赤松則村(読み)アカマツノリムラ

デジタル大辞泉 「赤松則村」の意味・読み・例文・類語

あかまつ‐のりむら【赤松則村】

[1277~1350]南北朝時代の武将。法名は円心。元弘の変では天皇方に属して討幕に参加したが、建武の中興後は足利尊氏あしかがたかうじを助けて北軍で活躍し、播磨はりまの守護となった。

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精選版 日本国語大辞典 「赤松則村」の意味・読み・例文・類語

あかまつ‐のりむら【赤松則村】

  1. 北朝前期の武将。円心と号す。播磨の守護。元弘の乱で反幕軍として挙兵功績をあげたが、のち建武政権に飽き足らず、足利尊氏を助けて活躍。建治三~観応元=正平五年(一二七七‐一三五〇

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朝日日本歴史人物事典 「赤松則村」の解説

赤松則村

没年:観応1/正平5.1.13(1350.2.20)
生年:建治3(1277)
鎌倉から南北朝時代にかけての武将。茂則の子。通称次郎。法名円心。播磨国佐用荘の地頭の一族だったが,護良親王の令旨を受けて山陽地方では最も早く宮方(南朝方)につき,正慶2/元弘3(1333)年1月苔縄城に挙兵した。次いで山陽道を攻め上り,5月足利高氏(尊氏)と共に六波羅を攻め落とした。その功により建武政権で播磨守護職を与えられたが,まもなく理由なく取り上げられ新政に不満を抱くようになる。建武2(1335)年尊氏が新政権に反して関東に向かうとこれに応じ,次男貞範を同行させた。翌年2月尊氏が,京都で北畠顕家らに敗れて九州に西走するとき,光厳上皇の院宣を奉じて朝敵となるのを免れたのは則村の発案によるといわれる。次いで播磨白旗城に立てこもって新田義貞率いる尊氏追討軍の進撃を阻み,尊氏の再上洛を助けた。11月に尊氏が室町幕府を開くと播磨守護に復帰,長男範資は摂津,次男貞範は美作の守護に任ぜられた。観応1/正平5(1350)年の観応の擾乱では尊氏・高師直方に与し,播備国境の船坂峠を固めて足利直冬進軍に備えたが,その直後京都七条の自邸で病死した。禅に深く帰依し,京都より雪村友梅を招いて苔縄に法雲寺を建てた。また宗峰妙超が京都紫野に大徳寺を開くと最初檀越となってこれを援助するが,それは妙超が播磨出身であるのみならず,姉の子であったことにもよると思われる。<参考文献>高坂好『赤松円心・満祐』

(榎原雅治)

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改訂新版 世界大百科事典 「赤松則村」の意味・わかりやすい解説

赤松則村 (あかまつのりむら)
生没年:1277-1350(建治3-正平5・観応1)

南北朝時代の武将。法名円心。護良(もりよし)親王の令旨に応じ,六波羅探題の攻略など元弘の乱で活躍し,建武政権の成立に力を尽くしたが,報いられるところ少なく,1336年(延元1・建武3)足利尊氏が建武政権にそむいて九州下向の際その与党となる。播磨の守護職に補任され,新田義貞軍の攻撃を防ぎ,さらに尊氏の上洛,京都制圧に功があった。播磨では守護代に柏原氏,宇野氏ら一族を任じ,郡ごとに郡使(こおりし)を配して定役夫の譴責,徴収を行わせるなど支配機構を整備した。禅僧との交流も深く,一族の宗峰妙超(大灯国師)の檀那として大徳寺の創建に関与し,また雪村友梅を開山として播磨赤穂郡苔縄城下に法雲寺を開創した。雪村の没後,建仁寺にその塔所大竜庵を営み,晩年にはそれに隣接して私邸を建てた。京都七条邸に没し,大竜庵に埋葬された。諡号(しごう)は法雲寺殿月潭円心。
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百科事典マイペディア 「赤松則村」の意味・わかりやすい解説

赤松則村【あかまつのりむら】

南北朝時代の武将。法名円心(えんしん)。茂則(もちのり)の子。播磨(はりま)の守護。元弘の乱で反幕府軍として活躍し,建武政権の成立に尽くしたが厚遇されず,足利尊氏の叛に応じて北朝軍に走った。播磨で新田義貞らと戦い,湊川(みなとがわ)で楠木正成を破るなど功績多く,守護大名赤松氏の基礎をつくった。
→関連項目悪党

