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島津忠長 しまづ ただなが

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

島津忠長 しまづ-ただなが

1551-1610 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)20年7月17日生まれ。従兄(いとこ)島津義久の九州平定をたすけ,文禄(ぶんろく)・慶長の役では島津義弘の旗下で勇名をはせる。薩摩(さつま)(鹿児島県)東郷領主をへて,慶長5年(1600)宮之城領主。7年義久の使者となり,徳川家康関ケ原の戦いの和議を講じた。慶長15年11月9日死去。60歳。薩摩出身。通称は又五郎。号は紹益。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

島津忠長

没年:慶長15.11.9(1610.12.23)
生年:天文20.7.17(1551.8.18)
安土桃山時代の薩摩(鹿児島県)の武将。父は島津忠良の子尚久。図書頭。天正13~15(1585~87)年,島津氏の家政機関である老中を務めた。老中のうち唯一嫡家の出であった。天正4年の日向高原城の伊東氏攻略に当たり,翌年,大隅串良城(鹿児島県串良町)の地頭に補任された。日向石城での大友義鎮軍攻略や,肥前(佐賀県)の大名竜造寺隆信を破って滅亡させた同14年の合戦,豊臣秀吉の朝鮮侵略における泗川合戦などで数々の軍功を立てる。天正15年,秀吉に敗北して上洛する当主義久に同行。人質としてであったという。慶長5(1600)年に祁答院宮之城の地を与えられ,子孫はこの地を代々襲封した。<参考文献>『本藩人物誌』(鹿児島県史料集)

(福島金治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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