890年代には劇作の経験と相まって、「視点の劇化」の斬新(ざんしん)な実験を小説のなかで行った。芸術家を主人公とする物語、幽霊物語も数多い。『ねじの回転』(1898)は後者の代表例である。
従妹ミニーの肺結核による死は、青春、理想など人生価値の挫折(ざせつ)、裏切りの象徴として受け止められ、ジェームズのいう「災難の想像力」の門が開かれる。以後、裏切りと断念の主題が執拗(しつよう)に追求される。円熟期の三大小説、『鳩(はと)の翼』(1902)、『使者たち』(1903)、『黄金の盃(さかずき)』(1904)は、以上の主題と技法を渾然(こんぜん)と融合させ、欧米文化統合のビジョンを含むジェームズ文学の最高峰といえよう。50年にわたる作家生活の所産は、長編19、中短編110余、戯曲15、その他『アメリカ印象記』(1907)、ヨーロッパ旅行記、自伝回想録など、また数多くの評論も残している。1916年2月28日、ロンドンで没。
[岩瀬悉有]
『西川正身訳『デイジー・ミラー』(新潮文庫)』▽『蕗沢忠枝訳『ねじの回転』(新潮文庫)』▽『谷口陸男編『二十世紀英米文学案内1 ヘンリー・ジェイムズ』(1967・研究社出版)』▽『F・O・マシーセン著、青木次生訳『ヘンリー・ジェイムズ 円熟期の研究』(1972・研究社出版)』▽『谷口陸男編著『ヘンリー・ジェイムズ研究』(1977・南雲堂)』
ジェームズ(Elmore James)
じぇーむず
Elmore James
(1918―1963)
アメリカのブルース・ギタリスト、ボーカリスト。ブルースのギター奏法のなかでもっとも特徴的なサウンドをもち、つねに人気の高いスライド・ギターの名手であり、壮絶なボーカルのパワーもあり、南部からシカゴのブルース・シーンで活躍した。
ミシシッピ州ホームズ郡リッチランドに生まれる。プランテーションを転々とする生活を強いられたが、1936年にミシシッピ・デルタの町ベルゾナに住んだ時、音楽の基本を授かることになるロバート・ジョンソン、そしてサニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡSonny Boy Williamson Ⅱ(1899―1965)らと知り合い、当時最高レベルのサザン・ブルース(南部で歌われ、好まれた土臭いブルース・スタイルの総称)に浸る。
1940年ごろには、当時ジャズ/ブルースの世界にも押し寄せてきていた楽器の電気化を試みるようになり、ジョンソンが果たせなかった、エレクトリック・ブルース・ギターの展開に踏み込む。第二次世界大戦時には海軍に応召、帰国後ミシシッピ州カントンのラジオ修理屋で働きながらラジオ局への出演を経験して知名度を上げていった。1951年にジャクソンで「ダスト・マイ・ブルーム」をウィリアムソンのバックを得て録音、これがリズム・アンド・ブルース・チャートのトップ10に入るほどの大ヒットとなる。翌1952年からロサンゼルスのモダン・レーベルに継続的にレコーディング、「プリーズ・ファインド・マイ・ベイビー」「ハンド・イン・ハンド」(いずれも1952、『ザ・クラシック・アーリー・レコーディングス1951―1956』The Classic Early Recordings 1951-1956収録)に聞かれるスライド奏法はすさまじいほどの迫力をもっていた。シカゴでの活動が増えるとともに、J・T・ブラウンJ. T. Brown(1918―1969、テナー・サックス)やジョニー・ジョーンズLittle Johnny Jones(1924―1964、ピアノ)を含んだバンド、ブルームダスターズのアンサンブルもまとまりをみせていく。
1950年代後半以降はシカゴのレーベル、チーフやチェスにもレコーディングし、若手のブルースマンの台頭に刺激されるように重みのあるスロー・ブルースにも新境地を開拓し、「イット・ハーツ・ミー・トゥー」(1957)、「ザ・サン・イズ・シャイニング」(1960)といった曲を世に送り出した。
晩年はニューヨークの黒人プロデューサー、ボビー・ロビンソンBobby Robinson(1917―2011)のファイアー・レーベルに1959~1961年にレコーディングした「ザ・スカイ・イズ・クライング」「シェイク・ユア・マニーメイカー」「サムシング・インサイド・オブ・ミー」(『ザ・スカイ・イズ・クライング クラシック・ブルース・コレクテッド』The Sky is Crying; Classic Blues Collected(2001)収録)等、傑作は枚挙にいとまがない。
