デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津忠兼」の解説
島津忠兼(1) しまづ-ただかね
越前家島津氏。播磨(はりま)(兵庫県)揖保荘(いぼのしょう)の地頭。元弘(げんこう)の乱では足利尊氏の軍にくわわる。建武(けんむ)3=延元元年(1336)以降は,北朝方として播磨守護の赤松則村(のりむら)のもとで軍功をたてた。初名は忠能(ただよし)。
…旧国名。薩州。鹿児島県西半部。
【古代】
西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」