岩本 栄之助
イワモト エイノスケ
明治・大正期の株式仲買人
- 生年
- 明治10(1877)年4月2日
- 没年
- 大正5(1916)年10月27日
- 出生地
- 和歌山県海草郡下津町
- 出身地
- 大阪府大阪市南区
- 学歴〔年〕
- 大阪高卒,明星外語学校
- 経歴
- 株式仲買人・岩本栄蔵の二男。明治39年大阪株式取引所仲買人となる。日露戦争後の狂乱相場で200万円の利益を獲得、若くして“北浜の風雲児”と称された。“義俠の人”とも呼ばれ、43年相場で得た資金100万円(現在の100億円以上)を大阪市に寄付、大正期の名建築といわれる中之島の中央公会堂(大正7年竣工)を建てたことで知られる。また、野村証券創立者・野村徳七の窮地を救うなどのエピソードの持ち主でもある。第一次大戦後の相場に失敗し、5年10月自宅でピストル自殺を図り、5日後死亡した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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岩本栄之助
没年:大正5.10.27(1916)
生年:明治10(1877)
明治大正期の株式仲買人。大阪株式取引所創業以来の仲買人であった岩本栄蔵の次男。明治39(1906)年父栄蔵のあとを継いで大阪株式取引所仲買人となり,45年仲買人組合の委員長に選ばれた。栄之助が義侠心に富んだ正義派の株式仲買人として名を高め,財をなし,また財も生命も失ったのは,弱気筋売方の懇請を容れた3度にわたる果断な売出動であった。最初の40年1月の株式相場高騰と大暴落により200万円の利益を得たが,3度目の大正5(1916)年第1次世界大戦時には,どこまでも騰勢衰えず,ついに行き詰まり,10月22日拳銃で自殺をはかり,5日後に絶命した。明治42年秋,渋沢栄一を団長とする渡米実業団に加わり,大阪財界代表のひとりとして渡米し,特に米国における公共事業出捐の実情に注目した。これを直接の契機として,大阪市に100万円を寄付し,中央公会堂建設が実現した。しかしその落成は栄之助の自殺から2年後の大正7年であった。<参考文献>宮本又次『郷土史にかがやく人びと』2巻
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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岩本栄之助 いわもと-えいのすけ
1877-1916 明治-大正時代の株式仲買人。
明治10年4月2日生まれ。39年大阪株式取引所仲買人となる。40年200万円の利益をえたが,第一次大戦がはじまってからは相場に失敗。大正5年10月22日ピストル自殺をはかり,27日死去。40歳。生前100万円を大阪市に寄付,7年中之島公会堂がたてられた。大阪出身。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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岩本 栄之助 (いわもと えいのすけ)
生年月日:1877年4月2日
明治時代;大正時代の株式相場師。仲買人組合委員長
1916年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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