若いころから心臓を患っていたが、1963年帰らぬ人となった。当時、非黒人の間でのブルースに対する関心はまだジェームズにまで到達しておらず、45歳という若さで、しばしば歌ってきたように「マイ・タイム・エイント・ロング(おれは長くはない)」そのままになってしまったことは、ブルース界にとっても大きな痛手であった。
[日暮泰文]
『『ブルース&ソウル・レコーズ』第38号(2001・ブルース・インターアクションズ)』▽『Gayle Dean WardlowChasin' That Devil Music; Searching for the Blues(1998, Miller Freeman Books, San Francisco)』▽『Steve FranzThe Amazing Secret History of Elmore James(2003, Blue Source Publications, St. Louis)』
ジェームズ(William James)
じぇーむず
William James
(1842―1910)
アメリカの哲学者、心理学者。宗教思想家ヘンリー・ジェームズHenry James(1811―1882)の長男としてニューヨーク市に生まれる。小説家ヘンリー・ジェームズの兄。ハーバード大学で最初に化学、ついで比較解剖学と生理学を学び、さらに医学を専攻する。1869年医学博士の学位をとり、1873年よりハーバード大学で解剖学と生理学、1875年より心理学を教え、1885年哲学教授となる。1907年同大学退職。3年後にニュー・ハンプシャーのチョコルアで死去。
最初の著作『心理学原理』(1890)は12年の歳月をかけて執筆されたものであり、従来の単に思弁的、内省的な心理学にとどまらず、実証的、観察的な事実を重視する科学的心理学を志向する画期的な名著とされ、現代心理学に多大の影響を与えるとともに、深い哲学的含蓄によって現代哲学者たち(たとえばベルクソン、J・デューイ、ウィットゲンシュタイン)に広範な刺激を与えた。論文集『信じる意志』(1897)は、知的領域で真偽を決めることのできない命題はそれを信じることによって初めて真となる場合があることを明らかにし、また決定論を批判して自由意志を認める立場を守る諸論文から成り立っている。
1898年、カリフォルニア大学における哲学会での講演「哲学的概念と実際的結果」は、20年前にパースが唱えたプラグマティズムを独自の角度から紹介し、プラグマティズムの名を全世界に広めた。プラグマティズムに関する彼の基本的な立場は著書『プラグマティズム』(1907)と論文集『真理の意味』(1909)に詳しい。『多元的宇宙』(1909)では、宇宙はたった一つの原理によって支配されているのではなく、宇宙を統一的に記述しようとするどんな文章にも「そして」ということばが続くのであり、宇宙はいわば帝国ではなくて連邦共和国のように多元的なものであるという。
死後出版された『根本的経験論』(1912)では、世界は物でも心でもなく、いわば両者の交点である「純粋経験」からなると主張し、ある時期のバートランド・ラッセルや西田幾多郎(にしだきたろう)の『善の研究』(1911)に影響を与えた諸論文が集められている。『哲学の諸問題』(1911)は、入門書の体裁をとりつつ自らの哲学の体系的叙述を試みたものであるが、未完の遺稿となった。
[魚津郁夫 2015年10月20日]
『福鎌達夫他訳『ウィリアム・ジェイムズ著作集』7巻(1960~1962・日本教文社)』▽『桝田啓三郎・加藤茂訳『根本的経験論』(1978・白水社)』▽『今田寛訳『心理学』上下(岩波文庫)』
ジェームズ(Etta James)
じぇーむず
Etta James
(1938―2012)
アメリカの黒人女性シンガー。ダイナミックな歌声で知られる。ロサンゼルスに生まれる。ブルースからソウル・ミュージックまで幅広くこなし、アメリカ黒人音楽の大衆性を失わないことで定評がある。小さいころには名ジャズ・ピアニスト、アール・ハインズEarl Hines(1903―1983)のもとにいたこともあり、天才的な歌唱力が近隣に知れわたっている少女だった。
1955年、ジェームズとピーチズの共演作「ロール・ウィズ・ミー・ヘンリー」(のちに「ウォール・フラワー」と改題)がリズム・アンド・ブルース・チャートで1位となり、名声を獲得した。当時はロックン・ロールが台頭しアメリカに本格的な若者文化が花咲いた時期であり、またルース・ブラウンRuth Brown(1928―2006)やラバーン・ベイカーLaVern Baker(1929―1997)、リトル・エスターLittle Esther(1935―1984、のちのエスター・フィリップスEsther Phillips)といった若い黒人女性シンガーが堂々と自己主張を歌に込めた変革のときだったが、ジェームズもその大きな流れにのった一人として活躍した。このような女性シンガーの活躍が、アレサ・フランクリンに代表されるソウル・ミュージックにおける女性解放の歌声の基盤となっているのだった。
