フリードリヒ・ウィルヘルム(読み)ふりーどりひうぃるへるむ(英語表記)Friedrich Wilhelm

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

フリードリヒ・ウィルヘルム(4世)
ふりーどりひうぃるへるむ
Friedrich Wilhelm Ⅳ
(1795―1861)

プロイセン国王(在位1840~61)。当初は学芸を愛好する進歩的人物として知られ、優柔不断で政治的指導力のない父フリードリヒ・ウィルヘルム3世に不満を募らせていた自由主義者たちの期待を担って即位したが、実際には中世の封建的キリスト教国家の復活を夢想する反動的ロマン主義者であった。1848年ベルリンに三月革命が起こるや、一時譲歩したが、同年末には憲法欽定(きんてい)して、社会主義勢力の台頭を恐れるブルジョア自由主義者を懐柔し、他方、ドイツ統一を目ざして開設されたフランクフルト国民議会が提供したドイツ皇帝の地位を拒絶して同議会を解散へと追い込んだ。晩年に精神に異常をきたし、58年から弟ウィルヘルム(後のウィルヘルム1世)が摂政(せっしょう)となった。

[良知 力]


フリードリヒ・ウィルヘルム
ふりーどりひうぃるへるむ
Friedrich Wilhelm
(1620―1688)

ブランデンブルク選帝侯(在位1640~88)。ブランデンブルク・プロイセンの絶対主義の基礎を築いた君主で「大選帝侯」der Große Kurfürstとよばれる。三十年戦争の終結にあたってポメラニア東部やマクデブルクを獲得した。内政においては1644年常備軍を設置し、また枢密参議会を中心に中央官庁を整備して、雑多な領邦の集合体にすぎなかったブランデンブルク・プロイセンに統一的君主国体制を築いた。各地の身分制議会に拠(よ)って、これに抵抗する貴族勢力に対しては、武力で威圧して常備軍とそのための課税を認めさせたが、それと引き換えに、貴族の領内における特権を承認し、グーツヘルシャフトの発展に法的根拠を与えた。

[坂井榮八郎]


フリードリヒ・ウィルヘルム(1世)
ふりーどりひうぃるへるむ
Friedrich Wilhelm Ⅰ
(1688―1740)

プロイセン国王(在位1713~40)。プロイセン絶対主義の確立者で、その軍人的性格から「軍人王」Soldatenkönigとよばれる。近衛(このえ)連隊に長身兵を集めたことは有名である。内政においても軍隊の増強とそれを支える財政の整備に重点を置いたが、彼はこれを組織的、体系的に行う才能を有した。傭兵(ようへい)に依存した従来の軍隊を国内での徴兵中心の軍隊に切り替えた「カントン(徴兵区)制度」の施行(1733)、また総監理府の設置(1723)による国内財務行政の一元化は彼の大きな功績である。王権を「青銅の岩」のごとくに安定させると呼号した国王は、財政面では貴族の抵抗を排除し、他方貴族を将校に登用して、国王と一体の貴族将校団をつくった。そして行政にも軍隊的規律を要求し、産業振興に努めるとともに率先して節倹を励行したこの「軍人王」は、その没時6万6000の強兵と700万ターラーを超える軍用金を残したのである。

[坂井榮八郎]


フリードリヒ・ウィルヘルム(3世)
ふりーどりひうぃるへるむ
Friedrich Wilhelm Ⅲ
(1770―1840)

プロイセン国王(在位1797~1840)。性格は優柔不断で指導力に欠けていたため、内外の難局を担いきれず、そのためプロイセンの地位低下を招いた。イエナ戦い(1806)に敗れてナポレオン1世に従属し、プロイセン改革にも不徹底な態度をとった。ウィーン会議(1814~15)後はメッテルニヒに従属して解放戦争時の憲法制定の約束も履行せず、また1834年の全ドイツ的な関税同盟の結成にも個人的には参与しなかった。

[岡崎勝世]


フリードリヒ・ウィルヘルム(2世)
ふりーどりひうぃるへるむ
Friedrich Wilhelm Ⅱ
(1744―1797)

プロイセン国王(在位1786~97)。「大王」フリードリヒ2世の甥(おい)。フランス革命に際しオーストリアと同盟して革命に干渉したが、形勢が不利になると1795年バーゼルで単独講和を結んで戦線を離脱、他方第二次、第三次のポーランド分割に加わってポーランドを滅亡させた。内政はウェルナーらの寵臣(ちょうしん)に動かされて反動政治を行っている。

[坂井榮八郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

フリードリヒ・ウィルヘルム
Friedrich Wilhelm

[生]1620.2.16. ケルン
[没]1688.5.9. ポツダム
ブランデンブルク選帝侯 (在位 1640~88) 。「大選帝侯」とも呼ばれる。ホーエンツォレルン家の出身。 1640年選帝侯となる。ウェストファリアの講和で東ポンメルンなどを得たほか,三十年戦争中に編成した軍隊を戦後も解散せず,ポーランド,スウェーデンの戦争に乗じて,1660年のオリーバ条約で公領プロシアに対するポーランド王の宗主権を廃止することに成功した。ブランデンブルク=プロシアの中央集権的支配をいっそう強めるため,常備軍の建設と並行して,1660年代に諸州の等族会議から財政への干渉権を奪い,郡部には地租,都市には消費税の制度を確立することにより,軍事・官僚国家としてのプロシアの絶対王政に道を開いた。財政改善のため国内産業の育成に努め,亡命ユグノーを多く受け入れたことでも知られる。

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