プロイセン国王(在位1840~61)。当初は学芸を愛好する進歩的人物として知られ、優柔不断で政治的指導力のない父フリードリヒ・ウィルヘルム3世に不満を募らせていた自由主義者たちの期待を担って即位したが、実際には中世の封建的キリスト教国家の復活を夢想する反動的ロマン主義者であった。1848年ベルリンに三月革命が起こるや、一時譲歩したが、同年末には憲法を欽定(きんてい)して、社会主義勢力の台頭を恐れるブルジョア自由主義者を懐柔し、他方、ドイツ統一を目ざして開設されたフランクフルト国民議会が提供したドイツ皇帝の地位を拒絶して同議会を解散へと追い込んだ。晩年に精神に異常をきたし、58年から弟ウィルヘルム(後のウィルヘルム1世)が摂政(せっしょう)となった。
[良知 力]
ブランデンブルク選帝侯(在位1640~88)。ブランデンブルク・プロイセンの絶対主義の基礎を築いた君主で「大選帝侯」der Große Kurfürstとよばれる。三十年戦争の終結にあたってポメラニア東部やマクデブルクを獲得した。内政においては1644年常備軍を設置し、また枢密参議会を中心に中央官庁を整備して、雑多な領邦の集合体にすぎなかったブランデンブルク・プロイセンに統一的君主国体制を築いた。各地の身分制議会に拠(よ)って、これに抵抗する貴族勢力に対しては、武力で威圧して常備軍とそのための課税を認めさせたが、それと引き換えに、貴族の領内における特権を承認し、グーツヘルシャフトの発展に法的根拠を与えた。
[坂井榮八郎]
プロイセン国王(在位1713~40)。プロイセン絶対主義の確立者で、その軍人的性格から「軍人王」Soldatenkönigとよばれる。近衛(このえ)連隊に長身兵を集めたことは有名である。内政においても軍隊の増強とそれを支える財政の整備に重点を置いたが、彼はこれを組織的、体系的に行う才能を有した。傭兵(ようへい)に依存した従来の軍隊を国内での徴兵中心の軍隊に切り替えた「カントン(徴兵区)制度」の施行(1733)、また総監理府の設置(1723)による国内財務行政の一元化は彼の大きな功績である。王権を「青銅の岩」のごとくに安定させると呼号した国王は、財政面では貴族の抵抗を排除し、他方貴族を将校に登用して、国王と一体の貴族将校団をつくった。そして行政にも軍隊的規律を要求し、産業振興に努めるとともに率先して節倹を励行したこの「軍人王」は、その没時6万6000の強兵と700万ターラーを超える軍用金を残したのである。
[坂井榮八郎]
プロイセン国王(在位1797~1840)。性格は優柔不断で指導力に欠けていたため、内外の難局を担いきれず、そのためプロイセンの地位低下を招いた。イエナの戦い(1806)に敗れてナポレオン1世に従属し、プロイセン改革にも不徹底な態度をとった。ウィーン会議(1814~15)後はメッテルニヒに従属して解放戦争時の憲法制定の約束も履行せず、また1834年の全ドイツ的な関税同盟の結成にも個人的には参与しなかった。
[岡崎勝世]
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ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯。在位1640-88年。その治績により〈大選帝侯〉と呼ばれる。巧みな外交で属領プロイセン公国をポーランドの宗主権から解放したほか,とくに国内政治の面で,特権的な貴族や自治都市の勢力を押さえ,常備軍と租税制度を導入し,集権的な官僚行政機構の基礎を据えた。この点で,プロイセン絶対主義の先駆者とみなされる。
執筆者:成瀬 治
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…三十年戦争の際,ブランデンブルクは,スウェーデンの介入に対して最初のうち反抗的な態度をとったため,スウェーデン軍・皇帝軍の双方によって国土を荒らされ,ユンカーの勢力もかなり弱まった。
[ブランデンブルク・プロイセンの発展]
1640年に〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)が即位すると,彼はフランス,スウェーデン,ポーランドなどの間で巧みな外交政策を展開し,ウェストファリア条約で東部ポンメルンを獲得したほか,60年にはこれまでポーランドの宗主権に服していたプロイセン公国に対する完全な主権をかちとって,北ドイツの強国としてのプロイセンの基礎をすえた。また,国内政治の面でも,ユンカーをはじめとする諸領域の特権身分の抵抗を排して,常備軍と租税制度を確立し,中央集権的な官僚行政機構の建設にとりかかった。…
… これ以後,プロイセン公国は,ホーエンツォレルン家のもとに,同君連合のかたちで,歴代のブランデンブルク選帝侯の支配をうけるが,プロイセンに対するポーランドの宗主権はなおも存続した。ようやく〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)のとき,スウェーデン・ポーランド間の戦争(1655‐60)に乗じて,ブランデンブルクはポーランドからプロイセン公国における完全な主権を獲得し(1657),1660年のオリバOliva和約でこの主権はスウェーデン・ポーランド両国により承認された。 プロイセン公国でも,ブランデンブルクにおけると同様,16世紀以来ユンカー(地方貴族)の農奴制的な直営地経営(グーツヘルシャフト)が発展していた。…
…そして1615年,プロイセン公家の断絶とともに,ブランデンブルクのホーエンツォレルン家がプロイセン公をも兼ねることとなる。40年にフリードリヒ・ウィルヘルムが登位するまで,ブランデンブルクは有能な君主に恵まれなかったが,かねてより展開されていた婚姻政策の結果,1614年にはライン下流域に,小さいながら商工業の進んだクレーベ公国とマルク伯領を獲得した。 フリードリヒ・ウィルヘルムが,ブランデンブルク・プロイセンの貴族(ユンカー)の政治権力を打ち破り,絶対主義への道を切り開いてのち,次の選帝侯フリードリヒ3世は,スペイン継承戦争で皇帝を支援する代償として,プロイセン王の称号を授けられ,フリードリヒ1世と称した。…
※「フリードリヒウィルヘルム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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