1960年代の一時期、ジェームズは麻薬に溺(おぼ)れたが、その後に復活し、1967年には代表的作品となる「テル・ママ」を発表、とくにイギリスを中心としたヨーロッパで、チャック・ベリーらロックン・ロール・スターと並び高い評価を得る存在となった。1998年、「ザ・ブルース・ホール・オブ・フェイム」(ブルースの殿堂)入りを認定される。1950年代から1960年代にかけて活躍した黒人の女性シンガーがつぎつぎと舞台から退きつつある時代にあって、貴重な存在として活動した。
[藤田 正]
ジェームズ(2世)
じぇーむず
James Ⅱ
(1633―1701)
スチュアート朝第4代のイギリス王(在位1685~88)。チャールズ1世の子でチャールズ2世の次弟。1648年、ピューリタン革命の動乱を逃れて大陸に亡命し、60年母国で王政復古がなると同時に帰国。兄チャールズの治世中は、二度にわたる対オランダ戦争で武功をあげたが、しだいにカトリック信仰に接近し、73年すべての公職から退いて自らカトリック教徒たるを公にした。この事実は次期王位継承者がカトリックとなることを予想させたため、議会の激しい抵抗にあったが、結局兄の死に伴い国王に即位した。即位直後には、前王の庶子モンマス公の反乱とスコットランドの反乱を鎮圧して王座を固めたものの、国民の嫌悪する大規模な常備軍を設置したうえ、絶対主義的な大権を振りかざして露骨なカトリック化政策をとったため、急速に人心の支持を失った。88年、王妃が男子を出産したことをきっかけに、有力貴族らはジェームズの長女メアリーの夫オレンジ公ウィリアムに武力救済を請うに至り、ウィリアムの上陸にあたっては国民のみならず軍隊の支持をも失い、国外逃亡のやむなきに至った(名誉革命)。翌年アイルランドを拠点として反乱を起こしたが失敗し、失意のうちにフランスで没した。ジェームズとその直系卑属の王位を正当とみなし続けたジャコバイトは、その後も数度反乱を起こした。
[大久保桂子]
ジェームズ(1世)((1566―1625))
じぇーむず
James Ⅰ
(1566―1625)
スコットランド王(在位1567~1625)兼イングランド王(在位1603~25)。スコットランド王としてはジェームズ6世。スコットランド女王メアリー・スチュアートの子で、母の退位により1歳で即位し、1603年エリザベス1世の死とともにイングランド王位を兼ねてスチュアート朝を開いた。しかし、スコットランド育ちのためイングランドの実状に疎く、宗教面では国教会強硬派を支持して旧教徒、ピューリタン双方の失望を招き、火薬陰謀事件やピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)の新大陸移住が起こった。政治面では王権神授説を信奉して専制支配を企て、国王も法には従うべきことを主張した裁判官エドワード・クックと衝突するなど、議会や国民の反感を買った。また、従来イングランドと対立していた旧教国スペインに接近したことも国民の不満を助長した。一方、チューダー朝諸王の鎮定した北アイルランドに新教徒による植民を推進し、今日のアイルランド問題のもとをつくった。
[松村 赳]
ジェームズ(1世)((1394―1437))
じぇーむず
James Ⅰ
(1394―1437)
スコットランドの国王(在位1406~1437)。即位後フランスに赴く途中、イングランドの船に捕らえられ、禁固18年。その間、ジェーン・ボウフォート(後の王妃)への愛をつづる寓意(ぐうい)詩『王の書(キングズ・クワイア)』(詩稿発見は死後。1783刊)を書く。この作品の韻律法「ライム・ロイヤル」は、チョーサーの『トロイルスとクリセイデ』などにも用いられた。
[玉泉八州男]
『鍋島能正訳『王の書』(1976・鷹書房)』
ジェームズ(Harry James)
じぇーむず
Harry James
(1916―1983)
アメリカのジャズ・トランペット奏者。ジョージア州のオールバニー生まれ。地方の楽団にいたが、1936年ベニー・グッドマン楽団に参加、独奏者として名をあげた。39年には自分の楽団を結成、40年代は甘美なダンス音楽を演奏したが、のちビッグ・バンド・ジャズに意欲を示した。華麗な技巧と輝かしい音色で人気を堅持し、白人のトランペッターではバイダーベック以来の名手とうたわれた。ラス・ベガスで没。
[青木 啓]