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「赤松則村」の解説

赤松則村
あかまつのりむら

1277~1350.1.11

鎌倉後期~南北朝期の武将。播磨国佐用(さよ)荘地頭茂則の子。次郎。法名円心(えんしん)。同荘の代官で六波羅探題被官小串氏のもとにあった。元弘の乱に際し,護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)をうけて同荘内の苔縄(こけなわ)城で挙兵。播磨国人を集めて東上,足利尊氏らとともに六波羅を攻め落とした。建武政権によって播磨国守護職を与えられたが,まもなく没収,恩賞は佐用荘の安堵に限られた。そのため,尊氏が建武政権に離反するとただちに呼応,尊氏が九州にのがれた際,追走する新田義貞軍を佐用荘内の白旗城で支えるなど,室町幕府の成立に大いに貢献。初代の播磨国守護に任じられ,同氏の守護大名としての発展の基礎を築いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「赤松則村」の意味・わかりやすい解説

赤松則村
あかまつのりむら
(1277―1350)

南北朝時代の武将。法名円心(えんしん)。元弘(げんこう)の乱のとき六波羅探題(ろくはらたんだい)の攻略などに活躍し、建武(けんむ)政権の成立に功があったが、1336年(延元1・建武3)足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武政権に背くとその与党になり、播磨(はりま)国守護職に任ぜられる。守護代には一族の柏原氏、宇野氏らを任じ、各郡に郡使(こおりし)を配置し、支配機構を整備、領国支配の基盤を築いた。禅僧との交流も深く、一族の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の檀那(だんな)として大徳寺の創建にかかわり、また雪村友梅(せっそんゆうばい)を開山として赤穂(あこう)郡苔縄城下に法雲寺を開創。諡号(しごう)は法雲寺殿月潭円心。

[岸田裕之]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤松則村」の解説

赤松則村 あかまつ-のりむら

1277-1350 鎌倉-南北朝時代の武将。
建治(けんじ)3年生まれ。元弘(げんこう)の乱では足利尊氏とともに六波羅(ろくはら)探題をおとす。建武2年尊氏が新政府に反するとこれに応じ,追討の新田義貞軍を播磨(はりま)(兵庫県)で阻止した。播磨守護をつとめ,守護大名赤松氏の基礎をきずいた。禅に帰依(きえ)し,大徳寺創建につくした。貞和(じょうわ)6=正平(しょうへい)5年1月11日死去。74歳。播磨出身。通称は次郎。法名は円心。
【格言など】およそ合戦には旗をもって本(もと)とす。官軍は錦の御旗を先だつ(「梅松論」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤松則村」の意味・わかりやすい解説

赤松則村
あかまつのりむら

[生]建治3(1277)
[没]正平5=観応1(1350).1.11.
南北朝時代の播磨守護。茂則の子。法名円心。元弘の乱に後醍醐天皇の討幕に応じ大功を立てたが,賞少く,足利尊氏が建武政府にそむくとこれに従い,播磨守護となった。以後,室町幕府の確立に貢献。禅宗に帰依,播磨に法雲寺を建立。 (→赤松氏 )

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旺文社日本史事典 三訂版 「赤松則村」の解説

赤松則村
あかまつのりむら

1277〜1350
南北朝時代の武将。播磨守護
法名円心。元弘の変に反幕府軍として播磨で挙兵し活躍したが,建武の新政では優遇されず,足利尊氏の挙兵とともに北朝に投じ活躍。尊氏から播磨守護に任じられ,赤松氏繁栄の基礎を築いた。

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世界大百科事典(旧版)内の赤松則村の言及

【白旗城】より

…兵庫県赤穂郡上郡町赤松の白旗山(標高440m)の山頂に築かれた山城。1336年(延元1∥建武3)赤松則村(円心)が新田義貞を迎え討つために築いた。城の名は,源氏の白旗が天空より舞い下ったという伝説による。…

【播磨国】より

…こうして悪党活躍のまま南北朝の内乱を迎える。
[南北朝・室町・戦国時代]
 摂関家の九条家領佐用荘に本拠をもつ赤松則村は悪党勢力の結集に成功し,33年(元弘3)護良親王の反幕挙兵に応じ,後醍醐に供奉して入京した。だがその結果播磨を得たのは新田義貞で,不満をもった則村はつづく足利尊氏の反乱に参加し36年(延元1∥建武3)播磨守護職を得た。…

※「赤松則村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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